<114>悪役令嬢は惑わされているようです
ガブリエルとクラウディアは、サニーがシャーロットと手を繋いで歩いていても特に何も言わなかった。当然のことのように受け入れて、サニーとシャーロットが話をしていても割って入ってこなかった。
変なの、とシャーロットは思った。注意もしないガブリエルには違和感しかない。ミカエルとシャ-ロットが結婚することを受け入れたんじゃなかったのかな。
動物園で、アライグマが芋を洗う様子を見てガブリエルは大喜びで「カワイー」を連呼していた。クラウディアも同じように思うのか、二人は目をキラキラさせてアライグマの柵の前で並んで見ていた。
寒いのによくじっと同じところにいられるわね、とこの前来たばかりのシャーロットは肩を竦めた。違いと言えば、今日はカバを見つけて、あれがカバか…とがっかりしたくらいだった。シャーロットが思っていたのとちょっと違った。
植物園では寒空の下を、二人の後姿を見ながらついて歩いた。隣にはシャーロットの手をポケットに入れ、にこにこ微笑むサニーが一緒だった。
「温室も見ていきたいの。いいでしょ? ここは迷路みたいになっているのよね?」
植物園の大きなドーム型の温室の前で並んで見上げると、クラウディアが嬉しそうに言った。
「迷路ですの? とても楽しみだわ。ねえ、二組に分かれて競争しましょう。何を見つけたのか、あとで報告しあうの。」
嫌な予感しかしない。
「それは、どういう組み分けをするのかしら?」
シャーロットは念のために聞いてみた。
「もちろん、今、手を繋いでいる者同士で組むのが楽しいわ。」
クラウディアはガブリエルと微笑んだ。
「お兄さまと手なんか繋いだってつまらないもの。」
「私も、将来弟となられるサニー様と手を繋いでも、仕方ありませんもの。」
「そ、そうなのね?」
言われてみればそうだなとシャーロットは思った。サニーを見上げればおかしそうにくすくす笑っている。
「では、入りましょうか。出口で待ち合わせにしましょう。」
クラウディアとガブリエルは先に入ってしまった。
シャーロットは温室入り口の傍の小さな喫茶店を見て、あそこで待ってる方が安全な気がするのよねと思った。アイスクリームありますとの看板を見ると、ローズが食べていたチョコミントのアイスを思い浮かべてしまう。
「シャーロット、入りますよ?」
サニーが耳元で囁いた。「ここにいてもつまらないでしょ?」
シャーロットは頷いて、サニーと渋々中に入った。温室の中は寒い外とはまるで異世界で、暖かくて花の匂いや草木の濃い匂いに季節感がおかしく感じられた。鬱蒼と生い茂る草木の陰に、早速ガブリエルとクラウディアの後ろ姿が消えてしまう。
「今日は迷子にならないで、滝を見て帰るわ。この前見られなかったもの。」
「そうですね、それもいいでしょう。」
サニーは優雅に微笑んだ。
道順として並べられている白い小石の小路を進んで、聞こえはじめた水の音を頼りに奥へと向かう。蒸し暑く感じたシャーロットはコートの前を開けた。髪を括りかけて、耳の後ろの跡を思い出した。
隣を歩くサニーが腹立たしく思えてきて、足早に小路を急いだ。サニーは距離を空けずに追いかけてくる。
「虫除けは、効果がありましたか?」
「効果?」
シャーロットは首を傾げた。
「昨日一緒に出かけた誰かさんに、何かを言われましたか?」
気がつかれないように気を配ったので、ミカエルには何も言われなかった。シャーロットはふるふると首を振った。
「何も?」
「そうですか?」
サニーは立ち止まって、シャーロットを抱き寄せた。力強く木の影の小路にシャーロットを引っ張り込むと、シャーロットの左耳の後ろの髪を撫でて首を出し、同じところをまた、きつく吸った。
「ちょっと、やめて。それ、結構跡が残るの。」
シャーロットが慌ててサニーの耳元で抗議すると、サニーは嬉しそうにシャーロットに微笑みかけた。
「虫除けだと言ったでしょう。消えては困るんです。跡が残るくらいでないと。」
「またしばらく髪を括れないわ。そういういたずらはやめて、サニー。」
