第1話 怖い顔のお客様
朝一番の水やりを終えた私の指先は、まだひんやりと湿っていた。
王都の路地裏、レンガ畳の片隅にへばりつくように建つ我が家兼店舗――花屋『ひだまり亭』の朝は早い。東の空が白むと同時に起き出し、店先のバケツを並べ替え、昨日の売れ残りがまだ息をしているかを確認する。それが店主である私の、ルチア・ブルームの変わらない儀式だ。
古びた木の看板を「営業中」にひっくり返す。
蝶番が軋む音と共に、朝の冷たい空気が肺の奥まで滑り込んだ。
今日も、王都は平和だ。少なくとも、この店の半径五メートル以内は。
「おはよう、今日も綺麗に咲いてくれたのね」
店先に並べた黄色いパンジーの土を指で撫でる。
乾きかけた土の感触が、指紋の溝にざらりと残る。
貴族の分家とはいえ、没落寸前の我が家に庭師を雇う余裕なんてない。土の配合から仕入れ、販売、そして売れ残りの処分まで、すべて私の仕事だ。
エプロンのポケットから剪定ばさみを取り出す。使い込まれた柄の重みが、今日も一日踏ん張らなければという現実を掌に教えてくる。
経営は、正直に言って火の車だった。
王都一の小さな花屋なんて聞こえはいいけれど、実際は「王都一目立たない花屋」だ。大通りにはガラス張りの立派な生花店があるし、貴族たちは御用達の園芸師を持っている。わざわざこんな路地裏まで足を運ぶのは、よほどの物好きか、迷子くらいのものだ。
それでも、私はこの店が好きだった。
言葉足らずな人たちが、花に想いを託して持ち帰る。その瞬間の、少しだけ照れくさそうな横顔を見るのが好きだったから。
ジョウロを持って立ち上がった、その時だ。
不意に、通りの喧騒が止んだ。
まるで冷水を浴びせられたように、行き交う人々の話し声がぴたりと途絶える。鳥のさえずりさえも消えた静寂の中、カツ、カツ、と重厚な靴音だけが響いてくる。
反射的にジョウロを抱きしめる。心臓が早鐘を打ち、嫌な予感で背筋が粟立った。
角を曲がって現れたのは、一人の男性だった。
背が高い。見上げるような長身を、仕立ての良い黒いフロックコートに包んでいる。肩幅は広く、胸板は厚く、どう見てもただの散歩客ではない。
そして何より、顔が怖かった。
彫刻のように整った美貌なのに、眉間には深い皺が刻まれ、アイスブルーの瞳は絶対零度の冷気を放っている。
「……おい、あれ」
「ああ、間違いない。『氷の侯爵』だ……」
通りすがりの商人が、ひきつった声で囁くのが聞こえた。
氷の侯爵。エリオット・アークライト。
王都の治安を一手に担う名門侯爵家の当主にして、その冷徹な仕事ぶりから「歩く吹雪」と恐れられる人物。
なぜ、そんな雲の上の存在がここに?
私の思考がフリーズするのと同時に、彼の足が店の前で止まった。
長い影が、店先のパンジーを覆い隠す。
日差しが遮られ、私の視界が一気に暗くなった。
逃げたい。
本能が警鐘を鳴らしている。エプロンの裾を握りしめる手が、小刻みに震え始めた。
地上げだろうか。それとも、昨日店の前に停まっていた馬車に水をかけてしまったことがバレたのか。あるいは、もっと恐ろしい何か――。
カラン、コロン。
軽快なドアベルの音が、場違いに明るく響く。
彼は無言のまま、店の中へと足を踏み入れた。
「い、いらっしゃいませ……!」
裏返った声が出た。
喉が引きつり、笑顔を作ろうとした頬の筋肉が痙攣する。
狭い店内は、彼一人が入っただけで圧迫感が凄まじかった。天井の梁に頭がつきそうだ。花の香りが漂う空間に、張り詰めた緊張感が充満していく。
エリオット侯爵は、入り口近くで立ち尽くしていた。
その視線が、店内をゆっくりと巡る。
値札を見るわけでもなく、花を愛でるわけでもない。まるで獲物を探す猛獣のような鋭い眼光が、棚の隅々までを突き刺していく。
「…………」
無言。
胃の腑が冷たくなる。
何か言わなければ。店主として、客(?)をもてなさなければ。
「あ、あの! 何か、お探しでしょうか……?」
精一杯の勇気を振り絞り、声をかけた。
エリオット侯爵が、ゆっくりとこちらを向く。
アイスブルーの瞳と目が合った瞬間、呼吸が止まった。
「…………」
彼は何も言わない。
ただ、じっと私を見下ろしている。
その眉間には、先ほどよりも深い皺が刻まれていた。
怒っている。絶対に怒っている。
私の背中を冷や汗が伝い落ちる。何をした? 私が何をしたというの?
