嫌われ令嬢は婚約者に幸せになってほしい
12/17最後に第三者目線足しました
幼い頃、自分は世界中の人から愛されていると思っていた。
「え‥?僕‥?」
彼の困惑した顔を見るまでは。
※
渡り廊下で見目麗しい男女が楽しげに喋っている。
「剣術?リーナの細腕じゃ剣を持ち上げるのも難しいんじゃないか?」
「うっ、そうだけどぉ‥街に行くと何度もナンパされるし、強引な人もいて怖いんだもん」
「平民のふりして一人で街に出るのを止めろって。剣術より護身術を習ったほうがいいんじゃないか?」
リーナと呼ばれている小柄で可憐な銀髪の美少女は二年生で子爵令嬢のカテリーナ様。黙っていると儚げな雰囲気だが、話すと表情豊かで小動物のように愛らしく、男女問わず人気があるらしい。
「ヨアヒムが教えてくれる?」
カテリーナ様を「リーナ」と呼び、親しげに談笑している金髪碧眼の絵本の王子様のような彼は伯爵令息のヨアヒム様。成績優秀でありながら剣術大会では上位入賞する文武両道の美男子で、やはり人気がある私の婚約者だ。
遠目で見てもお似合いのお二人。邪魔をしないように遠回りをしようかと逡巡していたら、ヨアヒム様と目が合ってしまった。
私と目が合った瞬間、ヨアヒム様は完璧な貴公子の微笑みを浮かべ、私のほうへ近づいててきた。カテリーナ様は傷ついたような顔をしている。
「エルヴィーラ様、偶然ですね。移動教室ですか?」
「ごきげんよう、ヨアヒム様。次は音楽なんです」
「よければ音楽室までご一緒しても?」
「そんな、悪いです。ご友人がお待ちしてるのでは?」
カテリーナ様のお隣にいる女子がこちらを睨んでいた。
「クラスメイトとはいつでも話せるので。愛しの婚約者と過ごせる時間のほうが大切です」
ブティックの従業員のような隙のない営業スマイルで、ヨアヒム様は私という婚約者に愛を囁く。本当に非の打ち所がない。
私とヨアヒム様の婚約は、私の九歳の誕生日に決まった。
私は王国有数の資産家バルコ侯爵家の嫡女で、産まれた時から何でも好きなモノを与えられて育った。周りの人間はみんな私に好意的で、私は世界中の人から愛されていると信じていた。
九歳の誕生パーティーには同年代の子供達が集まり、その中から婚約者を選ぶように言われた。
一歳上のヨアヒム様は当時から綺麗な顔立ちで、挨拶でも自然体なのが気に入って、パーティーの最後に誰を婚約者にするか聞かれてヨアヒム様を指差した。
その時のヨアヒム様の顔が忘れられない。
パーティーに来ている男の子達はみんな私を好きで、私と婚約したがっているのだと思っていた。だけど私に指を差されたヨアヒム様は、明らかに困惑していて全く嬉しそうではなかった。
(あれ‥?)
全然嬉しそうじゃないヨアヒム様に私も動揺した。ヨアヒム様は私を好きじゃないの?それは青天の霹靂だった。
私が婚約者を指名したことでパーティーは終わった。トイレに行った後、庭に置いていたぬいぐるみを取りに戻った時、男の子達の会話が聞こえた。
「おれ選ばれなくてよかったー!」
「なー。いうほど可愛くなかったし」
「なんか偉そうだったよな。あんな女と結婚したくない」
「ヨアヒム君かわいそー」
「止めとけって。バルコ家の人に聞かれても知らないぞ」
「怖〜」
ケラケラと響く幼い笑い声。
顔が真っ赤になってるのが鏡を見なくてもわかった。走って部屋に戻って、枕に顔を埋めた。
恥ずかしい!恥ずかしい!消えてしまいたい!
男の子達はみんな私を好きだなんて恥ずかしい思い違いだ。私は可愛くないし、偉そうで、私と結婚したい男の子なんていない。みんなバルコ侯爵家が怖いから嫌嫌パーティーに来ていただけ。私に指名されたヨアヒム様が嬉しそうじゃなかったのは当たり前だ。私と結婚なんてしたくないんだから。
世界中の人から愛されているという幻想が崩れて私は身の程を知った。
「パパ‥ヨアヒム様との婚約はなかったことにしたいの」
「他に結婚したい子がいるのかい?」
「そうじゃないけど‥」
「ルヴィ、一度決めたことを気分で変えるのはよくないよ。婚約誓書も王室に送ってしまったしね。コロコロ意見を変える人間は信用されない。それにヨアヒム君はいい子じゃないか」
そう、ヨアヒム様は良い子だった。
嫌そうな顔をしたのは私が婚約者に指名してしまったパーティーの日一度きりで、それ以降は完璧な婚約者だった。
ご両親から強く指導されたのだと思う。婚約してからは月に二度ほどお会いしていたけれど、いつだって私を世界一大切な女の子のように扱ってくれた。
エスコートが完璧なのはもちろん、会話の中でピンクの薔薇が好きと言えば次のお茶会でピンクの薔薇の花束を用意してくれたり、愛読してる恋愛小説の話をすればそれを読破されて私に話を合わせてくれたり。
とにかく私に合わせてくれるので、ヨアヒム様の本心を思うとずっと申し訳なかった。
もちろんヨアヒム様ご本人に婚約の解消を持ちかけたこともある。私一人ではなく当事者の二人で婚約解消を求めれば両親も納得するかもしれないと考えたのだ。
「婚約を解消‥?何か気に触ることをしてしまいましたか?すみません。治しますので言ってください」
「ヨアヒム様に悪いところなんてありません。そうではなく‥結婚は好きな人とするほうがいいと思うのです」
「なるほど‥エルヴィーラ様に僕を好きになってもらえるように努力しますので、婚約を解消するのは考え直してもらえませんか?」
後々知ったのだけれど、婚約が決まってからバルコ侯爵家はバルデック伯爵家を支援していたらしい。
ヨアヒム様は家のために私との婚約を解消するわけにはいかなかったのだ。
婚約の解消はとりあえず諦めて月に二度の交流で年数を重ねた結果、私はどんどんヨアヒム様を好きになっていった。演技だとわかっていても好意を伝えてくれて優しくしてくれるヨアヒム様に惹かれずにはいられなかった。
私もヨアヒム様にちゃんと好かれたい。本当に好きになってもらえるように、ヨアヒム様に釣りあう素敵なレディーになりたい。仲の良い夫婦になりたい。
いつしか前向きにヨアヒム様との婚約を思うようになり、勉強や美容への努力も厭わなくなった。
ヨアヒム様に釣り合いたい一心で勉強した結果、首席で王立学園に入学した。