上目遣いにサニーを見上げると、シャーロットは腕でサニーの体を押した。「もう放して、」と押してみても、サニーはぴくりともしない。
「放してほしかったら、わかるでしょう?」
「わからないわ。」
「困った人ですね、」
サニーはキスをして、シャーロットの唇を舐めた。
「同じことを私にもしてください。」
えー。いやー。
サニーの瞳を睨みつけたまま何もしようとしないシャーロットに、優しく囁きかけた。
「シャーロット、私はあなたが愛おしい。私だけを見て欲しい。」
サニーはシャーロットをきつく抱きしめ唇を舐めてキスすると、舌を割り込ませて中に入れた。
恥ずかしくて瞳を閉じたシャーロットはサニーの腕の中でムスクの香りを嗅ぎながら、しばらくされるがままになっていた。いかんいかん…。いくら腕の中が心地よくても、いくら気持ち良くても、官能の世界に流されてはいけない…。隙をついて逃げるためには待つしかない…。
やっと唇を離したサニーを睨みつけると、シャーロットはどんと両手で押して、サニーに背を向け一目散に走り始めた。元居た道に戻って、白い小石を目印に走り続ける。ぬかるんだ道に足を取られそうになりながら、水の流れる音を頼りに滝を目指した。
「シャーロット、」
滝を目の前に、シャーロットは追いかけてきたサニーに腕を掴まってしまう。人の手で作った崖の岩肌を流れ落ちる水に、虹が架かっているのが見えた。
「離して、」
立ち止まって腕を振りほどいて、シャーロットはサニーを見上げた。息を切らすシャ-ロットとは違って、息を整えてサニーはすぐに平気な顔になる。こんなところに日頃の生活の差が出るのね…。
「ああいうのはズルいわ。」
周りには人気もない。ガブリエルとクラウディアもいない。人工の滝の前にはシャ-ロットとサニーしかいなかった。大きな音を立てて滝壺に流れ落ちる水の音が、辺りに響いている。遠く、視界の隅に黒いトレンチコートの男性が見えた。首元には紫色のネクタイが見える。彼は声が聞こえなさそうな距離にいた。
「私には婚約者がいるのよ? まだ婚約は破棄されても解消もしていないし、するつもりもないわ。あなたの気持ちを押し付けて私の心を弄ぶようなことをするのは、ズルいと思うわ。」
拒絶を口にするのは怖い。でも、言わないと先へは進めない。
「シャーロット、」
サニーはシャ-ロットの傍に近寄ると、シャーロットの顔を両手で救い上げるようにして包み込んだ。
「クラウディアを見たでしょう? ディアが王太子殿下に嫁げばいい。私とあなたが一緒に生きていくのに、あの子は協力してくれるんです。」
「あんな美しい人を捨て駒に使うあなたはひどいと思うわ。あの人はあの人で自分の為に生きた方がいい。違いますか?」
「シャーロット、そんなことを言わないで?」
シャーロットのおでこに自分のおでこをくっつけると、サニーは悲しそうに言った。
「ディアはこの国に住みたいと言っています。それで十分ではないのですか? 私達の結婚に障害があるとすれば、あなたが婚約していると言うだけです。違いますか?」
「私はあなたも素敵な人で、魅力的で、努力家だと知っています。私に拘る必要がない立場なのも、知っています。私は今の状態で、あなたに寄り添う未来を思い描けません。」
シャーロットは瞳を伏せた。サニーは国王に自分で掛け合ったリュートやブルーノとは違う。私が自分の意志で婚約破棄を言い出すように仕向けてきている。クラウディアとミカエルの婚約を持ちかけるように父王を動かし、自分の手を直接汚さずに私を手に入れようと、心を支配しようとしている。
「他の誰かのものになってほしくはない、シャーロット、」
サニーはシャーロットを抱きしめて、キスをしようとした。
「もうキスはしないわ、私にも触れないで、」
シャーロットは涙を堪えながら、サニーの顔を手で押しのけた。キスをして考えさせないようにするのは卑怯だわ。愛を囁いて心を満たして、自分の思い通りに動かそうとするのも、狡猾だわ。
「あなたを嫌いになってしまう前に、私と距離を置いて欲しいの。」
