あなたは悪くありません
詳細な描写はありませんがグロい状況に陥ります
苦手な方はご注意下さい
……ん?どうかしたかい?
悲しげな、顔をしていた?ぼくがかい?
んー……そうか。うん。そうかもしれないね。少し、昔を思い出していたんだ。
そうだな、短い間で良いから、話を聞いてくれるかい?お茶の時間だけで、かまわないから。
うん、ありがとう。
…どこから、話せば良いかな。あれは、そう、ぼくがまだ、探偵ではなく霊媒師を名乗っていた頃の話だ。
その頃のぼくはまだまだ若く、駆け出しの霊媒師でね。自分の能力でひとを救えると言う状況に、自惚れていたんだよ。
…今思えば、愚かなことだけどね。
師匠から独り立ちして動き始めて、師匠の弟子としてじゃなくぼく個人として依頼を受けて解決して、感謝されて。まるで自分が万能の神にでも、なった気分だった。
本当は、そんなことなんてなかったのに。
困っているひとを救う。それが、ぼくの使命だと思っていた。いや、まあ、それは、今も変わらないのだけれどね。
当時のぼくの間違いは、自分の判断を過信し過ぎていたことさ。霊を祓って、それで万事解決すると考えていた。
ああ、懺悔ばかりしていても話が進まないね。
そんなぼくの、認識を変えさせる出来事があったんだよ。
人生の転機と言って良い。なにせぼくが霊媒師をやめて、探偵を始めるきっかけになった出来事だからね。
ことの始まりは、とある依頼、だった。
「友人が、なにか悪い霊に取り憑かれているみたいなんです」
OLだと名乗るその依頼人は、そう語った。
「大学のときからの友だちで、同僚なんですけど、すごく美人でモテるんですよ。何度も何度も告白されて、でも、全部断ってるんですよね。
数人からなら、タイプじゃなかったからかな?とか思うんですけど、何十人も振ってるから、理由訊いたんです。そしたら、間に合ってるからって。
おかしいんですよ、彼女、彼氏なんていないはずなのに」
依頼人が見せた写真の女性は、確かに美人だったよ。
そうそう、ぼくはデジタル写真と言うものが嫌いでね。なぜならデジタル写真には霊が写りにくくて…っと、話が逸れたね。
依頼人は熱心に、その友人の異常さを語った。
「思い返せば、彼女が言い寄られたり男性に近付いたりすると、変なことが起きるときが多いんですよね。変な音がしたりとか、ものが割れたりとか、停電したりとか。
彼女に告白したひとがその後病気で寝込んだりしたことも、ありました」
「それで、この女性が霊に取り憑かれていると?」
ぼくが訊ねると、依頼人はそれだけじゃない、と首を振った。
「彼女は年中長袖を着ていて、真夏でも首まで隠れる服を着ているときすらあって、寒がりなのかと思っていたんですけど、この前、着替えのときに偶然見ちゃったんです。彼女の首とか腕に、くっきりと手形が残っているの。
あの、首の痕、まるで首を絞められたみたいでした」
「それが、霊の仕業だと言う根拠は…」
「彼女、独り暮らしで同居人もいないし、なにか事件に巻き込まれたとかでもないんですよ?普通の人間が、そんな、くっきり痕が残るほど首を絞められる機会なんてありますか?」
とにかく一度見てみて、なにか悪い霊が取り憑いているのなら祓ってあげて欲しい。
依頼人の熱心な頼みに、ぼくは折れて件の女性を見に行くことにした。
きみも、知っているだろう?なんだかわからないけれど不安。そういう依頼人の相手をするには、相手の要求を飲んであげることも必要だって。
ここには霊なんていないと言う言葉、あるいは、霊を祓ったと言うポーズ。霊の見えない依頼人の求めていることは、本当は浄霊でもなんでもなく、そう言う気休めだったりするのだよ。
そして、実際に見た彼女は、今思い返しても、酷い、のひとことしか言えない様相だったよ。
目視出来る距離に近付くまでもなく感じられる異常な威圧。直視するのも辛いほどに彼女を取り巻く怨念。濃い霧のように彼女を覆い隠す邪気の奥にほんのかすかに見える彼女を、幾重にも幾重にも雁字搦めに巻き付き縛り付ける、執着心を具現化したようなおぞましい鎖に、縄に、帯。
あそこまですさまじく霊に取り憑かれた人間には、あとにもさきにも彼女以外会っていない。これからも、出来ることなら遭いたくない、ね。
明らかに末期だった。あんな状態でいれば、遠からず、彼女は取り殺される。
そう判断したぼくは迷いもせずに、その女性にコンタクトを取った。
きみには危険な霊が取り憑いている。すぐにでも祓わなければ危険だ、とね。