私より一年早く入学していたヨアヒム様から学園のことは色々聞いていたので、学園生活を楽しみにしていたのだけれど、なぜか周りからうっすら嫌われていた。
あからさまに嫌がらせやイジメを受けたわけではない。けれど私から話しかけてもみんなちょっと迷惑そうで、会話を早く終わらせてどこかへ行ってしまう。
かつてパーティーで言われていた陰口を思い出した。私は可愛くなくて、偉そうで、私を好きになってくれる人なんていない。ヨアヒム様が優しいから薄らいでいた記憶だ。
友達もできず、私が一人でランチを摂っていることに気づいたヨアヒム様が一緒にお昼を過ごしてくれるようになった。
ヨアヒム様はヨアヒム様で友達付き合いがあるだろうし、遠慮すると言っても「私がエルヴィーラ様と一緒に過ごしたいだけです」と言ってくれる優しさに甘えた。
ヨアヒム様は毎日のお昼と、帰りの時間が合う日は私のクラスまで迎えにきてくれるようになった。それを見ていたクラスメイトから私の知らない真実を教えられた。
「ヨアヒム様を解放してあげてください。ヨアヒム様もカテリーナ様も可哀想ですわ」
「カテリーナ様‥?」
「ご存知ないんですか?バルコ家の力で無理矢理お二人の婚約を引き裂かれたのに?」
カテリーナ様というのはヨアヒム様の幼馴染みで、お二人は幼い頃から両思いで結婚の約束をしていたらしい。
私がパーティーで婚約者に指名したときのヨアヒム様の表情はそういうことだったんだ。申し訳なさと後悔で目眩がする。
聡明で心優しい美少女のカテリーナ様はすごく人気で求婚が耐えないのに、ヨアヒム様を健気に想っていて、いまだ他の誰とも婚約していない。
私とヨアヒム様の婚約後、疎遠になっていたお二人は学園で再会し、仲睦まじく過ごすようになった。
そして一年が経ち、私が入学した。ヨアヒム様は婚約者である私を優先しないわけにはいかないので、カテリーナ様が可哀想ということだった。
ヨアヒム様とカテリーナ様は二年生の憧れの存在で、二年生に知り合いやご兄弟のいる方からお二人の悲恋と私の悪行が一年生にも広まっているらしい。だから嫌われているのかと納得する。
こっそりとヨアヒム様のクラスを覗いてみれば、誰がカテリーナ様なのか一目でわかった。ヨアヒム様と親しげに話している銀髪の可憐な美少女。透明感のある白い肌に、男性に強く抱きしめられれば折れてしまいそうに細い身体。
肌は褐色でうねりのある紫の髪にきつい顔立ち、口元に黒子があり豊満な私とは何もかもが正反対だった。
自分がヨアヒム様の好みとは真逆だったこともショックだったけれど、何よりもリラックスした様子で歯を見せて笑うヨアヒム様が衝撃的だった。
私の前での貴公子然とした微笑みは演技だとわかっていたのに、改めてその事実を突きつけられて胸が痛んだ。
いっそ浮気をしてくれればそれを理由に婚約を解消できるのに。お二人が親しいのは間違いなくても浮気と呼べるような行動はされなかった。
あくまで学友の距離感で、ヨアヒム様は隣にカテリーナ様がいらっしゃっても私と遭遇すれば私を優先する。その都度カテリーナ様は悲しそうな顔をされていて罪悪感に苛まれた。
「ヨアヒム様、私よりご友人を大切にしてください」
「なぜですか?私にとってはエルヴィーラ様より大切にしたい人はいません」
引き裂かれた初恋の女性より、強引に婚約させられた私を優先する理由。私との婚約を持続させたい理由。それは家のために他ならない。
ヨアヒム様の有責で婚約を解消するわけにはいかない。むしろ私の有責で婚約を解消してバルコ家が慰謝料を支払えばいいのでは?そうすべきだ。
とはいえ私が浮気、というよりヨアヒム様の代わりに本気で私と結婚してくれる男性が全くいない。バルコ家の権力をチラつかせばいるだろうけど、それだと第二のヨアヒム様になるだけだ。これ以上誰かを不幸にしたくない。どうすればいいんだろう。
悩んでも良い解決案は出ず、時間だけが過ぎたある日、他国から留学生がやってきた。
「よろしくお願いしマス」
渡航するには三ヶ月もかかるユニル王国からやってきたベンジャミン様は、ユニル王国の第九王子様で、人懐っこい笑顔の黒髪の美少年だった。
ベンジャミン様は人当たりの良さであっという間にクラスの人気者になった。友達作りの上手さに羨望を覚えつつ、私がベンジャミン様と関わる機会はないと思っていた。のだけれど。
「ミセ‥『売店』はドコにある?」
「なんの店ですか?」
「良かったら休日に街を案内しますよ」
「ぜひ紹介したいレストランがあります!」
「えっと、イマ、行きたい」
「今ですか?」
「これから授業ですよ〜」
あたたかい笑いに包まれているが、ベンジャミン様はお困りになっている。私は意を決してベンジャミン様に話しかけた。
『学園に売店はありませんよ』
私がユニル語で説明すると、ベンジャミン様はパァッと目を輝かせた。
『君、ユニル語がわかるの?』
昔から自宅にユニルの商人が出入りしていてユニル王国に興味があり、いつかユニルに行ってみたくて独学でユニル語を学んでいた。発音のアクセントを馴染みのユニルの商人にチェックしてもらったこともある。
『ほとんど独学なので自信はありませんが。ちゃんと話せてますか?』
『独学?すごいね!完璧だよ』
『ところで売店で何か必要なものがあるんですか?』
『あ〜、そうなんだ。筆記用具丸ごと忘れちゃったんだよね』
『私のものでよければお貸ししますよ』
『本当に?助かるよ!』
その日からベンジャミン様がよく話しかけてくださるようになった。
「いつも昼にルヴィを迎えにくる男、ダレ?」
「婚約者のヨアヒム様です」
「婚約者かぁ。毎日来るなんて、カレ、独占欲強いの?」
「いいえ、私に友達がいないので‥気を使って一緒にいてくださってるんです」
「友達いないの?じゃあボクが初めての友達?」
「えっ?私とベンジャミン様がお友達ですか?」
「イヤ?」
「まさか!とっても嬉しいです」
※
「ご機嫌のようですね」
いつものお昼休み。いつものガゼボでヨアヒム様に顔を覗きこまれた。
「えっ、私ですか?」
「はい。何かあったんですか?」
「実は、お友達ができたんです」
「お友達‥誰ですか?」
「留学生のベンジャミン様です」
「あぁ、ユニル王国の‥」
