雨の日の
私の両親は大変厳しい人でした。
それは娘の将来を思っての指導だったのだろうと頭では分かっていますが、理想を押し付けられたこちらはたまりません。
しかし私の姉は上手く親の理想にこたえていました。
理由は簡単。彼女は私よりも器用だったからです。
彼女はどこで手を抜けばいいか、どこで人目を盗めばいいかをよく知っていました。成績優秀、容姿端麗、品行方正……おおよそ女性に求められうる完璧さを、姉は持ち合わせていました。
それをうらやましいとは思いません。
私は彼女ではないのですから。
しかし昔の私にはそれが分からなかった。彼女にならなければいけない。姉のような女性にならなければ。なりたい、ではない、そんな義務感に捉われていたのです。
小学六年で当然のように私立の女子校に受験し、頭に入ろうはずもない勉強のために塾へ通い、好きでもない本を広げる日々。図書館の貸し出しカードには私の名前がずらりと並びましたが、その実私は一冊も読み切ることはありませんでした。
目が悪くもないのに眼鏡をかける習慣は、そんな私にとって呼吸をするより自然な行動だったのです。
◇
「京也くん、失礼。ここの関数について教えてください」
「おっ。ここ難しいもんね~。えっと、まずこの数字をこっちのXに代入してみて」
屈託ない笑みを浮かべる京也くん。
幼少年の心を持ってそのまま大きくなったような彼ですが、実は瑞明高校では学年トップを争うほどの頭脳の持ち主だということをあまり誰も知りません。
理由の一つは、うちの高校に成績を掲示板に貼りだす風習がないから。
偏差値や点数分布図はプリントで配布されますが、成績優秀者の個人名が生徒に知れ渡ることはありません。
そして理由の二つ目が、
「はっ。しまった!」
「どうしました」
京也くんは顔色を青くして叫びました。
「今日、戦隊ジャスティスのスペシャル予約すんの忘れた!」
「うっせぇ!? ここ自習室だよ!?」
すかさず邦彦くんの突っ込みが飛びました。どちらも迷惑加減はあまり変わりないのですが。
そう。二つ目の理由は、このすっとぼけた性格が浸透しすぎて、誰も彼に「頭脳明晰」というイメージを抱けないからです。
その点、私と彼は真逆と言えるでしょう。ちなみに私の成績は、下から十位を競っています。みなさん、眼鏡にだまされてはいけません。
もちろん、こんな私にも取り柄はあります。
「京也くん、知っていますか」
「なに?」
「メリーさんはシュークリームが好きだそうですよ?」
邦彦くんと知り合ってからは、苦手な本を読みあさってオカルト関係を調べるようになりました。ネットでもその手の情報はつきませんからね。
不思議なことに、全く将来に役に立たないと親に切り捨てられたものほど私の頭に入りました。我ながら現金なことです。
「え、マジ? 今日買って帰ろ」
「何、お前まだあいつと連絡取ってんの?」
お向かいの仕切りから邦彦くんが顔を覗かせる。
昔ほど拗ねた目をしなくなった彼は、童顔がなくなったために磨きがかった目つきの悪さで眉をひそめている。
「もちろん! すっげーいい子だよ? あの子」
ちょっと可愛いクラスメイトのことを話すみたいに、にこにこしている京也くん。
私はじっと京也くんの顔を見つめました。
「変わりましたね、京也くん」
「?」
彼はいつのことか分からなかったのでしょう。首をひねるだけでした。
◇
中学二年の冬、全国模試の受験のために駅を三駅ほど離れた他校を訪れました。
名前は忘れてしまいましたね。私立で、とても古い校舎だったのは覚えています。
教室中の机が全てボロボロの木でできていたこと、窓からの隙間風でストーブを焚いていたにも関わらず教室が殺人的に寒かったこと、断片的な記憶からも間違いないと思います。
その日はとても冷たい雨が降っていました。
リスニング機械の手配のためでしょう。英語の前の休憩は二十分ほどもうけられ、気分転換に外へ出ることもできない生徒たちの多くは、数少ない同校の友達と集まりあって話し合っていました。分からなかった問いの比べあい、提出した空欄の多さを誇る自慢話。
特に私は気を許して話す友達もいなかったので、人の少ない渡り廊下へぶらついていました。全国模試など出題範囲が広すぎて予習しても意味はないですからね。
しかし、私は渡り廊下に並んでいたすのこを踏んだ瞬間、それが間違いなのだと知りました。
黒い学ランの集団が居座っていたからです。
彼らは私に背を向け、雪合戦でもするみたいに何かを雨の中に投げ込んでいました。
泥にまぎれたそれが何かは分かりませんでしたが、投げられる前の彼らの手の中にあるものがちらと見えて、やっとそれが消しゴムや鉛筆といった文房具類だと気が付きました。
「ほら、次こっちだぞ!」
「早く拾えよ、犬!」
「ぎゃははは!」
耳につく下品な笑いと、雨の中投げられた鉛筆を拾おうと膝をついている同じ学ラン姿に、私は思わず口笛を吹きそうになりました。
これすなわち……。