詐欺師や気違いだと思われる可能性もあった。ぼく自身が危険人物とみなされ、警察なりなんなりを呼ばれる可能性もね。
本当なら彼女に直接コンタクトを取ったりせず、依頼人を通した方が良いとはわかっていた。
けれどそんな悠長なことを言っていられるとは思えないくらい、彼女はやばい状態だったのだよ。
彼女は今にも死にかねない。そして、彼女を取り殺したあとの霊が、どう暴走するかはわからない。二重の危険性が、ぼくを突き動かした。
とにかく彼女から祓って、封じて、その後は師匠に頼ることもやむなし。
そこまで覚悟して、ぼくは彼女に話し掛けた。
「…霊媒師、ですか」
突然声を掛けて近くのファミレスに連れ込み、こちらと関わりのない人間から見れば突拍子もない話をしたぼくに、彼女は胡散臭がる素振りも見せずに対応した。
「信じられない気持ちは、」
「いえ」
まずは信頼をと思ったぼくの言葉を彼女は遮った。
「女性の髪が絡み付いている、でしたか?あなたでなくほかの霊能力者を名乗る方からも、言われたことがありますよ」
「髪?」
目の前に座る彼女を見つめる。ファミレスの机一台。間に挟むのはそれだけだと言うのに、黒いもやをまとった彼女はよく見えなかった。けれど、彼女に絡み付いているのは髪の毛なんて生易しいものでないことはよくわかった。
「…あなたを縛っているのは、髪の毛ではありませんよ。見える限りですが、鎖と縄、そして、太い包帯のような帯、ですね。黒い鎖を、髪と見間違えたのか…?失礼ですが、その霊能力者の名前をお訊きしても?ないとは思いますが、霊能騙りの詐欺師かも…っと、こんなことを言うぼくの方が詐欺師らしく聞こえるかもしれませんが、」
「いいえ。そうですか」
女性はため息を吐くと首を振り、ぼくと視線を合わせた。
「心配なさらなくても、そのような霊能力者はおりません。どうやらあなたは、本物のようですね」
女性が右腕を持ち上げて呟いた。その視線はどうも、腕に巻き付いた拘束具を見ているように見える。
「もしかして、あなたも見えているのですか?でしたら、おわかりでしょう。あなたの今の状況は異常です、すぐにでも浄霊を、」
「いいえ」
ぼくの言葉をみなまで聞かず、彼女はきっぱりと言った。
「浄霊は必要ありません。このままで、問題ありませんから」
「そんなはずは、」
「わたしたちは、これで良いんです」
頑なな態度にもしやお金がネックなのかと思ったぼくは、立ち上がろうとした彼女の手を掴んで引き留めようとした。
「お金なら無償で構いま、」
ぱんっ
ぼくのすぐ上の電球が、音を立てて破裂した。破片が、頬に傷を作る。
考えるまでもない。彼女に憑いた霊の仕業だった。
慌てたようすで、店員が駆けて来る。
「お客さま、お怪我は、ああっ」
「大丈夫です」
滲んだ血を、ハンカチで押さえる。
「…どうぞ」
彼女が差し出したのは、アルコール綿と絆創膏だった。
「ありがとうございます」
「あ、あの、席を」
「いいえ。もう出ますから」
席を移るよう言おうとした店員に首を振った彼女が立ち上がる。
伝票に手を伸ばそうとした彼女へ、声を掛ける。
「お代はぼくが、」
「いえっ、結構です。申し訳ありませんでした」
店員が伝票を取り、四十五度の最敬礼で謝罪した。
「…ごめんなさい」
彼女の謝罪は恐らく、霊が電球を割ったことに対して。だが、見えていないであろう店員に通じるはずもなく。
「いいえっ、あのっ、本当に申し訳ありませんでしたっ」
ぺこっと頭を下げる店員から逃げるように、彼女は店をあとにした。置いて行かれまいと追い縋ったぼくを振り向き、彼女が言う。
「わたしに、害はありません。祓わないで下さい。余計な手出しをすれば、次はそんな傷では済みません。わたしたちに、浄霊など必要ないんです」
「害がない?その見た目で?」
「他人には見えませんし、わたしを傷付けもしません。霊媒師だとおっしゃるのでしたら、ご存知でしょう。霊なんて、人間に触れられもしない脆弱な存在だと」
“霊体”は確かにひとには触れられない。けれど、“霊力”は触れられないとは限らない。これほどの禍々しい存在が、霊力を持たないはずなんてない。
害はない、なんて言葉は、嘘だとぼくは判断した。
そこまで考えて、違和感を覚えられなかったのが、ぼくの未熟さだったよ。
「…もしや、ぼくを案じているのですか?心配なさらなくても、それなりに高名な霊媒師の弟子です。不安だと言うのでしたら、師匠を呼んでも良いのです。とにかく、あなたを助け、」
「要りません」
取り付く島もなく、彼女は首を振った。