「はい。人付き合いが苦手な私でも話しやすくて、ユニルのことを色々教えてくださって‥」
テンションが上がる私に反してヨアヒム様の表情は沈んでいった。
「ヨアヒム様‥?おかげんがよろしくないのですか?」
「え?そんなことはありません。エルヴィーラ様に信頼できるご学友ができたようで嬉しいです」
いつもの貼付けたような営業スマイル。ヨアヒム様は体調が悪くても私には正直に言ってくれないだろう。
「そろそろ戻りましょう」
「え?もうですか?」
戸惑われてもヨアヒム様は私の提案に反対はしない。いつだって私の望むように動いてくれる。婚約者というより従者のようだ。
体調が悪くても気が抜けない私と一緒にいるより、心安らぐカテリーナ様の側で癒やされてほしい。本心からそう思っているのに胸が痛い。
その日の放課後、静かな場所でリラックスしたいとベンジャミン様がおっしゃり、私の密かな憩いの場である屋上庭園にご案内した。
本館の屋上は立ち入り禁止のせいか、旧館の屋上にはささやかな庭園が作られていて自由に立ち入れることを知ってる人は少ないみたい。知っていても本館から離れているからわざわざ足を運ぶ人が少ないだけの可能性もあるけれど。
「そういえば、なんでルヴィは友達いないの?」
「それは‥」
可愛くなくて偉そうで、性格が悪いから嫌われている。そのまま言ったところで気を使わせてしまうだろう。
「話せば長くなるんですが‥」
周りから嫌われている経緯を話した。
私が九歳の誕生日パーティーで一方的にヨアヒム様を婚約者に指名したこと。ヨアヒム様には結婚を約束した幼馴染のカテリーナ様がいたこと。知らなかったとはいえ、結果的に侯爵家の力でお二人を引き裂き、嫌がるヨアヒム様を無理矢理私の婚約者にしてしまったこと。それが知れ渡っているので周囲から嫌われていること。
「うーん、ルヴィはヨアヒム様とカテリーナ様がラブラブってことは知らなかったんだよネ?」
「はい」
「じゃあ仕方ないヨ。それを後悔してるルヴィは優しい、いいコだヨ」
「そんな事ないです。わかっているのに婚約を解消できてないんですから」
「ん?ルヴィは婚約解消したいの?」
「そうですね‥ヨアヒム様には幸せになってほしいので」
バルコ家に支援されている事情があるからヨアヒム様は婚約を解消されたがらない。私の有責でバルデック家に都合の良いように婚約を解消すればいいのだろうけど、代わりに私と結婚してくれる人がいない。
誰にも相談できなかった悩みを話すと、ベンジャミン様は真剣な顔をして私の手を取った。
『じゃあボクと結婚しない?』
「え?」
『まずはボクがこの国に来た理由を話すね』
言語が違う遠い我が国をベンジャミン様が留学先に選んだ理由。
ユニル王国は一夫多妻制で国王は十二人の妃を娶り、子供は二十四人産まれた。その内五歳まで生きた王子王女は十五人。現在生き残ってるのはベンジャミン様を含めた六人。
ユニル王室は代々兄弟同士で暗殺しあい、生き残った者が王となる慣例とのこと。
『継承権を放棄することはできないんだ。兄弟同士の仲がよくても、王位に興味がないとアピールしても無駄。王位争いは僕たち本人よりそれぞれの母親の家門の争いだから。父の兄弟で生き残ってるのは他国に嫁いだ叔母だけなんだ』
つまり、ベンジャミン様は王位争いから逃れるためにこの国に来た。
我が国の王太子殿下のご息女であらせられる王女様方は十二歳と十歳。どちらもまだ婚約は発表されていない。十六歳であるベンジャミン様との年齢差は悪くなく、友好国のユニル王国王子との婚約は歓迎されるはず。だけど私に求婚したということは。
『王女様達とは上手くいかなかったんですか?』
『うーん、選り好みする立場でもないけど結婚するならちゃんと妻を愛したいんだよね。婿入りさせてくれるなら王族じゃなくてもいいし。僕、年下はどうしても女性として愛せる気がしなくて』
手を取られて指先にキスをされる。
『ルヴィのことは友人として大切に思ってるし、女性としても魅力を感じてる。それを前提に、僕は生きるために君を利用したい。君も婚約を解消するために僕を利用してくれないかな?』
私の家が一方的に強い力関係でないのは私が求めていた関係だ。だけど腑に落ちないのは。
『魅力‥?』
『うん。転入した日からビジュアルだけならルヴィが一番セクシーで魅力的だと思ってた。軽い恋愛を楽しむのが目的なら真っ先にルヴィに声をかけていたよ。実際に話すようになって、見た目とギャップのあるピュアなところも優しいところも大好きになった。婚約者がいるから友人として付き合っていこうと思っていたけど、婚約を解消するつもりなら次の婚約者に立候補したい』
顔が熱い。ヨアヒム様もエスコートの一貫で定型文の愛を囁いてくれるけど、こんな風に情熱的に口説かれたのは初めてだ。
私は可愛くないのに?
でも、ベンジャミン様は年下の可愛らしい女の子はタイプではないのが本当なら、昔から年上に間違われる老け顔の私を好ましく評価してくださってるのも本心なのかも?
あまりにも予想外すぎてオロオロ赤面する私を、ベンジャミン様は甘い眼差しで見つめてくる。
『ふふっ、ルヴィって本当に可愛いね』
『可愛くはないです。もうお止めください』
『可愛いなぁ』
甘い雰囲気になり、ヨアヒム様への罪悪感が押し寄せてきて、後ずさってベンジャミン様から距離を取った。ベンジャミン様は気にした様子もなくニコニコしている。
屋上庭園は密室でも二人きりでもないけれど、婚約者以外の男性と甘い雰囲気になってしまったのは浮気かもしれない。
私の浮気を理由に婚約を解消しようと計画してるのに、実際に浮気をすると罪悪感がすごい。はやく終わらせてしまいたい。ヨアヒム様との婚約もヨアヒム様への恋心も。
※
「お父様、私がヨアヒム様とは別の方と婚約したいと言えばどうなりますか?」
お父様は眉をひそめた。
「そうしたいのか?」
「まだ、もしもの話ですが。ヨアヒム様に非はありません。私の心変わりで、悪いのは私一人です。ヨアヒム様はずっと私に尽くしてくださいました」
「まぁお前達ももう子供ではないし、ヨアヒム君も納得するなら‥相応の慰謝料を支払うしかないな」
「バルデック家への援助はどうなりますか?」
「ここ数年は取引で優遇してるだけだ。仕事の質が落ちない限り取引は続けるだろう」
