<100>悪役令嬢は凹んでしまったようです
深緑色のヘンリーネックのセーターにカーキ色のズボンに着替えたブルーノが部屋の中へ戻ってくると、シャーロットとエリックは立ち上がって、ブルーノに席を譲ろうとした。
「よく似た姉弟だなあ…、」
そんな二人の様子をにやにやと笑ってブルーノは椅子に座り、「おいで、シャーロット、」と、さっと捕まえて自分の膝の上に横抱きに座らせた。がっちり捕まったシャーロットは力の差に抵抗をあきらめて、大人しくブルーノの腕の中に納まって座った。
「おい、ブルーノ、」
咎めるようなエリックの声に、ブルーノは、「これぐらいいいだろう?」と言って笑った。
エリックが座ると、シャーロットにブルーノが問いかけた。
「なんでここに来たんだい? 王子様のところじゃなくてよかったのか?」
シャーロットはエリックをちらりと見て、「いいの、今日は、」と言った。エリックはミカエルの新しい婚約の話を知らない。いちいち言う必要などないと思った。
「どうして泣いていたんだい?」
黙ってしまったシャーロットの手を撫でて、諦めたようにブルーノは聞いた。
「じゃあ、ローズと何があったのか、教えて?」
「そうだ。お姉さまの口から、きちんと聞きたい。」
シャーロットはリュートが怪我したこと、ローズの部屋に行ったこと、ローズに言われたことを話した。ローズの金銭的な事情は話さなかった。自分が、ローズではなくリュートを可哀そうだと思ったことは、話した。怒鳴られたことを話していると、涙が浮かんできてしまう。ブルーノがそっと涙を吸い取って、頭を撫でてくれた。
「リュートが怪我をして休んでいたことは知っていたけど、そんな理由だったなんてな。」
当事者二人の話を姉の口から聞けて、エリックは集めてきた情報のかけらが綺麗に埋まっていくのを感じた。ブルーノを見ると、ブルーノはエリックに頷いていた。
「私、自分が悪い人間に思えたの。友達のローズじゃなくて、リュートを可哀そうだと思ってしまって。」
シャーロットは俯いて、自分の気持ちを話した。
「リュートが怪我をしたから?」
「それもあるけど…、リュートは怪我までしてローズを庇ったのに、ローズはリュートのことを邪魔をしてきたって言ったのが、とても悲しくて…、リュートが可哀そうに思えてならなかったの。」
エリックは黙って聞いている。ブルーノはシャーロットの手を握った。
「怒鳴られたのも怖かったわ。お母さまやお父さまに怒られる時も、怒鳴られたこと、なかったもの。」
そもそもシャーロットは親に怒られることがない。猫を被って生活しているので、怒られるようなことをしない。それに加えて幼い頃からお妃教育を徹底されてきている成果もあって、『いい子』だった。
「シャーロットは悪い人間なんかじゃないよ。」
「肩が痛いって言ってる目の前のローズよりも、あの場にいないリュートの方が可哀そうだと思ってしまったのよ? 私、ローズと友達でいたいのに、ローズがわからなくなってしまったの。」
ぽたぽたと涙を零したシャーロットを胸に抱き寄せて、ブルーノは頭に頬を寄せた。
「おかしくないよ、シャーロット。」
「友達を可哀そうと思えないのに?」
優しく背中を撫でているブルーノを見て、エリックはブルーノのこういうところが好ましいと思った。
「あの女は…、同じ人間なのか? 俺はお姉さまに怒鳴っただけでも許せないのに。」
エリックは強く拳を握った。
「リュートが気の毒で、腹が立ってきた。だいたい男爵家のあの女が公爵家のお姉さまを怒鳴るなんて、ありえないだろう。」
「エリック、」
「お姉さま、もう近寄るのはよせ。よく判っただろう? 考え方が違うんだ。混雑してる馬車寄せを歩いて横切るなんて、まともな貴族じゃ考えられないようなことを、あの女は出来るんだ。自分の為に怪我をした人間まで、邪魔だと言える傲慢さはまともじゃない。」
「それでも…。」
私は友達でいたいの。シャーロットは言いかけた言葉を飲み込んだ。
友達でいることに拘るのは、どうしてなんだろう。シャーロットは考える。
「あの女を看病しようとして、お姉さまは倒れた。そうだったよな?」
「ええ。」
過労と、貧血で。
「リュートは助けようとして、逆に怪我を負わされた、そうだよな?」
そうとしか言えない…。
「あの女の為に何かしようとすると、もしかして、親切にした分だけ損をするんじゃないのか?」
そんな風に考えたくないシャーロットは無言でエリックを見つめた。
「一人でいるのが嫌なら、俺がずっと傍にいてやる。お姉さまに友達が必要なら、あの女以外に見つけてきてやる。だからもう、あの女に拘るのはよせ。」
友達がローズしかいないような言い方だな…。
「いっそのこと、僕の国においでよ? みんなシャーロットが好きだよ? 友達なんて沢山出来るよ?」
