66 ~カールとアンジーの場合~
彼ら兄妹の後日談をと思い、閑話を挟ませてもらいました。
「来月から忙しくなるから頑張れよ」
かるーくそう社長が言った次の日から僕たちは工場を出て工房へと勤務場所を変えた。レイナさんが案内をしてくれるそうで助かる。レイナさんにはお世話になりっぱなしだ。
『彫刻部 細工課』
そう書かれたプレートがドアに張り付けられている。部と言うのは僕たちが所属する部署でその下に課というものがあり、デザインと細工に振り分けられている。
ちなみにこれまで僕たちが働いていた場所は『薬剤部』という管轄になる。薬剤部には『治癒医療課』『刺激物取扱課』『自然健康課』『開発課』がある。その下には様々なチームがぶら下がっており、各リーダーは毎日それはもう忙しそうにしている。工場でもそれぞれの課に関係する形で『治癒医療プラント』『刺激物プラント』『自然健康プラント』に分けられて毎日フル稼働している。
工場内には『安全第一』とか『指差し確認』とか『5S=整理/整頓/清潔/清掃/躾』とか色々なプレートが工場内に大きく掲げられている。大きな工場になるとこのような事をするのだろうか?
当初来た頃に受けた説明では、ヒロシ様の工場運営等々は非常に画期的でこれまで誰も考えたことの無いようなものばかりだそうだ。僕ももちろん知らない。故郷のドルスカーナではこのような大きな工場はなかった。
レイナさんはそのヒロシ様の手腕に驚愕したそうだ。次々と出てくるアイデア、それを社員に納得させ実践し形にできる実力。もちろん後ろ盾が男爵家という事も理解できる。しかし、男爵家とは言え儲けにならない道楽に金を出したりはしない。ゾイド男爵はアルガスにホテルという高級宿屋とレストランをを成功させたほどの商人でもある。つまりヒロシ様は男爵家からの理解と信頼を獲得していると言う事になる。
レイナさんは遥か高みにいる人間を初めて見たと言っていた。恥ずかしい話だが、『私の方が優れている』と言う思いを持っていたそうだ。だが今はヒロシ様に褒めてもらえることが一番のご褒美だと言っていた。それは分かるな。僕も褒めてもらいたいと思っているから。
レイナさんは一人で切り盛りしていたが今は各プラント毎に工場長という責任者を置いている。彼女は工場統括という立場だ。僕たちに作業を教えてくれてた人は組織では雲の上の人だったらしい。僕たちにとっては彼女もまた遥か高みにいる人間だ。
当然この工房もレイナさんの管轄に入るらしいが、驚いたことに僕とアンジーは課長という立場になるらしい。この実習中に既に勉強済みだが課長とはその部署を実質取り仕切る責任ある役職だ。僕みたいな若造に務まるのだろうか、胃が痛くなってきた。しかも忙しくなってくると部下が付くようだ。既に2名ずつの部下が付いている。信じられない。どうしよう。
ドアを開けて中に入る。ここは新しい事業の為に作られた工房で様々な細工に必要な工具が置いてある。予め工具は作業台と共に奇麗にレイアウトされ作業のはじまりを待つばかりの状態だ。今まで僕は3本ほどの彫刻刀しか使ってなかったのでまずはこの道具になれることから始めないと。店のガラス越しにしか見たことの無いような工具が並べられ夢みたいだ。
工房は奥へと続き会議室のドアを開けた。会議室は2部屋あり、小会議室、中会議室とプレートが張られてあった。中に入ると壁際にはサンプルを載せることが出来るテーブルがありその隣には会議机と椅子が並べられている。サンプルを見ながら検討できるように壁際には大きな黒板が据え付けられている。また商品を並べることが出来るキャビネットも完備されていた。
一番奥には『課長室』という部屋がある。僕の部屋だ。小ぢんまりした部屋ではあるが、机に本棚、ちょっとした作業台が置かれていた。僕はどちらかと言うと現場作業に近いのでこのくらいの大きさの方が逆に良い。必要なものが手に届く位置に無いとダメなんだ。
先ほどから武者震いが止まらない。これだけの事をしてもらって期待を裏切る事の方が怖い。僕は何度も気合を入れ直した。
それでは隣のアンジーの工房へ行こう。アンジーの勤務場所であるデザイン課はこの工房の横に隣接してある。同じ場所では工房の作業音で集中できないだろうと言う事でヒロシ様がこのために建設した。恐らくアンジーは部屋を作ってもらったと思っていたのだろう。それでさえ恐縮してしまっていたのにまさか建屋が出来ていたとは。その証拠に横で変な声が聞こえる。アンジーだ。
「フアアアア、フアアアア」
とよく分からない声だ。アンジーはデザイン課の建屋を指さして何事か叫んでいる。
『彫刻部 デザイン課』
ドアのプレートにはそう書かれている。アンジーは建屋とレイナさんと僕を何度も見て震えている。漏らすなよ?