お父様はヨアヒム様を気に入ってるので残念そうだけど、その分慰謝料はたっぷり支払ってくれるだろう。
※
「エルヴィーラ様、そちらの方は?」
「ええと‥」
「ハロー!ユニル王国から留学中のベンジャミンです。ヨロシク」
「あぁ‥話は伺っております。私はエルヴィーラ様の婚約者のヨアヒム=バルデックと申します」
「ヨアヒム様、ランチはベンジャミン様もご一緒でもよろしいですか?」
「‥はい、もちろん」
三人でガゼボに向かった。
今日、私はヨアヒム様に婚約の解消を持ちかける。七年間も誠実な婚約者でいてくれたヨアヒム様の努力を踏みにじる。ヨアヒム様の幸せのためとはいえ胃が痛い。
「エルヴィーラ様、どうかされましたか?食が進んでないようですが」
「あ、ちょっと食欲がないだけで、大丈夫です」
私のちょっとした異変に気づいて心配してくれるヨアヒム様。優しくしないでほしい。今から貴方を裏切るのに。
「ヨアヒム様、お話したいことが‥」
「待って、ルヴィ」
意を決して婚約解消の話をしようとしたら、ベンジャミン様に遮られた。
ヨアヒム様が驚いた様子で口を開く。
「ルヴィ‥?愛称を許してるんですか?」
「えっ?はい」
愛称についてはベンジャミン様に「エルヴィーラって呼びにくいから愛称教えて」と言われて家族や慰問先の孤児達から呼ばれてる短い愛称をお教えした。ヨアヒム様もカテリーナ様を愛称で呼ばれてるので問題はないと思ったのだけれど。
『婚約解消の話、今日はやめとこう』
不満そうなヨアヒム様に戸惑う私に、ベンジャミン様がユニル語で耳打ちをしてきた。
理由はわからないけれど、婚約解消はベンジャミン様の協力が必須だ。ベンジャミン様がその気じゃないのに、私一人で話を進めることはできない。
横目で至近距離のベンジャミン様と目を合わせて頷いた瞬間、ヨアヒム様に肩を抱き寄せられた。
「殿下、婚約者としてエルヴィーラ様と親しくしてくださるのは感謝いたしますが、適切な距離はお守りください」
「オッケー。気をつけるヨ」
ヨアヒム様はなんだかピリピリしていて、ベンジャミン様は掴みどころがなくて、私はななんとなく気まずかった。
お昼休みが終わりに近づき、ヨアヒム様と別れてクラスに戻った。
『ベンジャミン様、婚約の解消は‥』
周りに話を聞かれたくないので、ユニル語で尋ねた。
『うん。あのさ、僕はルヴィと結婚できたらいいなって思ってるよ。でもそれは想い合うカップルを引き裂いてまで叶えたいわけじゃない』
想い合うカップル、で私が思い浮かぶのはヨアヒム様とカテリーナ様だ。でもベンジャミン様がおっしゃってるのは。
『ルヴィはヨアヒム君を愛してるから彼のために身を引こうと考えてるんだよね?だけど、ヨアヒム君もルヴィを愛してるように見えたよ』
『ヨアヒム様は‥演技がお上手なんです。カテリーナ様といらっしゃる時のヨアヒム様が本当のヨアヒム様なんだと思います』
『カテリーナ嬢については何も知らないから何も言えないけど。僕、カンの良さで生き残ってきたから好意や悪意を見分けるのには自信があるんだ。ルヴィはヨアヒム君にカテリーナ嬢のコト聞いたことはあるの?』
『えっと、幼馴染ということは聞いてます』
『噂については?ヨアヒム君と話したことある?』
『ないです』
『ちゃんと話し合ったほうがいい。気になるのは、ルヴィを悪者にした噂はどっちが流してるんだろうね』
『どっちとは‥』
『ルヴィと婚約する前、子供時代の結婚の約束なんて本人達しか知らないだろ?』
確かに。
婚約を世間に大々的に発表する王族ならまだしも、子供時代に反故になった婚約を覚えているのは本人達くらいだろう。私とヨアヒム様の婚約誓書がすぐに通ったことから、カテリーナ様とは正式に婚約してたわけではなく口約束の範囲だったはず。
親しい友人が覚えていたとしても、お二人の間に未練がなければわざわざ過去の話を蒸し返すのも失礼なわけで、逆を言えば未練を匂わせて第三者に広めてるということ。
『噂を広めたのがヨアヒム君なら論外だし、カテリーナ嬢が復縁を狙って広めたんだとしても、噂を放置してる時点でヨアヒム君の心はカテリーナ嬢にあるって思ってた。だけど実際に話してみて、憶測だけで決めつけるのはよくないなって』
憶測だけで決めつけ、確かによくない。
ヨアヒム様の本心を直視するのが怖くて、カテリーナ様との過去も今の関係もヨアヒム様に直接聞かずに自己完結していた。
『ヨアヒム君がルヴィを本当に愛してるなら君たちは別れるべきじゃないし、噂の黒幕がヨアヒム君なら心置きなく別れて僕と結婚すればいい。どっちにしたってルヴィは幸せになれるよ』
そう言ってウインクするベンジャミン様が心強くて笑ってしまった。
ヨアヒム様にカテリーナ様との関係を聞いてみよう。そう決心して、二年生の授業が終わるのを待った。
チャイムが鳴って二年生達がゾロゾロ出てくる。人気が少なくなってもヨアヒム様の姿は見えなくて、ヨアヒム様のクラスに向かった。
「‥まさか王子サマ連れてこられるとは思わなかったわ」
「女のコの友達全然いないのに外国の王子様と仲良くなるって、さすがというかスゴイよねぇ」
教室の扉の向こうから聞こえるヨアヒム様とカテリーナ様の声。多分、話してるのはベンジャミン様と私のこと。
「でも友達って言ってたし、やましかったら婚約者の俺に紹介しないよな‥?」
「純粋すぎ。男ってほんとバカね」
「どういう意味だよ」
「同性の友達がいない女はそれだけの理由があるってこと。あんまり言いたくないけど、女に嫌われてる女ってかなり本性ヤバいってことだよ?」
「リーナはエルヴィーラ様と話したこともないだろ」
「挨拶したことあるもん」
「挨拶だけだろ」
「挨拶だけでも女は色々わかるんですぅ」
「じゃあ何、エルヴィーラ様が浮気してるって言いたいのか?」
「浮気から本気になって捨てられたりして。いくらヨアヒムでも本物の王子様相手じゃ分が悪いでしょ」
「そうなったら最悪だ。俺の長年の苦労と我慢は何だったんだ‥」
「よしよし。捨てられたら私と結婚すればいいじゃん」
「ははっ、リーナとなら気楽だし悪くないけど」
さすがに顔を出す勇気はなかった。