なんか違う気がする…。二人の言っていることは、正しいけど、なんか違う。シャーロットは唇を噛んだ。
「初めて出会った時から、ローズは私とは違うの。私には理解できないようなことを考えて、私には馴染みのない価値観でものを見ているの。私はローズをもっと知りたいの。ローズは私達とは違う。そんなのは判り切ってることなの。」
「だったらなぜ?」
エリックは険しい顔をして言った。「どうしてローズに言われて傷ついているんだ? お姉さま。」
「ローズと私には越えられない壁があるって、気がついてしまったの。リュートを邪魔だと言ったローズを説得することが出来ない自分が、悔しく思えたの。」
ぽたぽたと涙を零し、シャーロットは自分の手を見つめた。
「ローズと話をしている時、私がローズの立場ならどうしただろうって考えたの。いくら考えても、馬車寄せを横切ること自体、私ならしないわって思ってしまって。どうやったら理解してもらえるんだろうって思っても、そこから先が考えられなかったの。」
「そうだな、お姉さまはそんな混雑した時間に利用する事すらしないだろうな。」
「邪魔だからってトランクを投げ飛ばしたりもしないわ。」
「お姉さまは非力だからなあ…。」
「危ないことをして引っ張られたこともないもの。ローズは私には出来ないことをしているんだって思いはじめたら、私には当たり前の価値観がローズには根本から違うんだって思えてきたの。ローズの言う、可哀そうなのは、いったい誰のことなんだろうって思い始めてしまって…。」
「俺も、ローズとは価値が合わないけどな。」
エリックはシャーロットを見た。「たぶん、この話を聞いて、ローズに共感できる人間なんていないな。」
「僕もリュートに同情するから、ローズとは価値観が違うんだろう。」
「なら、ローズは孤独だわ。だから、傍にいて助けてあげたいの。私はローズが他の誰かと考え方が違うんだって、知ってるもの。」
エリックは呆れたように言った。
「傍にいられないんじゃないのか? さっきの話だと、あの女はお姉さまを切り捨てたよな?」
シャーロットは忘れようとしていた事実を指摘されて無言になる。
「しばらく、距離を置けよ、お姉さま。学年末テストが終わって、順位が落ちれば、あの女は奨学生から外れる。その勉強の邪魔だって言われるだろうから、距離を置け。いいな? 近寄るなよ?」
「寂しいなら僕が代わりに遊んであげようか?」
「そういうのはいらないわ、ブルーノ。」
シャーロットはブルーノの瞳を見つめた。碧い瞳は柔らかく微笑んでいる。
「価値観が違うならお互いが歩み寄って埋めていけばいい。でも、お互いがお互いを必要としなければ、歩み寄ろうにもどうしようもないんだよ。」
そういったブルーノの瞳は、どうしようもなく美しくて、どうしようもなく悲しい色を帯びていた。
ブルーノと二人で夕食を食べに、シャーロットは学食に行った。一緒に部屋を出たエリックは途中、用事があると言ってどこかへ行ってしまい、一緒に夕食を取らなかった。
向かい合って二人で夕食を食べていても、ブルーノはシャーロットに話しかけたりすることはなかった。ただ、時々目が合うと微笑んでいた。シャーロットも、目が合うと微笑むだけで、話をしようとはしなかった。
楽しい話も悲しい話も、したい気分ではなかった。ブルーノが傍にいてくれるだけで、傍で微笑んでくれる人がいるだけで、心は満たされている気がしていた。
二人で指を絡めて手を繋いで寮まで帰ると、「また明日、」とブルーノは耳元で囁いて、男子寮の自分の部屋へと帰っていった。シャーロットも手を振って、自分の部屋へと戻った。
自分の部屋に戻ったシャーロットは、部屋にまだミカエルがいないのを確認すると、溜め息をついた。
まだ、クララ達と仲良くやってるのかな。シャーロットは無言でシャワーを浴びて、さっさと自分のベッドに入って眠ってしまった。
もう今日は何も、考えたくはなかった。
習慣で目覚まし時計が鳴る前に無意識に止めたシャーロットは、暖かい何かにぶつかって目が覚めた。
「ん…?」
一晩中傍で寝ていたのだろうか。目をぱちくりすると、シャーロットは隣で眠っているミカエルの鼻をつまんだ。
「ひとのベッドで何をしてるの?」
「ん? 睡眠?」
目を瞑ったままのミカエルが眠そうに答える。
「もう朝? 早いね。起きたの? シャーロット。」
「起きるよ、朝だもの。ねえ、いつからそこにいるの?」
「もう少し寝かせて…。」
毛布の中に頭を突っ込んで、ミカエルはシャーロットに背を向ける。
「この毛布、気持ちいいんだもん…、さすが公爵家、持って来てるものが上質…。」
褒めてもらうのは嬉しいけどちょっと困るわ。シャーロットはミカエルの上を跨いでベッドの外へ慎重に出た。
暖かくてよく寝た気がしても、体のあちこちが縮こまっている感覚がして、シャーロットは大きく伸びをした。
