<145>サニールートに心が惹かれているようです
寮の前の馬車寄せで降りたシャーロットは、ジョシュア達に別れを告げ笑顔で手を振って、自分の部屋へと戻った。
ライトブルー色のニットワンピースに着替えてラグの上にうつ伏せになって寝転がると、今日ラファエルに貰った指輪を左手の薬指に嵌めて眺めた。可愛らしいさくらの花がついている指輪は、ミカエルとお揃いだった。
「私はどんどん指輪を増やしている気がするわ…。」
母からの手紙には、来週末にお城で舞踏会があるので出席すると答えた、と書いてあった。本人が知らないうちにそういうことは決めないで欲しいものだわ、とシャーロットは思った。
ドレスはこの前調印式の時に採寸したものがあるので心配しなくていい、とも書いてもある。そういうことはやっぱり本人に相談してほしいものね、とシャーロットは思った。
「私はどんどん周りに流されているけど、これは流されたくて流されている訳じゃないと思うわ…。」
自嘲気味に笑うと、シャーロットはどこか遠くへ行きたいなと思った。
誰も私のことを知らないところへ一人で行って、新しく生活を初めてみたい…。
でも、具体的に考えれば考える程、自分は何もできないのだと思い知らされていた。ローズのように料理も出来ないから、まず食べ物に困るだろう。マリエッタのように裁縫も出来ないから、服も都合できないだろう。クララのように友達が助けてくれるわけではないから、人付き合いを学ぶところから始めなくてはいけないだろう…。
「私、本当はつまらない人間なんだわ。」
シャーロットは悲しくなってきた。婚約者がいて、好きだと言ってくれる人が何人かいるけれど、それは自分が公爵家の娘だからで、私自身を欲されているわけではないのだろう…。
ブルーノは馬鹿なこと、と言った。ブルーノは気が付いちゃったんだわ。私になんにも価値がないって。
おかしな思考だと笑ってしまえる余裕が自分にはないと気が付いていても、シャーロットには他の視点から考える発想すら残っていなかった。
そのままうたた寝をして一日を終えたシャーロットは夕闇に目が覚めると、夕食を食べに一人で学食へと向かった。
「シャーロット、一人ですか? 珍しいですね。」
サニーが両手にプレートを持ってシャーロットの前に座った。夕食も二人分食べるんだね、とシャーロットは感心しながら見ていた。
「ここ、いいですか?」と言いながらシャーロットの前に座ったサニーに、席に座った後で嫌だなんて言えないよね、とシャーロットは思いながらこくんと首を縦に振った。
サニーは臙脂色のブラウスの上に黒いカーディガンを羽織って、カーキ色のズボンを履いていた。
向かい合ってサニーと食事をしていると、シャーロットは不思議な気分になってきた。
この人はどうして私の傍にいたがるんだろう…。距離を置いてほしいと言ったのは、一度や二度ではないはずなのに…。
「ねえ、これって、一位のおねだりだったりするの?」
「違いますよ?」
サニーはゆっくりと微笑んだ。
「サニーは今日は何をしていたの?」
「来週末には国に帰りますから、その支度ですね。」
「春休みの間は向こうにいるのね?」
「はい、そのつもりです。公務もありますからね。」
サニーもそういえば王子様だった。すっかり忘れていたシャーロットは誤魔化すように「そうね」と微笑んだ。
その後ぽつりぽつりと話をして、シャーロットとサニーは二人でゆっくりと食事をした。
サニーはあまり話をしなくても、一緒にいてい気が詰まるとか思わないのかな。シャーロットは時々顔色を窺った。シャーロットの視線に気が付くとサニーはふっと柔らかく微笑んで、「シャーロット?」と名前を呼んでくれる。「何でもないの、」と俯くと、手を伸ばして、優しく手を撫でてくれる…。
食事を終えて、一緒に学食を出ると、サニーはごく自然にシャーロットの手を取り指を絡めて手を繋いだ。シャーロットは、嫌じゃないかも、と思えて、手をそのまま握り返した。
何かサニーは異国の言葉を呟いていた。
聞いたことのある韻の踏み方に、シャーロットはもしかして?と思った。
「あの、図書館にあった本?」
シャーロットが見上げて尋ねると、サニーは嬉しそうに微笑んだ。
「よく覚えていましたね。」
あてずっぽうだけどね。シャーロットは心の中で答えたけれど黙っておいた。