お二人が話していた内容は予想の範囲内だったのに、ヨアヒム様のお声で直接耳にすると胸が苦しくて涙が溢れた。人目を避けて帰宅して思う存分泣いた。
翌日、泣きすぎて顔が大変なことになってたのと頭痛が酷くて初めて学園を休んだ。
(長年の苦労と我慢‥)
冷たいタオルで瞼を冷やしながらヨアヒム様の言葉を反芻する。
ずっと苦労と我慢をして優しい婚約者でいてくれたヨアヒム様。幼い私が指をささなければ、カテリーナ様と婚約を継続できていたのに。ただただ申し訳なくて心苦しい。奪ってしまった七年間は返したくても返せない。噂を流したのはどちらかなんてもうどうでもいい。私にできることは一日でも早く婚約を解消することくらいだ。
「ルヴィ〜!心配したヨ」
夕方になりベンジャミン様がお見舞いに来てくださった。
「ありがとうございます。もう元気なので明日は登校いたします」
「それならよかった。昨日はヨアヒム君と話せたの?」
「直接は話せなくて盗み聞きしてしまったんですが、ヨアヒム様の本心は聞けました」
「本心?」
「やっぱり、私との婚約は我慢‥ご苦労をかけていて、カテリーナ様とのご結婚を望まれているようです。それと私とベンジャミン様の浮気を疑われているので、婚約を解消するには丁度いいかと」
ベンジャミン様の気が変わってないのなら、計画通りヨアヒム様との婚約を解消してベンジャミン様と婚約したい。快諾してくださると期待したのにベンジャミン様は難しい顔をされていた。
「あのさ、噂について調べたんだよネ。クラスの女のコはほぼ全員噂を知っていて、男で知ってたのは三人だけ。誰から聞いたのかって聞いていったらやっぱり噂を広めてた人達がいて、それはカテリーナ嬢のファンだった。ルヴィのことを悪く言うのもカテリーナ嬢のファンだネ。逆にヨアヒム君のファンはルヴィに好意的だったヨ」
「好意的な方なんていらっしゃったんですか?」
「ウン。噂について、ヨアヒム君はカテリーナ嬢との結婚の約束は子供の頃の過去の話、今はただの友人、自分の婚約者はルヴィだって言ってたみたい。お昼は毎日迎えにくるし、ヨアヒム君のファンの間ではヨアヒム君はルヴィを溺愛してるって認識みたいだヨ。ルヴィは大人っぽくて色っぽいから話すのは気後れするってだけで、ルヴィが思ってるほどルヴィを嫌ってる人ばかりじゃないヨ」
「‥」
「まぁ、カテリーナ嬢のファンにとってのルヴィは、ヨアヒム君とカテリーナ嬢を引き裂いた悪女みたいだケド。カテリーナ嬢がそういう風に扇動してるみたいだから、噂を広めてるのはカテリーナ嬢で間違いない。問題はヨアヒム君がどこまで知ってるのか‥」
「たくさん調べてくださってありがとうございます。でも、噂についてはもういいんです」
重要なのは今のヨアヒム様のお気持ちだ。それは昨日聞けた。
コンコンとノックが鳴った。
「失礼します。ヨアヒム様がいらっしゃいましたが、お通ししてよろしいですか?」
ベンジャミン様と目を合わせる。
「ベンジャミン様、私と婚約してくださいますか?」
ベンジャミン様は肩をすくめた。
「ルヴィがそれで後悔しないなら」
ヨアヒム様はピンクの薔薇の花束を持って現れた。お礼を言ってメイドに活けてもらう。
「ベンジャミン殿下もいらっしゃったんですね。婚約者としてお礼申し上げます」
微笑んでいるけれど瞳が冷たくて怖い。ベンジャミン様と私の仲を疑ってるから不快なんだろう。今からもっと不快にさせてしまう。
「エルヴィーラ様、体調はいかがですか?」
「ありがとうございます。もうすっかり快復したので明日は登校します」
「安心しました。ですが無理はしないでくださいね」
綺麗な笑顔。婚約を解消すれば、もうこの笑顔を私に向けてくださることはないだろう。
緊張で手のひらがじっとりと汗ばむ。
「ヨアヒム様、実はお話したいことがあって‥」
「はい、なんでしょう」
「私と婚約を、解消していただきたいのです」
ヨアヒム様の目は見れない。
「‥ご冗談ですか?笑えませんね」
「本気です」
「私は‥すみませんベンジャミン殿下、二人で話したいので席を外していただけませんか?」
「ボク?ルヴィはどうしてほしい?」
顔を上げてベンジャミン様を見る。鏡を見なくても情けない顔になっているとわかる。
「いてほしいです‥ヨアヒム様ごめんなさい。私はベンジャミン様と結婚したいと思ってます。慰謝料はちゃんと支払いますし、バルデック家との取引も続けていくと父も言ってますので、どうかご了承ください」
「‥侯爵様も了承済みということですか?」
「ええと‥ヨアヒム様が納得されるなら、と」
「納得しません」
ヨアヒム様は微笑んでいた。
「え‥あの、慰謝料はお支払いします。ヨアヒム様が納得される金額を」
「いくら出されても貴女との婚約を解消する気はありません」
どうして?バルデック家の心配がなくなれば私と婚約を続ける必要もないのに。
「私と婚約解消したほうが、ヨアヒム様は幸せになると思います」
「幸せ?貴女に指名されてから婚約者として努力してきたつもりですが、それを無にされるのが私の幸せですか?」
「何も知らずに婚約者に指名してしまってごめんなさい。貴方の七年間を奪ってしまってごめんなさい。謝っても許されることではありませんが、私にできることは何でもします。だから、ヨアヒム様は愛する人と幸せになってください」
言いながらボロボロと涙が溢れた。
「私が愛しているのはエルヴィーラ様です。何でもしてくださるのなら、私と結婚してください」
ヨアヒム様がハンカチを私の目元に当ててくださった。
ヨアヒム様の気持ちは揺るがないようだ。カテリーナ様との結婚より私との結婚を望まれる理由。
「侯爵家‥」
「え?」
「ヨアヒム様はバルコ家を‥継がれるおつもりですか?」
「それはもちろん。そのために勉強してきましたので」
愛より爵位。
貴族らしい優先順位だ。
バルコ侯爵家をヨアヒム様は欲しがっている。私がお譲りできる最大の価値あるモノ。
「‥わかりました。婚約は続けましょう」
「わかってくださって良かったです」
「よくないヨ!」
静かに見守ってくださっていたベンジャミン様が声を荒げた。
「殿下にエルヴィーラ様を譲るつもりはありません。すみませんが諦めてください」
「そうじゃなくて。ルヴィの顔ちゃんと見なヨ。君たち一生すれ違うつもり?」
私の顔?