驚きました。いや、カッパだけでなくこうしたいじめっ子とやらもまだ絶滅していなかったのですね。
彼らは私の視線に気が付きましたが、立ち尽くしているのをビビっているせいだと思ったのでしょう。さして気にせず頭の悪い遊びを続けていました。
「ホームラン!」
「ひゃははははは! ありゃ柵越えちまったんじゃね!?」
「どうするよワンコちゃん! 柵登ってみるか!?」
私はすのこの上を歩き、彼らの真後ろに差しかかりました。
この時には、私が先生を呼ぶ気配がないと彼らも油断していたのでしょう。
全く、つくづく可哀想な頭です。
私に背を向けた彼らは私の手の中で、鉛筆がひらめいたのも気付かなかったのですから。
ええ、そうです。
私はさっと素早くかがみこみ、化け狐が人の尻小玉を抜き取るかのように、両手に持った鉛筆を彼らの尻、双丘の間めがけて順々に思いっきりぶっ刺してやりました。
我ながら会心の動きでしたね。手の中で小気味いい音がしました。
「「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」」
「いけませんね。ナイーブになっている受験生の前で無防備なケツをさらすなんて」
私は折れた鉛筆を適当に放り、エビ反りに地に伏せた彼らを見下ろしました。どうせカンチョー済みの鉛筆を英語で使う気はさらさらありません。
「な、なんだてめぇ……っ!?」
「通りすがりの美少女Aとでもお答えしましょうか」
「ふざけんなっ!?」
声は威勢が良いですが、立ち上がった様が内股では決まりませんね。
さて、ここからどうしようか、と私が思案していると、バタバタとこちらに走ってくる気配が。
おや、この怒鳴り声は。
「あっやべ……!」
「逃げるぞ!」
クモの子を散らす、とはこのことでしょうか。
いじめっ子たちが姿を消した、わずか数秒後にまたも同じ学ランが飛び込んできました。
「おい! 大丈夫か!」
集団の代わりに私がいたことに少しひるんだ彼ですが、すぐに雨の中自分の荷物を拾い上げ続けている少年に目を向けて舌打ちしました。
その舌打ちがあまりに昔と変わらないので、私にはすぐに彼だと分かりました。
彼はずぶ濡れの少年を渡り廊下へ引っぱり上げ、あろうことか胸倉をつかみあげたのです。
「な…っんで! またあいつらにほいほいついて行ってんだよ! いい加減にしろよ!」
まるで少年の方に非がある言い分です。
この時は彼らがどのような関係なのか、また先ほどの一団とどんな確執があるかも私には分かりませんでした。
しかし怒鳴る彼は、頭一つ分は小柄な少年を本気で心配していたのでしょう。
屋根のあるところで改めて見た少年は、とても平凡に見えました。
丁寧に切り揃えられた黒髪。何の特徴もない、幼さと真面目さだけを表す顔。頑固そうに口を引き結んで、自分をつかむ彼を負けじとにらみ返していました。
どれほど無言でそうしていたでしょうか。
胸倉をつかまれる、というのはなかなか息苦しいようで、少年が辛そうな表情をしているのに気付き彼は手を緩めたのです。
その隙に手を振り払った少年は、両手に泥だらけの鉛筆を抱え、彼を押しのける形で校舎の中に入ってしまいました。
自分にかまうな。
その背中がそう言っているようでした。
「……悪かったな、あんた」
そんなことを彼が言うので、私はおやと目を丸くしました。
「そう聞くのは二度目ですね、カッパの川流れさん」
今度は彼の方が驚く番でした。
「なんで知ってんだよ」
ああ、覚えてないのですね。
そうでしょう。カッパなどが日常に現れるような彼の生活の中では、私ごときとの出会いなど記憶に値するものではないのでしょうから。
「お気になさらず。そろそろ試験開始の時間ですね」
「あ、ま、待てよ!」
歩き出しかけた私が肩ごしに振り返ると、
「さっき連中が逃げてくのが見えた。あいつ、助けてくれたんだな。……サンキュな」
そう照れくさそうに彼は言いました。
正確には彼らはあなたにびびって逃げていたようですが。せっかく感謝されているのに、余計なことを言う必要もないでしょう。
「いえいえ、鉛筆を数本ばかり犠牲にしただけですから」
「?」
「こちらの話です。あなたのお名前をお伺いしても? カッパの川流れさん」
また彼と会うことがあるだろう。
その時の私は訳もなく理解していました。以前彼が私の前に流れ着いたように、今日彼が人助けのために馳せ参じたように。
「……照間。あんたは?」
テルマ。テルマくん。ふむ。
口の中で転がし、その名がかつて噂話で聞いた変人の名前だと気が付きました。
照間というこの変人は、未だに幽霊妖怪の類を信じているのだと。
なるほど、彼が。
私は納得しました。普段使わない表情筋を動かし、精一杯微笑みました。
恐れ知らずの、心優しい彼のために。
「通りすがりの美少女Aです」
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