「どうして嫌いになんてなるんです?」
浮かんだ涙を見開いて馴染ませながら、シャーロットはサニーを見つめた。
「あなたを好きなままではいられないなら、嫌いになって、距離を置くしかないもの。」
「どうして…、」
「…サニーが嫌いじゃないからよ。」
そうとしかシャーロットには言えなかった。好きだと言うのは違う。サニーが心を満たしてくれるのが好きだ。例えそれが打算だとしても、甘い言葉は渇いた心を満たしてくれた。
「わかりました。あなたに好かれたままでいたい。手を繋いで、シャーロット。しばらくはそれでいい。」
サニーはシャーロットに手を差し伸べた。シャーロットは俯いたまま、手を繋いだ。
嫌いと言われたのではない。好きじゃないとも言われていない。好きなままではいられないと言った。シャーロットは揺れている。焦らずにもう少しゆっくりと周到に搦め捕ろう。
「まだ時が熟していないだけだ。」
小さな声で呟いたサニーの声は、滝の音でシャーロットには聞こえなかった。
無言で歩いて温室を出たシャーロット達を、チョコレート味のアイスクリームを食べながらガブリエルとクラウディアは嬉しそうに待っていた。
「ここは楽しいわ、お兄さま。アイスクリームもおいしいの。」
「そうか、よかったね、ディア。」
歩き出した4人は、街中の方へと戻っていた。道すがら、温室の中で見つけた花の話になった。前回来た時にサニーから教えてもらっていたので、シャーロットはガブリエル達の話についていく事が出来た。
「ねえ、お兄さま、お昼はどこで食べるの?」
クラウディアが後ろを振り返ってサニーを見上げた。
「ななしやは行きたくないわ、あの女がいるもの。」
ガブリエルが忌々しそうに言う。あの時は行きたそうだったのに、半年もたたないうちに印象がまるで逆になってしまっている。
「鉄板焼き屋さんは? お兄さま、」
「話が急だったから予約していないんだ、ごめんね、ディア。」
「じゃあ、どこに行きましょうか。コーヒー屋さんでもいいわ。」
「シャーロットはどこに行きたいですか?」
サニーが何事もなかったかのように優しく問いかけてくる。
「コーヒー屋さんでいいわ。あそこはランチもやってるの。」
「じゃあ、中央市場を抜けていきましょう、中央市場も行ってみたいの。」
嬉しそうにガブリエルが言うと、クラウディアも頷いた。
日曜の人混みで混雑する市場を抜けて、シャーロット達は街の北側の住宅街の方角にあるウルサンプリュシュへ向かった。
私、もしかして月一で通ってるんじゃないかしら、とシャーロットは思った。12月はサニーと、1月はブルーノと、2月の今日はサニーとまたここへやってきている。もう来ないかもと思った店なのに、また同じ人と来てしまっている。
「あ、あれですわ!」
オリーブの木を見つけたガブリエルが興奮して指を差すと、クラウディアも目を輝かせた。
「可愛い…、可愛いですわ…!」
二人は店の前の小さな茶色いクマの形をした看板の、クマの胴体の部分の文字を指で撫で、喜びに震えていた。
「中も可愛いのよ?」
シャーロットが微笑むと、二人は嬉しそうに顔を見合せた。
緑色のドアを開けて先に中に入った二人に続いて、シャーロットとサニーも中に入った。振り向くと、紫色のネクタイをした灰色のスーツ姿の男性が後を追って滑り込むように中に入ってきた。黒いトレンチコートを脇に抱えている。彼は店の一番入り口に近い席に座ると、シャーロット達に顔を隠すようにして座った。
先に入ったガブリエルとクラウディアはしばらく店内を観察していて、満足するとやがて店の奥の方の席に座った。すぐ目の前で店員達が作業をしているのが見える席だった。若い男性の店員が今日もコーヒー豆を焙煎していた。その隣で、高齢の女性店員は調理をしていた。
「いらっしゃいませ。」
顔を見慣れてきた若い男性店員は、シャーロットを見て微笑んだ。他に客はいず、お昼時にこんな感じでお店は大丈夫なのかなとちょっと心配しながら、脱いだコートを椅子の背にかけるとシャーロットはサニーの隣に座った。