顔を洗って白いニットのワンピースに着替えていると、ミカエルがシャーロットのベッドから這い出てきた。
「おはよう、シャーロット。」
「ええ、おはよう、ミカエル。着替えたら、ちょっとお話しましょうか。」
シャーロットは椅子に座って微笑んだ。
寝ぼけ眼のミカエルは、ゆるいだぼだぼの水色の膝下丈のニットワンピースに灰色のニーレングスの靴下に着替えて髪をブラシで梳くと、シャーロットの前に自分の椅子を持ってきた。
「昨日、誰とご飯食べたの?」
「ミカエルがそれを聞くの?」
「僕は一人だったよ? クララ達が帰ってしまった後、君を待ったけど来なかったから。」
「そうなの…。私はブルーノと食べたわ。」
ミカエルはシャーロットの瞳をじっと見た。青い瞳が射貫くようにシャーロットを見ていた。
「昨日、先に帰ってって言ったのは、ブルーノと一緒にいるため?」
「ううん。違うわ。リュートに会いに行ったの。」
「それはどうして?」
ミカエルを見つめながら、シャーロットは、お昼にチーム・フラッグスの学生達からリュートの怪我を聞いたこと、帰り道にリュートと話したこと、その後ローズに会ったことを、ぽつりぽつりと話した。
ローズに怒鳴られたことを思い出すと、体が震えて泣きそうになった。でも、手を握って、自分を励ましながら話した。ローズが惨めに感じている話も、ミカエルには話す。
「そっか…、それで、昨日、クララ達を見て、逃げ出したんだね。」
「クララ嬢は…、ローズを攻撃するって言ってたことがあるわ。新しい婚約の話も思い出してしまって…。」
「それは…、僕との婚約は、ありえないんだよ。シャーロット。ゲームの中だと、クララは確かに結婚するけど、僕じゃないんだ。」
だからミカエルは、あの時詳しく話してくれなかったんだ。シャーロットはミカエルを見つめて尋ねてみた。
「クララ嬢は、ゲームにも出てくる人なのね?」
シャーロットは以前ミカエルから聞いた、バッドエンドという終わり方に出てくるローズ以外の結婚相手が誰なのか知りたいと確かに思ったこともあった。
「そう。誰の相手なのか知りたい?」
「ミカエルのじゃないならいい。」
「ふうん? 興味ないの?」
「聞いても、その通りになるとは限らないと思うわ。違うかな?」
これだけローズがゲームから外れた行動をとっている以上、別の誰かに修正されてしまう可能性もあるように思えた。
「ああ、確かに、攻略対象者の4人が4人とも、ローズと仲良くしてないからね。」
「…みんな、する気が無いんでしょう? ミカエルだって、仲良くしてないじゃない。」
「僕の場合、ローズと仲良くすると、シャーロットはいきなり悪役令嬢になっちゃうからね。僕以外の誰かに頑張ってもらいたいな。」
ミカエルは笑顔で言った。「そうするとライバルが減るし、助かるんだけどね。」
「ねえ、ゲームの中でも、リュートは怪我をするの?」
「しないよ? するのはローズだから。させるのは君だし。」
「は? はい?」
「ゲームの後半で、君は結構あからさまにローズに嫌がらせを始めるんだ。身分に拘る悪役令嬢のシャーロットは、庶民なローズの立ち居振る舞いが気に入らなくて、僕やエリックに気軽に話しかけるローズを罵ったり、階段から突き飛ばして落とそうとしたり、持ち物を隠したり、って感じで嫌がらせするんだよ。ローズは被害を受けて、攻略対象者に優しく助けられるんだよね。ま、やらないとは思うけど、一応伝えておくね。」
「する理由がないのに、聞いても仕方ないと思うわ。そうすると、リュートの怪我は、ゲームにはないのね?」
「そうなんだよなあ…。ゲームでは前半戦の終了に向けて、バレンタインでの親密度を上げる小さなイベントが、立て続けに起こってる時期だったんだけど…。」
ミカエルが首を傾げて考え込んでしまったので、シャーロットはバレンタインが何かを聞ける雰囲気ではなくなったと思った。人の名前なんだろうか。
しばらく考えていたミカエルは、シャーロットの手を握ると立ち上がり、「朝ごはん食べに行こう、」と誘った。
「おなか空いちゃった。シャーロットが大変だったってよく判ったし、続きの話は部屋に帰って来てからにしよ?」
「私、ローズに嫌われちゃったのかな。」
立ち上がるついでにミカエルに抱きついて、シャーロットは間近に顔を見ながら問いかけた。
「大丈夫じゃないかな? むしろ、ローズはシャーロットに嫌われたと思ったんじゃないかなと思うけどね。」
「どうして?」
私を怒鳴ったから?
ミカエルはシャーロットにそっとキスすると、優しく微笑んだ。
「シャーロットが優しいからだよ?」
ローズをかわいそうと思えなかった私は優しくない気がするんだけどな~。シャーロットは首を傾げて、ミカエルと一緒に部屋を出た。
ありがとうございました