狐の声
走って。
走って。
私は、裸足で走り続けた。
宇宙のような、この真っ暗な世界をーーー。
『っ!?』
急に光が溢れ、目の前が真っ白になった。
サァ…………。
ザ…ザァァ…………………。
私の足裏をくすぐる何か。心地よい自然の音楽に緊張が解れた。ゆっくり…と目を開けた。
私との距離、数メートル。
誰かが私を見下ろしている。
『ここは…どこ…?』
『キミの夢の中だよ』
『夢?』
『そう。キミだけの幸せな世界』
どこまでも広がる草原の真ん中に、私は立っていた。
私の前には、狐のお面を被った不思議な男がいて。背の高い彼は、私の戸惑った顔を見て、クスクスと笑っていた。
なぜか、彼がつけている面。狐の耳には、女物の赤いリボンが結んであった。
戸惑う私を尻目に、まだ男は面白そうに笑っていた。その姿が、なんだかバカにされたようで少しイライラした。
『アナタは、誰ですか?』
『俺は、狐。ただの狐の化け物だよ』
さらに機嫌が悪くなった私を全く気にせず、男はしれっと自分の面を指差した。
『…狐……そうですか』
『そうなんだよ。うん』
『どうして私の夢にアナタみたいな……。はぁ…………』
『もしかして、怒ってるの? あのさ、言っておくけどキミが俺を呼んだんだからね』
『私が、アナタのような変態を呼ぶわけないでしょ!』
『へ、変態!? すっごく失礼だな、キミ!』
『………………私の夢に勝手に出てこないでよ』
『だから、それはキミが』
『もう言い訳はいいので』
『………ったく、なんだよ。それ』
ブツブツ文句を言いながら長身男は、柔らかい草のベッドにふて寝すると横になりながら空中に絵を描き始めた。不思議と描いた絵はすぐに実物となり、動き出した。
やっぱり、ここは夢の中らしい。改めて、そう感じた。
『そのヘンテコな生き物は、何ですか?』
『馬だよ』
『馬っ!? 何で馬の首がキリン並に長いの。左右で足の長さも全然違うし。口からは、長い舌も出てる。気持ち悪い……。馬に謝ってください』
『そんなに文句言うならさ、キミが描いてみせてよ』
『わ、私が?』
『うん。俺は、キミの絵を見たい』
『分かりました……』
私は、男と同じように空中に絵を描いた。すぐにリアルな馬が現れ、私達の周りを優雅に走り始める。
私が描いた馬の後ろから、妖怪のような彼の馬もどきがハァハァついてくる。
『やっぱりキミ、絵がすっごく上手いな~。スゴい才能だっ!』
『そうでもないですけど……。あなたが、下手すぎなんじゃないですか?』
私は、産まれて初めて描いた絵で誉められた。それから私達は、お互いにさまざまな絵を描いて子供のように無邪気に遊んだ。
彼に対する警戒感も消えていて、一緒にいることが素直に楽しいと思えた。
久しぶりに、笑った自分の声を聞いた気がする。
………………………………。
………………………。
……………。
優しい夕陽が、笑い疲れた私達を照らしている。
『そろそろ帰ろうか。もうすぐ暗くなるし』
『あの…また……会えますか?』
この夢が覚めること。もう二度と彼に会えなくなることにショックを受けている自分がいた。
『会えるよ。キミが、夢を叶えたらね』
頭を撫でられた。狐のお面を外した背の高い彼にオデコにキスまでされた。
初キスだったけど、全然嫌ではなかった。
小さなこの胸がひどく切なくて。苦しくて。言葉がまとまらない。震える唇。
『あのっ!!』
『またね』
ここに来た時のよう。無慈悲な光が私を強制的に現実に引き戻した。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
走って。
走って。
走り続けた。
初めて、学校をサボった。
「………はぁ……はぁ……」
私は今、何から必死に逃げているんだろう。
急に冷たい雨が降ってきたから、稲荷神社で雨宿りした。
「……………」
きっと今頃、家に担任の先生から連絡が来ていて、何も知らない私の母親はアタフタしているに違いない。
わざとこの冷たい雨に濡れて、悲劇のヒロインを演じてみようか?
『ど、どうしたの!? びしょ濡れじゃない! 早く。今、タオル持ってくるから』
『マ…マ………』
少し泣いていた方が、雰囲気出るよね。
『さっき学校から、先生から連絡あったよ。今日、学校お休みしたんでしょ?』
『う…ん……。ごめんなさい……』
『大丈夫? 真面目な夕ちゃんが学校をサボるなんて……きっと、何か困った事があったんだよね。そうでしょ? 今、ホットミルク入れるね。それ飲んで落ち着いたら、ママに話して』
う、う~ん。
この展開は、ちょっと面倒臭いな。ママの追及もしつこいから頭が痛くなりそうだし。やっぱり、雨に濡れて帰るのは止めよう。風邪を引くかもしれないし、リスク高過ぎ。
特にやることもなく暇なので、バッグからペンケースとお気に入りの小さなスケッチブックを取り出して、私を睨み付ける狐の石像を描いた。わざと可愛く、耳にリボンまで付けてあげた。
「こんなことしてたら神様に怒られちゃうね……。きっと……」
ここは、聖域。私達が住む俗界とは違う。きっと私をただの『一人の人間』として扱ってくれるだろう。
「私ね………本当は漫画家になりたいんだ……。だから……だからね……高校卒業したら専門学校に行きたいの。まだママやパパには相談してないよ? ってか、相談なんか出来ない。県内トップクラスの進学校の生徒でさ、しかもこれ……自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、私ね。すごく頭が良いの。全国模試の順位もいつも一桁だし。先生やみんなの期待もあるからさ……」
やけに大きな独り言も静かに聞いてくれる。
「でもね……優等生の仮面を付けて、これからもずっと生きていくって考えたら……。我が儘言わないで親が喜ぶ道、安全な道を歩いて行く自分を想像したら………。どうしても我慢出来なくて………。気づいたら、学校飛び出してた」
その時、狐の目から冷たい涙が溢れた。
「あなたは、優しいね……。私の代わりに泣いてくれるんだもん」
…………………………。
…………………。
……………。
雨が止み、弾けるような青空が広がった。
私は、急いでペンケースとスケッチブックをカバンに戻すと走り出した。
急ブレーキ。鳥居の前で再び一礼。
「よしっ!! やるか」
私は、私だ。これからは卑しい仮面を脱いで、本当の自分で生きてみよう。頬を叩いて気合いを入れた。
「……………でも」
また不安になったり、誰かに怒られたら慰めてね?
優しい狐さん。
『大丈夫。キミには、俺がついてる』
「っ!?」
突然、誰かに頭を撫でられた。この感覚。優しさ。手の温もり。覚えてる。
忘れるわけない。
でもーーーー。
どうしても彼の方を振り向けなかった。この幸せな夢が覚めてしまいそうで恐かったから。
「夢……叶えたら、本当にまた会える? うっ、嘘ついたら、その髪にリボン付けてもらうからね!」
『うん。会えるよ。絶対』
もう振り返らない。
走って。
走って。
走り続ける。
私の大きな夢と恋が、どんどん加速していく。