「明日の休みはどこかへ行くんですか、」というサニーの問いかけに、「どこにも行かないわ、」とシャーロットは答えた。
「たまには一人で寮で過ごすの。私も、片付けがあるもの。」
誰も約束しないお休みって、今はとっても貴重に思えるわ。シャーロットは自分は今、少し疲れているのだろうなと思った。
シャーロットの顔を見て微笑むと、サニーは「お昼を、学食でいいですから一緒に食べませんか、」と提案した。
「それが今回のおねだりで構いませんから、」
「ブルーノがダメって言ってた気がするわ。」
シャーロットが戸惑いながら答えると、サニーは肩を竦めた。
「では、ブルーノとエリックも誘いますか?」
それはそれで顔色を窺って生きているようで嫌だな、とシャーロットは思った。
「そこまでしなくてもいいような気がしてきたわ…。」
「では、二人で、いいですね?」
「そうね。」
二人で一緒に学食にいると目立ってしまうのだということをシャーロットはすっかり忘れていた。シャーロットの頭の中には、正々堂々とした振る舞いなら大丈夫だろうという認識しかなかった。
二人は寮の玄関の前の階段で待ち合わせして、日曜のお昼は一緒に過ごすことにした。昨日から続く陽気で、今日は朝から暖かかった。
シャーロットは淡いピンク色のセーターを着て、灰色の毛織の膝丈のキュロットに黒いタイツを履いて、髪をポニーテールに括っていた。手首にはアメジストのさざれ石のブレスレットをセーターで隠してこっそり嵌めた。
「変ですか?」と尋ねたシャーロットの格好を見て、サニーは意外そうな顔になり、「その恰好は初めて見ました、」と微笑んだ。
サニーは深い青色のセーターに黒いズボンを履いていた。
隣を歩くシャーロットの腕を取ると、サニーは手を繋いだ。サニーの手首にさざれ石のブレスレットを見つけて、シャーロットは面映ゆくなる。
「シャーロットじゃないみたいですね、」
「誰みたいですか?」
男の子みたいって言うのかしら。
「シャーロットみたいですね、それでも、」
サニーは微笑んだ。
学食では窓際のカップル席に二人で座った。
「サニーとまともに話したのは、このあたりの席だった気がするわ。」
日が当たるオープンテラス席を見ながらシャーロットは独り言を呟いた。向かい合って席に座ると、ランチのプレートを並べて、この一年かけて変わったことを思い出すように懐かしむように話していた。
テーブルの上に置かれたシャーロットの手の、セーターの袖口を少し捲って、サニーは指先でアメジストのさざれ石を撫でて優しく微笑んだ。
「あの時、シャーロットが私に抱きついたでしょう?」
沈黙の後、サニーが照れくさそうに言った。
「どの時?」
「ミチルがカエルを飛ばした時。」
「ああ…、恥ずかしいわ。」
初めてサニーに抱きついたんだっけ? シャーロットは照れて俯いた。
「いつも冷静で面倒見のいいお姉さんなのかと思っていたシャーロットが、可愛らしく思えて、私はあの時、やっぱり私の目に狂いはなかったと思いましたよ?」
サニーの顔が見られなくなってしまったシャーロットは、黙ってランチを食べた。その様子がまた可愛らしいとサニーに思われているとは、思ってもいなかった。
「ローズはこの週末はななしやに帰っているのですよ?」
サニーが食べながら、思い出したように言った。
「どうして知ってるの? 」
シャーロットが尋ねると、サニーはひと呼吸おいてから答えた。
「あの街には私の手の者が沢山住んでいるんですよ、」と、シャーロットを試すように見つめる。
「あなたが昨日、王女達と出かけたことも知っています。」
驚くシャーロットに、サニーは続けた。
「4月から、クラウディアとリルル・エカテリーナ姫が入学する予定があるということも、知っています。」
確定したんだ…。シャーロットは黙り込んだ。サニーはくすりと笑った。
「シャーロットはおそらくこのどちらかと同室になるでしょう、」
「どうして知ってるの?」
「私の同室の者は1年先輩です。同じ学年だとお互いに潰れてしまいますが、学年が違えば、手慣れている分、導いていけるでしょう?」
「私の部屋にはミチルがいるわ、」
シャーロットが答えると、サニーは微笑んだ。
「ミチルはもう随分この国に慣れたでしょう? 他の者と同室になってもやっていけますよ?」
