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「やっと見つけた、俺の花嫁」
固い鉄格子の中に居る私へ向けて話したのだろうか?
どうせ私はここから逃げられ無いのに。固い床に座り込み冷たい壁に凭れながら膝を抱え踞る私は、チラリと声がした方を見ると、背中に真っ黒な羽を広げた男が立っている。
「……誰…なの?」
目を凝らして見れば、漆黒の闇を振り撒いているかのような長い黒髪と吸い込まれそうな黒い瞳に目を奪われ、動く事すら忘れる。
男は鉄格子に近付き、そっと撫でるだけで私を閉じ込めていた鉄の棒がサラサラと床に散らばる。その光景は、昔見せて貰った宗教画の絵本に出てくる悪魔にも見え、私の命を刈り取る為に遣わされた希望かと喜びに咽ぶ。
「私の花嫁」
骨が浮き出る身体をまるで壊れ物のように抱き上げた男はニタリと嗤い、私はこの鉄格子からやっと解放され魂のみになれると、男の身体へ抱きつき瞳を閉じるのであった。
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この鉄格子の中だけが私の世界。
一度も外へ出た事も無く、1日一食の食事は固いパンと何か分からない野菜グズの入ったスープのみ。
その時に、頭まですっぽり隠れる白い服を着た人が私の血を抜いて行く。
何度も切られた指先は固くなり、ポタポタ落ちる血だけが生きている証なのだと、痛みすらとうに忘れた頭で考える。
過去、1人だけ私を逃がそうとしてくれた老人は、鉄格子の扉を開ける前に私の目の前で白い服を着た人に殺された。老人の血が私の全身にベチャリと掛かり、血を浴びた赤黒い姿の私へ白い服を着た人が水をかけたが、口の中に入り込んだ血液は、錆びた鉄の味がした。
言葉を教え、文字を教え、鉄格子の隙間から頭を撫でてくれた老人の死で、私の心も死に絶え、何も考えず、何も感じず、ただ息をするだけの人形。
毎日、血を抜きに来る白い服を着た人が3日間来ていない事に気付いたが、どうせ逃げられ無いなら、いっそこのまま眠ろうかと思っていた時。
あの黒い羽を広げた男が私の前に現れたのだ。
既に意識は朦朧として、夢か現か分からなかった私は、初めて知った全身を包まれる温かさを感じ、あぁやっと死ぬんだ。と安堵し瞳を閉じた。
意識が段々と戻りつつある時。口の中へ生暖かいモノが流し込まれる。昔、老人から貰った甘い果実より甘く、身体がもっともっととねだり、瞳は閉じられたまま口を開け舌を出すと。
私の口にゴツゴツとした何かが差し込まれ、その先から甘い汁が出てくると分かり。チュウチュウと吸い付いた。
「うまいか?」
男の声がして目を開ければ。チュウチュウと吸い付いたモノが男の指だと分かり、離れようとしたが。
男に抱き抱えられ、身動きが出来なかった。
「ここは?」
月が無い夜。サワサワと揺れる木々の音にホーホーと不気味な声がする深い森の中。男は太い枝に座り私を包み込むように膝へ乗せ横抱きにしている。
目線だけ動かせばかなり高い場所で、恐怖のあまり男の首に抱きつく。
「落としはしない。さぁもっと飲め」
ガクガク震えているのに、差し出された指から落ちそうになった血から目が離せない。甘い香りがして、舌を指へ這わせ再び口に含む。
頭がふわふわしてきて、男の胸へ倒れ込みながら、いつの間にか意識が遠退く。
次に目覚めた時。いつもの固いベッドの上でなく、暖かい何かに包まれている。よく見れば男の胸の中、ふかふかのベッド。
「やっと目覚めたか?俺の花嫁」
光の中に、この世のモノとは思えない昨夜の男が私へ話し掛け、大切なモノを扱うように頬から首筋をなぞり、胸の痣でピタリと止まる。
顔を近付け、痣をペロリと舐めると身体の中が熱くなり、チクリと僅かな痛みと同時に男が痣へ吸い付くと、甘い痺れにビクビクと身体が震えた。
男の頭を胸に抱え込み身体の震えに耐えていると、フッと男が離れ。
醜く焼け爛れた皮膚が綺麗になり、その下にあった痣が真っ黒な薔薇の形に姿を変えている。
「奴ら、これで誤魔化したつもりだったんだな。今日からお前は俺のローザだ」
名前など無かった私が、初めて名前を貰った喜びに顔が綻ぶ。そんな私へ男は蕩けるような笑みを浮かべ、再び私は男の腕の中に囚われた。
「俺はスヴァルツ。ローザ、やっと手に入れた」
スヴァルツと名乗った男からは、甘い香りがより一層強くなる。堪らずモゾモゾと動き、男の唇を食むとスヴァルツも貪るように私の唇を求める。しばらくお互いに舌を絡ませていたが、スッと離れた。
「もう少し眠れ」
瞼へスヴァルツのキスが落ち私の意識も落ちた。
三度目の目覚め。
ふかふかのベッドから起きれば、アリアと名乗った人に風呂に入れられ、あらゆる場所を洗われた。自分の身に何が起こったかすら分からぬまま、アリアのやる事を黙って受け入れる。風呂から出れば、数人の女性に囲まれ今まで見た事も無い服を着せられて、最後に姿見に映る姿は、全くの別人であった。
汚れて灰色だった髪は艶やかな白い髪になり、カサカサで皮膚が赤く剥けていた所も、どこを触ってもしっとりとした白磁のような肌に変わった。
「3日間お眠りになっておりました。1ヶ月もすれば本来のローザ様になられるかと」
柔和な笑みを浮かべ鏡越しに私を見るアリアこそ、美しい女性だと思うが。本人へ言うと、びっくりしていた。茶色の髪と瞳に女性らしいふくよかな身体。どこまでも優しく接してくれるアリアは、あの老人を思い出す。
「やはりローザには黒が似合う」
部屋に現れたのはスヴァルツ。私は薔薇の痣が見えるくらい胸元が大胆に開いたドレスを着せられ、長い髪は緩く編まれて、アリアにより唇には紅を点している。
「何故、私にここまでしてくれるの?」
近付いて来るスヴァルツの瞳を見れば、軽々と私を抱き上げてしまう。
「何度でも教えてやる。ローザは俺の花嫁だからだ」
スヴァルツの声と共に、ムワッと甘い香りがして顔を見上げれば、甘い汁が欲しくて堪らなくなる。首に手を回し顔を唇へ近付ければ何も言わず、スヴァルツの甘い汁が私へ流し込まれる。
ツーっと糸を引き唇が離れると、身体の疼きが強くなって、ねだるようにスヴァルツの唇に噛みついた。
「慌てなくても、俺はずっと一緒にいる」
顎を掴まれ離されると、寂しくてスヴァルツの身体にしがみついた。スヴァルツはそんな私を逃さないよう抱く腕に力が入る。
「本当に?私をまた閉じ込めない?」
何も考えられないくらい。私はスヴァルツと離れるのが怖い。こんな感情を私は知らなかった、もし離されたら私は簡単に死を選ぶと確信できる。
「俺の傍から離れる事は許さないが、ローザが離れようとするなら殺してしまうかもな」
優しく痣を撫でながら、私を見つめるスヴァルツの瞳は、狂気を含む。それが堪らなく嬉しい。きっと私の瞳にも、同じ狂気があるだろう。