ヨアヒム様と顔を見合わせる。ヨアヒム様はグッと辛そうな顔をされた。
「貴女がベンジャミン殿下を想っていても、私は‥」
「ストップ!こじれさせちゃってゴメンだけど、ボクとルヴィの間にある感情は今のところ友情なんだ。利害が一致して結婚を提案したの。ボクはルヴィを女性として魅力的だと思ってるし結婚するなら全力で愛するけど、今はまだ友達だヨ。ルヴィもそうだよネ?」
コクコクと頷く。
「ベンジャミン様は大切なお友達です」
尊敬できる友人だ。恋愛感情はないけれど人として好きで尊敬している。
「じゃあなんで私と婚約の解消なんか‥」
「なんでだと思う?ルヴィはなんで婚約を解消したかったのか、全部正直に言ったほうがいい」
「私は‥申し訳なくて。私が無理矢理ヨアヒム様を婚約者にしてしまったことで、初恋同士のお二人を引き裂いてしまったのを知って、ヨアヒム様を解放しなくちゃって思ったんです。私がいなければヨアヒム様はカテリーナ様と婚約したまま幸せになれたのに」
「ちょっ、待ってください、エルヴィーラ様はどこでそんな話を耳にしたんですか?」
ヨアヒム様は焦った様子で私の手を握った。
「クラスメイトから私の罪を教えていただきました」
「ルヴィは君たちラブラブカップルを引き裂いた悪女だって噂をカテリーナ嬢が広めてるんだヨ」
「は‥?嘘だろ‥」
「嘘だと思うなら自分で調べてみなヨ。っていうか、カテリーナ嬢じゃなければ君が噂を広めてるってことになるケド」
「違います!」
声を張るヨアヒム様にベンジャミン様は肩をすくめた。
「ボクはもう帰るよ。二人はモヤモヤしてるコト全部話し合うべき」
「ベンジャミン様‥」
『話し合って別れることになったらボクと結婚しようね』
パチッとウインクされてベンジャミン様は帰られた。本当に優しい方だ。ベンジャミン様の結婚相手探しは私もできる限り力になりたい。
ヨアヒム様が口を開いた。
「すみません。そんな噂が広まっているとは知らず‥子供の頃とはいえ結婚の口約束をしてたリーナ‥カテリーナ嬢と親しくするのは軽率でした」
項垂れるヨアヒム様にそっと微笑んだ。
「謝らないでください。ヨアヒム様は何も悪くありません」
「エルヴィーラ様‥」
「私とは書類上だけの夫婦でかまいません。私と結婚してバルコ侯爵家を継いで、カテリーナ様と本当の夫婦になってください」
「え?」
「父が引退して領地に行くまでは我慢を強いてしまいますが、ヨアヒム様が正式に侯爵位を引き継げばこの邸で堂々とカテリーナ様と一緒に暮らしていただけるかと」
私は別の邸に住めばいい。
そうすればヨアヒム様はバルコ侯爵家も愛するカテリーナ様との幸せも両方手に入れることができる。
「待ってください。リーナとは何でもありません。確かに幼少期に親しくしていましたが、エルヴィーラ様と婚約してからは距離を置いていました。学園で再会してからも誓って不貞を働いたことはありません。噂より私を信じてください」
「信じています。不貞を疑ってはいません」
「ならばどうして‥」
「私はヨアヒム様に幸せになってほしいのです。ヨアヒム様が本当に愛してらっしゃるのはカテリーナ様でしょう。これ以上お二人の邪魔はしたくないんです」
「私が愛してるのはエルヴィーラ様です。私を信じてはくださらないのですか?」
そうご自分に言い聞かせているのか、ヨアヒム様はカテリーナ様を愛していることを認めたがらない。
「‥昨日の放課後、ヨアヒム様とお話したくてヨアヒム様のクラスに行ったんです。そこでお二人の会話を立ち聞きしてしまいました」
「昨日の放課後‥?」
ヨアヒム様は訝しげに昨日の会話を思い出そうとしてるようだった。
「私との婚約は苦労と我慢で、私の不貞で婚約の解消をすることになれば、カテリーナ様と結婚できたらいいとおっしゃってました」
「‥あ、いやそれは」
「それに、ヨアヒム様はカテリーナ様といらっしゃる時のほうが生き生きされていて楽しそうです。私はカテリーナ様と楽しそうにされているヨアヒム様が好きです」
「そうなんですか?!」
驚いた様子のヨアヒム様に驚く。
「は、はい‥」
「エルヴィーラ様は紳士的な貴公子っぽい男のほうが好きなのかと‥」
「いつもの紳士的なヨアヒム様も好きですよ」
「ありがとうございます。私も好きです」
「‥」
なんともいえない沈黙が流れた。
「‥私たちが婚約をして半年くらいの時にも、エルヴィーラ様が婚約の解消を求められたのは覚えていますか?」
「はい。当時はカテリーナ様のことは存じませんでしたが、ヨアヒム様が私との婚約を望んでないことはわかっておりましたので」
「正直初めてお会いした時の印象はあまり良くなく、最初は確かに婚約に前向きな気持ちではありませんでした。でも婚約者として接していくうちに、最初の印象とは違って純粋で臆病で優しい貴女が可愛くて、守ってあげたいと愛おしく思うようになり、どんどん好きになりました。だから婚約の解消を求められたときはショックでしたし、貴女に好かれたくて貴女が愛読していた小説の王子様像を参考にしてたんですが‥」
愛読していた恋愛小説のヒーローは確かに紳士的な王子様だった。
「リー‥カテリーナ嬢とは気心が知れていて、雑なコミュニケーションでも構わないので気楽ではありますが、それは男友達と大差がないからなんです。好きな女性の前では理想の男でいたい、ただそれだけで、貴女の前だと堅くなるのは貴女が私にとって特別な女性で、貴女に良く思われたいからです」
真剣に話されるヨアヒム様の言葉が嘘だとは思えない。
「苦労や我慢というのはエルヴィーラ様に釣り合う男になろうと私が勝手にしていただけで‥触れるのも我慢して大切にしてきたのに、横からベンジャミン殿下に攫われたくないという愚痴です」
「触れる‥」
ヨアヒム様の熱っぽい眼差しにドキリとして身体が固まる。ゆっくり伸びてきた手が私の顎をすくった。
「私がどんなに‥貴女を抱きしめて、この可愛らしい唇を奪ってしまいたいと思っているか知らないでしょう?」
親指の腹で、触れるか触れないかの力で下唇を撫でられて、ゾクゾクと肌が粟立った。
「んッ‥」
変な声が出て恥ずかしくて目をつむる。顔は真っ赤になってると思う。
「‥すみません」
パッと手を離された。
唇を撫でられただけなのに息が上がっていて、無意識に息を止めていたんだと気づいた。
私の顔も熱くなってるけど、ヨアヒム様の顔も赤くなっている。
「ヨアヒムさま‥」
「結婚するまでは手は出しませんから安心してください」
婚約者同士ならハグやキス程度しても非難されないのに。
「‥どうしてですか?」
「エルヴィーラ様はそういう触れ合いは苦手でしょう。手や髪にキスをするだけでも恥ずかしがってしまいますし。そういうところも可愛くてたまりませんが」
確かに私はすぐに赤くなったり緊張で固まってしまう。
「ヨアヒム様に触れられるのはドキドキして恥ずかしくなってしまいますが、嫌なわけではありません。むしろ‥嬉しいです」
「エルヴィーラ様‥」
ヨアヒム様の喉仏が波打った。
※
「成人したら考えるって言われたんだケド、どう思う?脈アリかなぁ?」
「完全にナシではないけど、アリとも言えませんね‥」
ベンジャミン様のおかげでヨアヒム様と気持ちが通じ合ってから半年が経った。
現在ベンジャミン様は臨時講師の研究者さんにアタックしている。
「この国の成人は十八歳ですが。卒業後から付き合ったとして猶予はあるんですか?」
ヨアヒム様とベンジャミン様は仲良くなり、ベンジャミン様の事情を知ったヨアヒム様もベンジャミン様の婚約者探しを気にかけている。
「ナイ。は〜あ、今度こそって思ったのにナ」
「以前薦めた辺境伯の令嬢は?」
「幼すぎてあんまり‥」
