桜と菜の花の約束
「姉さん」
店を出て別れ際に、菜子が私に声をかけた。
「どうしたの?」
「駅までお帰りなら、川に近付かないように」
あまりに真面目くさって言うのでなんだか可笑しかった。
「分かったわ。カッパがいるのよね?」
「信じていないでしょう」
「そんなことないわ。菜子がそう言うなら、本当なんでしょう」
これで襲撃されたら寝覚めが悪いですからね、伝えましたよ、と念押しされたので、私ははいはいと頷く。
その隣、やぶにらみの青年、邦彦くんが私をじっと見ていた。
大学の男の子たちが向けてくる熱っぽい視線とは違う。
「ちょっと、悪い」
「え?」
断ってから、私の左肩を払うような仕草をした。
「邦彦くん?」
「大したことねぇよ、ちょっとゴミが付いていただけだから」
「あら、ありがとう。気が付かなかったわ」
いつから付いていたのだろう、お恥ずかしい限りだ。父様によれば服装の乱れは心の乱れ、家に帰る前に鏡を確認しなければ小言を言われてしまう。
「……。道中お気を付けて、姉さん」
「菜子も、体に気を付けてね」
じゃあ、と別れの言葉を言いかけて、私は言い忘れたことを思い出した。
「父様と母様のこと、そして私のことも、許してとは言わないわ。貴女がたくさん苦しんで悩んだことは、私が一番よく知っている」
「姉さん……?」
こんなことを言う資格はないのかもしれない。
自分のことで精一杯だった私は、幼い菜子を守ってあげることができなかった。もっと菜子を庇ってあげれば良かった。もっと菜子と話をすれば良かった。
後悔は尽きない。
ならばせめて、悔いを重ねないように。
「何か困ったことがあれば、いつでも連絡をちょうだい。力になりたいのよ、姉として」
菜子の手の上に、私の連絡先を書いた名刺を握らせる。
名刺のデザインに目を落とした菜子は涙を拭う仕草をした。
「姉さん……顔が良いからって、まさか風俗に……」
「ち、違うわよ! 生協で自分の名刺を作ることができるのよ。私、歴史学を専攻しているから取材に行くことも多いし」
やはり勧められるままハートの多いデザインにしたのが良くなかっただろうか。どうりで受け取った人たちみんなが微妙な顔をする。
でも百枚刷ってしまったし……と在庫処理に悩んでいると、菜子がふふふと笑った。
「なんだ、姉さんもそんな顔ができるんですね」
「あ……」
羞恥と焦りに紅潮した頬を押さえる。
「そちらの方が人間らしくて良いと思いますよ」
「そ、そう……かしら」
「良ければまた飲み直しましょう」
お茶の話だろうと知りつつも、菜子が「次の機会」を考えてくれていると分かって嬉しかった。
「またね、菜子」
「ええ、また」
手を振り合って私たちは別れた。
「……やってくれたな、あの先輩」
密かに毒付く邦彦くんの呟きは、私の耳に届かなかった。
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