「今日はどうされますか? 今の時間はランチもやってます。」
手渡されたおしぼりで手を拭きながら、メニュー表を指差して、ガブリエルが即答する。
「では、ランチを4つと、このコーヒーをお願いしますわ。」
「私も同じものを、」
クラウディアも同じコーヒーを指差した。どこの産地のどういう特徴の豆なのか知っているのかな、とシャーロットは思って見ていた。二人とも詳しいのかしら。
「お嬢さんは?」
シャーロットは隣に座るサニーを見上げた。
「ねえ、この前サニーが飲んでいたのを飲んでみたいの。どれなのか教えて?」
「ああ、これです。では、私達はこれを二つ、お願いします。」
ガブリエルとクラウディアは嬉しそうにシャーロットとサニーを見つめていた。
「本当に仲が良いのね、あなた達。」
ガブリエルが小声で言うと、クラウディアも「そう見えるわ、」と小声で言う。
サニーは微笑んだまま何も言わなかった。距離を置きたい関係だなんて説明するのは気が引けて、シャーロットは何も言えなくなって、微笑んだままぼんやりとランチが来るのを待った。
「お待たせしました、この街でも流行りの『姫様プレート』です。いろんな料理の盛り合わせたランチです。こちらのハシもお使いになりますか?」
店員達はプレートをそれぞれ並べてくれた。王女様達に姫様プレートって! この不思議に面白い感じ…! シャーロットは内心ニヤニヤしながら見ていた。
「ハシは使えそう?」
シャーロットが尋ねると、ガブリエルとクラウディアは頷いた。本物の王女様はなんでもできるのねと感心した。
サニーも頷いたので、店員は全員分のハシを用意してくれた。今日のプレートはハシでつまみやすいように縦長に切られた鶏肉と豚肉と牛肉のステーキが2切れずつとプチトマトにポテトサラダ、半切れのバタートーストが1枚分、プリンの入った小さな器が盛り合わせてあった。
「サニーは足りますか?」
確かこの人沢山食べるんだよね、とシャーロットは思い出した。
「大丈夫ですよ、足りなければ帰りにまた何か食べましょう、」
シャーロットに微笑みかけて、サニーは食べ始めた。本物のお姫様達は嬉しそうに食べている。
食後に出されたコーヒーに添えられていたクマのチョコ2粒を見て、お姫様達はお互いの顔を見合わせて微笑んでいた。クマのチョコを口に含んで、シャーロットも幸せな気分になる。
「ここ、とっても素敵ですわね。」
ガブリエルが嬉しそうに微笑んで言った。
「コーヒーもいい香りだわ、いろんな種類があるのね。」
ガブリエルもクラウディアも砂糖を少し入れる程度で飲んでいた。シャーロットはいつも通り、砂糖とフレッシュを入れた。サニーと同じにしたコーヒーはそれでも華やかな香り残っていて、少し苦みもあって、シャーロットはこれ好きだなと思った。
「シャーロットとお兄さまは、いつもこういうところに来てるのね?」
シャーロットはサニーと顔を見合わせた。クラウディアには本の話はした方がいいのだろうか。
「いつもじゃないわ。本のお礼だったり、テスト次第、よね?」
「そうですね。シャーロットに勝たないと来れないのです。今度学年末テストがありますね。」
くすくすとガブリエルは笑って、クラウディアに言った。
「クラウディアもテストの度に、ご褒美を目指して頑張ればよろしいのです。私も毎回シャーロットのご褒美を目指していますのよ?」
「シャーロットにはご褒美は誰もあげないのかしら?」
首を傾げたクラウディアの言葉に、シャーロットはブルーノを思い出した。この前スパに連れてきてもらったっけ。
「大丈夫、くれる人もいるから。」
ガブリエルが意外そうな顔をした。サニーも静かにシャーロットを見つめている。
「今度は私があげないといけませんね、シャーロット。」
サニーがシャーロットの手を握って言った。「あなたに勝って、あなたにご褒美を貰って、あなたを労わないと、いけませんね。」
そういうのって、本当に欲しいと願う人じゃない人が言うんだけど、どうしてなんだろう。シャーロットはこっそり心の中で呟いた。
ありがとうございました