そんな…、ミチルが違う誰かと一緒になるなんて…。ミカエルは知っているんだろうか。
「ブルーノがいなくなりましたから、エリックも誰か違う者と一緒になるでしょうね。」
「そうね。」
ブルーノがいなくなるのは、仕方のないことだ。エリックもそれは判っているだろう。シャーロットは視線を逸らした。
学食からの帰り道、サニーは中庭に散歩へ出ようと誘った。クララ達が手入れした中庭は花が増え、春の陽気も相まって、人が憩う場になっていた。
シャーロットも何となく断る気にならず、手を繋いだまま中庭を散策した。
こぶしの花が咲いていた。天に向かって白く昇るような花弁が気高く思えて、シャーロットは目を細めて見上げた。サニーは、「美しいですね、」と、こぶしの木の下に佇むシャーロットに微笑みかけた。シャーロットは確かこの人は美しいものが好きで花にも詳しいんだったっけ? と思った。サニーの国にはこの木はあるの? と思っても、サニーには言えなかった。迂闊なことを聞いて、一緒に見ましょうと言われても困る。
手を繋いだまま寮への帰り、青いタイルの道を歩きながら、サニーが感心したように呟いた。
「それにしても、ブルーノは凄いですね。自分の国に一番有益な者を連れて帰るんですから。そこまで割り切っていたとは…! 尊敬しますね。」
「有益、ですか?」
マリアが大国の姫だからだろうか。サニーの顔をちらりと見上げた。
「ええ、あの国に必要なのは後ろ盾でしょう? 愛だの恋だのという目に見えないものに拘った結婚よりも、名や実力といった目に見えるものに拘った結婚の方が必要でしょう。そう思いませんか?」
当然のように言ったサニーの顔を見て、シャーロットはどういう訳か、心が軋む音が聞こえた気がした。この人の口から、そう言う価値観の言葉を聞くとは思わなかった。
「…サニーは、最初、私のことを、自分の国にとって有益な女性だと言ったわ。」
「ええ、言いましたね、」
「私は、国にとって有益にはならないのね?」
シャーロットは王女ではない。ただの貴族の娘で、何も力も持ってない。自分には何もなかった。シャーロットは唇を噛んだ。私のとりえは、貴族に生まれたこと、王太子の婚約者というだけなのかもしれないわ…。
「ブルーノの国にとっては、ですね。」
サニーは冷静に言葉を返した。
「あなたの国にとっても、でしょう?」
ゆっくりとサニーの手を自分の手から剥がして、シャーロットは手を握られないようにぎゅっと握って背中に隠した。
「あなたも、自分の国にとって有益な女性を探せばいい。私みたいな普通の貴族の娘とは違う、大国の王女を選べばいいのではありませんか。」
「この国には、そんな人はいませんよ?」
シャーロットの顔を戸惑うように見つめながら、サニーは首を傾げた。
「いったい、どうしたんです?」
「4月からリルル・エカテリーナ姫が入学するってあなたは自分で言ったわ。その人を選べばいいじゃない。私なんかで遊んでいないで、そうすればいいと思います。」
シャーロットはサニーを一瞥すると、速足で歩きだした。
「もう話し掛けてこないで。」
サニーはシャーロットを追いかけて、腕を掴んだ。シャーロットは大きく腕を振り払って、サニーを睨んだ。
「私にはもう話し掛けてこないで。触らないでほしいのです。判りましたか?」
「シャーロット、おかしいです、どうしたんですか?」
「おかしくなんてないわ、」
歩き始めたシャーロットを、サニーは抱きしめて捕まえた。シャーロットの頬を撫でて、シャーロットの青い瞳を見つめた。
「あなたが大国の姫なんかよりも価値のある人間だと私は知っています。それでも、私を信じてはくれないのですか?」
ぽろぽろと泣き出したシャーロットに、サニーは囁いた。
「私はブルーノではありません。あなたがあなただから、傍にいて欲しいのです。」
シャーロットにキスをすると、サニーは言い聞かせるように囁いた。
「あなたを愛しています。あなたが傍にいて欲しい気持ちは変わりません。私達は私達のやり方で一緒に前を向いて生きていけばいい。そう思いませんか?」
瞳を閉じて聞いていたシャーロットは、サニーの胸を叩いて抱き締める手を振り払った。
「そういうのはもういいの。私は自分の価値がどれくらいのものなのかちゃんと知ってるわ。」
振り返らず走りだしたシャーロットの後ろ姿を、サニーは追いかけなかった。