「二歳しか変わらないですよ。選り好みしてる場合ですか」
「でも結婚ってなると誰でもイイとは言えないヨ〜」
「気持ちはわかりますが」
もはやベンジャミン様よりヨアヒム様のほうが必死になっていてなんだか微笑ましい。私も心配ではあるんだけど。
「‥男はべらして最低。クソビッチ」
後ろからボソッと言われて振り返ると女の子の後ろ姿。見覚えがある。クラスメイトだ。
「ルヴィ様?どうかされましたか?」
「いえ、なんでもないです」
ヨアヒム様はカテリーナ様と距離を置かれた。
元々不貞は疑ってなくてその点は信頼しているし、気のおけない大切なご友人との関係に私のせいでヒビが入るのは申し訳ない。そう言ったのだけれど、ヨアヒム様の中でカテリーナ様の信頼がなくなったそう。
お二人が疎遠になったことでカテリーナ様のファンの方々からますます嫌われてしまった。
悩まなかったといえば嘘になるけど、万人から好かれるなんて不可能だし、私は私を好きでいてくれる人との時間を大切にしようと決めた。
「タイムリミットまでに見つからなかったら帰る途中で亡命しよっかな〜」
「?!」
「お金だけはあるので経済支援は任せてください」
「ルヴィ様、国際問題ですよ」
「ではベンジャミン様が大変なことになっても何もしないということですか?」
「‥‥‥‥‥します」
「アハハ、二人とも大好きだヨ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あっ‥」
落としてしまったペンが転がっていく。よりにもよってエルヴィーラ様のおみ足の元へ。
エルヴィーラ様は髪を耳にかけ、しゃがんでペンを拾ってくださった。その一連の仕草の色っぽさといったら!そして顔を上げて、エルヴィーラ様に見惚れていた私と目が合った。ヤバい、私キモい顔してない?焦って顔が引きつる。
厚めの艶っぽい唇がスローモーションのように開いた。
「これ、落としました‥?」
「ひぇっ‥!はいっ、ありがとうございます!」
緊張しながらエルヴィーラ様からペンを受け取る。エルヴィーラ様は爪の先までツヤツヤしていて、めっちゃいい匂いがした。なんか本当にもう、テンパってしまってその場から逃げた。
「え、なんか顔キモくね」
「エルヴィーラ様と喋っちゃった‥」
「え!何で?」
「ペン拾ってもらった。イイ匂いがした。ほんっと何あの色気?本当に同い年?同じ女なのにドキドキするんですけど?!」
「女からみてもあの色気はヤバいんだな」
「男からみたら?」
「めちゃくちゃヤバい」
クラスメイトのエルヴィーラ様は、褐色の肌の蠱惑的な美人だ。巨乳なのにウエストは細くてスタイル抜群。巻いているのか天然なのかウェーブがかかった紫の髪までも色香が漂う。その上バルコ侯爵家のご令嬢。
「卒業するまでに俺も一回くらいお話してみてー」
「話しかけてみれば?」
「無理。緊張して変なコト言っちゃうかも。エルヴィーラ様に平常心で話しかけられんのってベンジャミン様くらいだろ。俺ベンジャミン様もちょっと緊張するし」
「まーあのお二人は私達とは生きる世界が違うからね。同じクラスで同じ空気吸えるのが光栄というか」
エルヴィーラ様は美貌も色気も家格も特上で崇める対象。羨ましいと嫉妬じみた感情を向けるコもいるけど、私は格が違いすぎて嫉妬する気は起きない。
スッと一人のクラスメイトが近づいてきた。
「エルヴィーラ様って絶対ベンジャミン様と浮気してるわよね〜」
「は?」
歪んだ笑顔で喋りかけてきたクラスメイトの妄想にイラッときて低い声が出る。
「また変な妄想広めようとしてんの?エルヴィーラ様に相手にされないからっていい加減にしたほうがいいよ。妄想癖のあるイタい女ってアナタが周りから思われるだけだから」
「なっ‥」
「変な妄想って?」
「エルヴィーラ様の婚約者のヨアヒム様が、本当に愛してるのは幼馴染のカテリーナさんだとか、エルヴィーラ様が幼馴染の二人を引き裂いた?とか」
この子達カテリーナオタクががんばって広めてた噂。半信半疑の子もいたけどヨアヒム様オタクが言うようにヨアヒム様はエルヴィーラ様を溺愛してるので、少なくとも「本当に愛してるのはカテリーナ」は嘘だとわかる。
「‥そういや前に、ベンジャミン様にヨアヒム様と幼馴染の噂知ってるか聞かれたような。アレってそれ?でもヨアヒム様って毎日エルヴィーラ様迎えに来てるしどう見ても溺愛してんじゃん。ヨアヒム様に片思いしてたブスの妄想?」
「そう」
「なっ、カテリーナ様はブスじゃないわ」
そう言う彼女の顔は醜く歪んでる。
ウチのクラスに三人いるカテリーナオタクって、エルヴィーラ様に逆恨みをつのらせて日に日にブスになってるんだよね。造形じゃなくて表情が。醜い彼女達を羽虫のごとくスルーされるエルヴィーラ様はW王子に囲われて品良く過ごされている。
あ、W王子っていうのは王子顔ヨアヒム様とリアル王子ベンジャミン様のことね。
ベンジャミン様とヨアヒム様は仲が良くて、エルヴィーラ様を取り合うようなギスギスした関係でないのは見ればわかる。
「カテリーナ様?が綺麗だとしても変な妄想広めるような人なら信用できないし近づきたくないな」
「実際そんな感じで遠巻きにされてるみたい」
友達の姉がヨアヒム様達と同じクラスなんだけど、噂を知ったヨアヒム様がカテリーナ様にキレて事の顛末が公になり、噂を知らなかった男達からもキモがられて遠巻きにされてるらしい。
そりゃ自分の知らない所で恋仲なんて嘘を広める女とは、危なすぎて近寄りたくないよね。特にまともな貴族は。カテリーナ様にターゲットにされて変な噂流されたり、婚約者とこじれて婚約破棄とかなったら笑い事じゃないし。
「‥あんなクソビッチよりカテリーナ様のほうがヨアヒム様に相応しいから」
さらに顔を醜く歪めて吐いた言葉に絶句する。
「クソビッチって‥まさかエルヴィーラ様のこと?」
「そうよ、だってヨアヒム様だけじゃなくてベンジャミン様ともベタベタして‥っ」
「ボクが何?」
振り向くと、ベンジャミン様がいらっしゃった。
「ヨアヒム君とボクってなるとルヴィの話?」
「そ、そうです!エルヴィーラ様って婚約者がいるのにベンジャミン様に思わせぶりじゃないですか?あの見た目からして普段から男を誑かしてるに決まってますわ」
ベンジャミン様の目が冷たいことに気づかないのだろうか。ま、空気が読めるなら侯爵家令嬢に暴言吐いたり、周りが白けてるのおかまいなしにカテリーナオタクやってないか。
平等を謳ってる学園を卒業すれば、ベンジャミン様もエルヴィーラ様も私達下位貴族が気軽に話しかけられるような方達ではないのに。そもそもカテリーナさんがエルヴィーラ様に張り合うのも身の程知らずなのだ。だからエルヴィーラ様に嫉妬して貶めたい同類が信者になるんだろうけど。
エルヴィーラ様が彼女の暴言を虫の羽音として見逃されたとしても、この調子じゃ社交界に出た途端やらかして家門ごと潰されるだろう。ご家族に同情する。
「ルヴィになら誑かされてみたいけどネ」
「俺もです。喜んで貢ぎます」
「私も!」
「はぁっ?」
誘惑してくるエルヴィーラ様‥なにそれヤバそう。誑かされてみたい。
「残念だケド、ルヴィはそういうのできない子だヨ。ペン拾って逃げられたのも、自分が何かしたんじゃないかって気にするくらい小心者だし」
ペンを拾って‥
「え?私?!」
「ウン。ルヴィが何かした?」
「いやいやいやいや!まさか!ペン拾っていただいて見惚れて緊張して逃げただけです」
カテリーナさんとそのオタクを眼中に入れてないように、私の存在もエルヴィーラ様の眼中にないと思っていた。
「ルヴィのこと嫌いじゃなければたまに話しかけてあげてヨ。喜ぶから」
喜ぶ?エルヴィーラ様が?