沈黙が痛い。
一秒が永遠に感じられる。
耐えきれず、私は視線を泳がせた。手近なバケツに挿さっていたガーベラが目に入る。
鮮やかなオレンジ色。花言葉は「忍耐」、そして「冒険心」。
今の私に必要なものだ。
「……は、花! お花をお求めですか!?」
沈黙を破りたくて、私は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「こちらは今朝入荷したばかりのガーベラです! とても元気で、長持ちしますし、えっと、一輪あるだけでお部屋が明るくなりますし……!」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、この恐ろしい沈黙を埋めるために、必死で花の魅力を並べ立てる。
私の言葉を聞いているのかいないのか、侯爵は微動だにしない。
やっぱりダメだ。こんな路地裏の貧相な花なんて、高貴な侯爵様の目に留まるはずがない。
言葉が尽き、再び絶望的な静寂が降りようとした時だった。
「……それを」
低く、地を這うような声が響いた。
私はびくりと肩を跳ねさせる。
心臓が口から飛び出しそうだ。
「え……?」
「それを、もらう」
彼は短く言い、私が手に持っていたガーベラを指差した。
手袋に包まれた指先は、微塵も震えていない。
買うの?
この、氷の侯爵が?
たった一輪の、庶民向けのガーベラを?
「は、はい! ありがとうございます!」
慌てて包装紙を取り出す。
手が震えて上手く巻けない。セロハンテープが指にくっつく。
焦れば焦るほど、彼からの無言の圧力が背中に突き刺さる。
早く。早くしなければ、この店ごと凍らされてしまう。
なんとかリボンを結び終え、私は花を差し出した。
「お、お待たせいたしました……! 銅貨三枚になります……」
値段を告げるのがこれほど怖かったことはない。
侯爵は懐から革の財布を取り出すと、ジャラリと小銭を取り出した。
金貨ではない。ちゃんと銅貨だ。
カウンターに置かれた硬貨の乾いた音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
彼は花を受け取ると、やはり無言のまま背を向けた。
そして、入ってきた時と同じカツ、カツという足音と共に、店を出て行く。
ドアが閉まる。
カラン、コロン。
明るいベルの音が、嵐の去った店内に虚しく残った。
「…………はぁぁぁ」
膝から力が抜け、私はその場に座り込んだ。
冷たい床の感触がお尻に伝わり、ようやく現実感が戻ってくる。
生きた心地がしなかった。
心臓がまだ痛いほど脈打っている。
カウンターの上に残された三枚の銅貨。
それは確かに、商売が成立した証拠だった。
「なんだったの……?」
疑問が口をついて出る。
地上げでも、文句でもなかった。ただ花を買って帰っただけ。
けれど、あの顔。あの殺気立った雰囲気。
どう考えても「花を愛でる人」には見えなかった。
ふらつく足で立ち上がり、ガラス越しに外を覗く。
侯爵の背中は、すでに通りの向こうへ消えようとしていた。
その黒いコートの胸元で、オレンジ色のガーベラが小さく揺れているのが見えた。
――似合わない。
失礼ながら、あまりにも似合わない。
でも、乱暴に扱うわけでもなく、彼は大事そうに胸の近くに花を抱えていた。
その違和感が、恐怖の中に小さな棘のように残る。
あの人は、一体何のためにここへ来たのだろう。
エプロンの裾を握りしめながら、私はまだざわつく胸をなだめるように、深く息を吐いた。
それが、私と「氷の侯爵」との、奇妙な日々の始まりだった。