シャーロットはとても傷付いていて、彼女自身が自分で思っているよりも重症なのだと、サニーは思った。父に手紙を書こう。国王に謁見を希望しよう。シャーロットを正式に妻へと受け入れていけるように動き出そう。躊躇っていたら、どんどんシャーロットは手が届かなくなる。サニーはようやく重い腰を上げたのだった。
シャーロットは泣きながら自分の部屋に戻った。自分の価値っていったい何なんだろう。誰かに褒めてもらいたいわけじゃない。でも、自分だけは特別だって思わせてもらいたい…。
ラグの上でクッションを抱いてシャーロットはじっと考えていた。一年かけてここで過ごした時間を、思い出していた。ミチルがいてくれたから楽しかった…。話を聞いてくれたし、一緒に勉強もしたわ。
ミチルがもうすぐいなくなるんだと思うと、自分だけの特別なものがまた一つ、消えていく気がしていた。
夜になって、ミチルなミカエルが寮の部屋に戻ってきた。
「ねえ、ミカエル、」
「なあに、シャーロット。」
「あのね?」
シャーロットは着替えているミカエルの後ろ姿に問い質してみた。
「本当に、4月から違う部屋になっちゃうの?」
ミカエルは「そうだよ、」とこともなげに言った。知ってて、黙ってたんだ…。シャーロットは裏切られた気分になった。そんな大事なことを、ずっと黙ってたんだ…。
「いっそのこと、ミチルは隣国の隣国へ帰そうと思っているよ?」
シャーロットの表情に気が付かないまま、ミカエルは背を向けたまま着替えていた。
「この前理事長とその話をしたんだ。」
「ああ、呼び出されたことがあったわね?」
冷静に答えて、シャーロットは、そんな前からなんだ、と思った。それって、結構前の話だわ。その後だって話をしていたのに、そんなこと、ちっとも話題にならなかったわ。
「金銭面ではマリライクスでの収益があるから寮費の問題はないけど、異国の王女二人の部屋をどうするのかで相談されちゃったんだよね。」
シャーロットは俯いて、唇を噛んでいた。
「このままミチルを続けていると、違う人の部屋に割り振られる可能性があるって聞いて、それは嫌だなって思った。」
それは、私だって嫌だわ…。
「理事長には、シャーロットだけを特別扱いする訳にもいかないって言われた。」
ミカエルだけ既に特別扱いしてるじゃない? とシャーロットは思ったけれど黙った。この人は王子様で、私とは違う。王族と貴族とでは、違って当たり前なんだ…。
「ミチルはどうするの? もうミチルにはなれなくなるのよ?」
苦しそうに、ミカエルは俯いて言った。
「…自分の部屋で楽しむことにする。」
「そんなので我慢できるの?」
「我慢するよ。今までだって、お城だけで我慢してたし?」
ミカエルはやっとシャーロットを見て、肩を竦めて言った。
「シャーロットが傍にいてくれるなら、出来ると思う。」
そんな…。シャーロットは言葉を失くした。そんな時だけ、私の名前は出てくるのね?
「…私は、寂しいわ。」
もう一緒に授業が受けられなくなってしまう。ミチルで手を繋いで一緒にやってきていたことが、出来なくなってしまう。
「お昼休みは迎えに行くし、帰りは待ち合わせて一緒に帰ろう?」
ミカエルは膝立ちになると、シャーロットの手を握って見上げた。
「私はこの部屋に、ミカエルじゃない誰かと住むのね?」
ミカエルは気まずそうに俯いて、頷いた。ああ、そうか、もう決まってるんだね。シャーロットは思った。いろんな細かいことは少しずつ決めていくけど、大まかなことは決まっている状態なのね?
「もう、どっちなのか、聞いてたりする?」
「リルル・エカテリーナ姫。」
ミカエルは躊躇わずに答えた。
「どうして?」
「クラウディア姫にしてしまうと、サニーがこの部屋に遊びに来るようになるもの。僕はそんなの嫌だ。」
確かにそうだね。兄妹の部屋への訪問は許されているものね。
「エリックの部屋にはどこかの留学生か王族の1年生が入るよ。ブルーノの後の分。」
ブルーノもどこかへ行ってしまう…。
「大丈夫、僕達は一緒だから、この先も大丈夫。」
ミカエルは立ち上がると、シャーロットを抱きしめて言った。ちっとも大丈夫なんかじゃないわ、とシャーロットは思っていた。私は耐えられそうにないわ。何度か瞬きして、眼に涙を馴染ませた。
ありがとうございました