喜ぶかどうかは置いておいて、私が逃げたことでエルヴィーラ様が気にされたのであれば申し訳ない。
教室に戻ってエルヴィーラ様に話しかけてみよう、と思うんだけどなんて言えばいい?友達にはどうでもいい話を永遠に喋れるのに、エルヴィーラ様にはなんて話しかければいいのか何も思いつかない。うーん。エルヴィーラ様の横顔にかかる後れ毛、色っぽいな。
じっと見ていたせいで、エルヴィーラ様と目が合ってしまった。ええい!
「さ、さっきはありがとうございました」
「え?」
「ペン拾っていただいて、テンパってちゃんとお礼言えてたか定かじゃなくて」
エルヴィーラ様はきょとんとされた。
「ふふっ、ちゃんと言ってくださってましたよ」
え?!可愛い?!
エルヴィーラ様がふにゃっと微笑まれた。
フッ、とか、ウフッ、じゃなくて、ふにゃっ。え!可愛い!
「エルヴィーラ様は‥‥‥‥」
「はい‥?」
「何を食べたらエルヴィーラ様みたいに色っぽくなれるんですか?」
私は何を言ってるんだ。
「え?私はそんな‥」
かぁっとエルヴィーラ様が赤面された。
照れてらっしゃる?え、可愛い。
エルヴィーラ様ってもしかして可愛い人なのでは‥?
「あ‥そういえば」
エルヴィーラ様が内緒話をするように顔を寄せてきた。うっとりするほどいい匂いです。
「食べものではないんですが、良い下着のおかげかもしれません。ちゃんと胸のサイズにあったものを着けたほうが綺麗に見えると聞きました」
私がどんなに良い下着をつけてもエルヴィーラ様の胸のボリュームには遠く及ばないし、エルヴィーラ様の巨乳は素晴らしいけどエルヴィーラ様の色気って多分胸だけじゃない。
でも一生懸命下着の説明をしてくださるエルヴィーラ様が可愛らしいので、余計なことは言わずにニヤける口を手で隠して相づちを打った。
それからちょこちょこエルヴィーラ様とお話するようになったんだけど、エルヴィーラ様って想像してた性格と全然違った。
見た目が大人っぽいお色気お姉様だから私なんかがエルヴィーラ様を楽しませる話はできないと思ってたのに、私のたわいもない話にもエルヴィーラ様は楽しそうに愛らしく笑ってくださる。そして実は世間知らずでなんでも信じてしまうピュアな方だった。魔性というより天使。
エルヴィーラ様はお色気お姉様ではなく箱入りお嬢様だったのだ。
「エルヴィーラ様をセクシーとか言ってんのは二流よ。確かにセクシーだけどエルヴィーラ様の本質は『可愛らしい』なの!」
エルヴィーラ様とお話するようになって、以前の私のようにエルヴィーラ様を遠巻きに崇めてるクラスメイト達から持て囃されてエルヴィーラ様について語った。
みんなもエルヴィーラ様とお話してみたいけど何話せばいいかわからないみたい。わかる。一回話すと私達と同じ年の女の子だってわかるんだけど、イメージ的に生きる世界が違うから。例えるなら王妃陛下とお話する機会があったとしても何話せばいいのかわかんなくて遠慮したい感覚。下手なこと言って失望、失笑させてしまいそうって考えちゃうんだよね。
「ルヴィの可愛さをわかってもらえてよかったヨ」
「ベンジャミン様」
今となってはベンジャミン様が若干エルヴィーラ様に過保護なのもわかる。
エルヴィーラ様はカテリーナ(とオタク達)のこと眼中にないからクールに相手にされず、噂を流されても興味なさそうにされてたのだと思ってたけど、本当は傷ついてたのでは?という可能性が出てきた。いや多分傷ついてたよね。静観するのが貴族の対応として正解だと思ってたけど、怒ればよかった。
「退学する前に一言言ってやりたかったです」
横目でベンジャミン様を見る。
エルヴィーラ様に汚い暴言を吐いたあのコは数日後自主退学で学園を去った。
「ボクは何もしてないよ?ヨアヒム君に話したダケ」
「‥‥」
あのコの家門が没落した話は聞かないから、ご両親に顛末を知らせて忠告したとか脅したとかそんなあたりだろう。あのコを放置してたら後々大変な事になってただろうから結果的にあのコの家門を救ったのでは?ヨアヒム様お優しいな。
「ルヴィ様」
エルヴィーラ様を迎えにきたヨアヒム様が甘い声でエルヴィーラ様を呼ぶ。
言葉数は多くないけど胸焼けしそうな甘い空気が漂っている。噂を流せばヨアヒム様が手に入ると思ったカテリーナさんの目は節穴だろう。
そのまま帰られるのかと思われたエルヴィーラ様がふいにこちらを向いた。
「ご、ごきげんよう‥」
少し照れながら小さく手を振ってくださったエルヴィーラ様!可愛い!
「バイバーイ!‥悶えてないで何か言ってあげなヨ」
「はっ‥!ごきげんよう!」
エルヴィーラ視点だとヨアヒム&カテリーナに注目しすぎて二人組みたいになってしまったんですが、実際はカースト上位グループの仲間同士で5〜6人でつるんでたかんじです。
あと子供時代の男の子達の陰口は負け惜しみです。自然体のヨアヒムが良い(←媚びてくる男の子ばっかだから)