中に入るとデザイン課はそれはもうエレガントだった。ドアを開けると大きなスペースが広がっており、それでいて互いに邪魔にならぬよう絶妙なレイアウトで会議ができるスペースが設けられている。仄かに漂う香りは何かの薬草だろうか?社長はアロマと言っていた。ちなみにアロマも自然健康課で生産されており富裕層から絶大なる人気を誇っているらしい。当然男爵家でも使用されている。
スペースを挟んでガラス越しにデザインブースが見える。収容人数は何名になるのかは分からないが落ち着いて作業ができる環境であることは間違いない。
その一番奥にアンジー専用の部屋が用意されていた。ここにたどり着くまでにアンジーの顔は涙と鼻水でボロボロだ。
『デザイン課 課長室』
そう書かれたドアを開けると正面には会議用のソファ。ここでデザインの確認をするのだろう。ほぼ社長用と言って良いかも知れないな。ソファやテーブルの高級感がハンパなさそうだ。このあたりであのクロードさんが手を抜くとは思えない。まず間違いないだろう。アンジーもこのソファは社長が来る時以外絶対に座らないと言っている。
奥には普通のデスクとデザイン用のデスクと2つレイアウトされている。デザイン用のデスクの周りには様々な筆や羽などが並べられており、横の戸棚には取り出しが楽にできるスケッチ用紙やファイルなどが並んでいた。
そうして一通り見たあと僕たちは外に出た。アンジーが下を向いている。どうした?
「お兄ちゃん、私どうしよう。3日程で捨てられるかもしれない。どうしよう。ウゥ」
今度は心配で泣き出した。わかる、プレッシャーという意味では僕も泣きたい。
「あなた達は社長直々に声を掛けられて入社した言わばエリートよ」
レイナさんが僕たちに話しかける。その凛とした声に僕達は自然と直立不動の姿勢になる。
「あなた達もその身で感じたと思うけど、ここで働く皆がヒロシ様を尊敬し、いや崇拝していると言っても良いわ。皆が彼の役に立ちたいと思っている。そう思って働いているわ。今商業ギルドに社員募集を掛けるとものの数秒で全て無くなるわ。数十名単位の募集がほぼ一瞬よ? その中には他の領地から来ている人もいるそうよ。違う仕事をしながらNamelessに入るチャンスをひたすら待っているの。信じられる? 本当の話なのよ? もうアルガスの街、このロングフォードでは知らない者は誰もいない。
誰もが知る、誰もが憧れる職場になっているのよ。まずはNamelessがそういう商会であることを改めて自覚しなさい。」
僕は自分の鼓動が早くなるのを感じた。アンジーも同じはずだ。
「そんなNamelessに鳴り物入りで入社したエリート。誰かがあなたを羨むかもしれない、誰かがあなたを嫉むかもしれない。でもそんなことはどうでも良いわ。そんなくだらない事に気を病んでいる時間は1秒たりとも無いと思いなさい。一番大事なのはヒロシ様の、社長のご期待に応える事よ。前に話したわよね? 私は昔ある商店で働いていたわ。切っ掛けはソニア様とはいえ、私はヒロシ様に拾われ仕事を任された。当時は本店の方でね。そこからたった3年かそこらでこれ程の変化をもたらしたのよ。最初はポーションしかなくてね。それでもヒロシ様はいつも笑顔だったわ。一つずつ本当に色々な問題を解決しながら、その度に商会は大きくなっていった。私には毎日が夢のようだった。その夢から覚めないため必死で頑張ったわ。あの方の力になれることが本当に嬉しかった。アンジー、あなたは自分に自信がないと言ったけどそれは違うわ。あの方の目に絶対に間違いはない。ただそれに向かって思い切り頑張れば良いのよ。この事業は間違いなく成功するわ。何故ならそれはあなた達がいるから。いいこと? これから一番大事なのは気持ち。良くも悪くも自惚れる事よ。そして自惚れが過ぎぬよう自分自身を完璧に律する事よ。分かったわね?」
僕たちは拳を握り締めて大きな声で返事をした。
「「はい!」」
「よろしい。ふふ、これで私の新人教育は終わりね。これから頑張りなさい」
「「ありがとうございました!!」」
そうしてレイナさんは踵を返して戻っていった。後ろ手に手を振りながら颯爽と歩くその後ろ姿は自信に満ち溢れている。なんて恰好いいのだろうか。
僕も早くあの高みに立ちたい。
その夜は遅くまでアンジーと仕事について語り明かした。
やってやる。やってやるぞ!
かつてあれほどまで憂鬱だった明日を迎えると言う事が、今は待ちきれなくなっている自分がいた。
お読み頂きありがとうございます。