「本人が、不要だと、言っているんです。余計なお節介は、やめて頂けますか?良いですか、絶対に、浄霊は、しないで下さい。お願いします。必要、ありませんから」
「あ、」
「失礼します。頬、お大事に」
呼び留める間もなく、彼女は立ち去った。
追い駆けようとしたが、身体が動かない。凄まじい殺気のこもった目で、誰かに睥睨された気がした。
ぞぶりと身が震え、ぐっしょりと冷や汗をかく。
祓わなければ。
ぼくは、その気持ちに囚われていた。
その後、依頼人に事情を説明すると、お金はいくら払っても構わないから浄霊してあげて欲しいと頼まれた。頼まれるまでもなく、浄霊するつもりだった。
すぐに準備に取り掛かり、三日かけて準備を終えるとすぐ浄霊に向かった。
出立前、師匠に連絡した。封印後の浄化を手伝って貰うためと、万一のときの、保険として。
『祓うなって?憑かれたやつが、そう言っているのか?』
「ええ。ですが、一刻の猶予もないと、」
『待て。俺が行く。だから祓うのは、』
「大丈夫です。無茶はしませんから」
『そうじゃねぇ、そいつは、』
「浄化は厳しいかもしれませんが、封印くらいならひとりで問題ありませんよ。もう、一人前なのですから」
『だからそうじゃ、』
師匠の言葉を聞かず、ぼくは電話を切った。
師匠ですら浄霊を躊躇うような。そんな霊を祓って、認められたかったのだ。
ああ、酷く傲慢で、愚かだった。
この上なく愚かで、どうしようもなく馬鹿だったよ。
ぼくはもっときちんと、彼女の言葉に、師匠の助言に、耳を傾けるべきだった。
時が戻るなら、あのときのぼくを殴ってでも止めたいよ。でも、そんなのは、不可能なんだ。
ぼくは、取り返しの付かないことを、してしまった。
時刻は、夕刻だった。
ぼくは依頼人から聞いた彼女の住むマンション近くに陣取り、彼女の帰宅を待った。
彼女の部屋は高層マンションの七階で、少し離れた位置にファミレスがあった。その、窓際の席で、彼女が前を通るのを待つ。
あらかじめ、通勤路であろう道に細工をしておいた。巧くそこを通ってくれさえすれば、彼女から霊を剥がせる。そうして剥がした霊を、封じてしまえば良い。
じりじりと、待つことしばし。
彼女が、現れた。
巧妙に隠した細工に気付くことなく、彼女がその道を通り過ぎる。
剥が、れた。
急いで会計をし、駆け付けた。
そこは、身を切るような冷気に包まれていた。
[テ、メェ…っ!!]
ぼくに気付いた“ソレ”が、憤怒の形相でこちらを睨み付ける。
殴り掛からん如き怒気だが、結界に阻まれてこちらへ襲い掛かることは出来ない。
[今すぐ、解放しやがれ!!離せェっ!!]
ひと型は、している。しかし、ひと、とはとても言えないおぞましいなにかだった。
どこまでも囚われ、堕ちて行ってしまいそうな、深い、深い、深い、暗黒。ぽっかりと口を開けた深淵の、今にも崩れそうな縁に立ったような、どうしようもない心許なさで、吐き気がする。
肺腑を掻き混ぜられた心地で、ぐらぐらと視界が揺れる。明滅する。
[おい、聞こえてんのか、解放しろって言ってんだよ!!]
声と見た目から、彼女と同じ歳くらいの若い男。噛み付かん勢いで、こちらに食い掛かって来る。
「解放、は、しない…」
やっとの思いで、それだけ口にする。
顔を手で拭えば、べっとりと脂汗が付いた。
「お前は、害だ」
[どっちがだよ!?]
投げ返された怒号に、え?、と思う。
男は怒っていると言うよりも、焦っているように見えた。
[早くしねえと、朔弥がっ…]
言葉の途中で男が、ぱっと振り返る。
見上げた視線の先は、彼女のマンション。
[朔弥ァっっ!!]
七階のベランダに、人影が見えた。
なにかと揉み合うように、手すりを背に仰け反っている。
その人影がこちらを見て、手を伸ばした。
助けを求めるように、男に向けて。
苦しそうに歪んだその顔は、彼女の、
[朔弥っ、おい、早く解放しろ!朔弥が!!]
混乱したぼくが怒鳴り声を理解するより、それが先だった。
たすけて、と、彼女の口が動く。
押し出された身体が、落下した。
[朔弥ァアァァァアっ!!]
ごうっと、凄まじい霊圧に吹き飛ばされた。
ぶちぃっと、無理矢理結界が破られる。
その、タイムラグで、ことは全て終わっていた。
重く湿った打撃音と、悲鳴。
音源目掛けて、男が飛ぶ。無理矢理結界を突破したからだろう。その身体は、半分消えかかっていた。
[朔弥、朔弥ァっ!テメェら、失せやがれ!!]
即死、だったのだろう。
身体からふわりと浮き上がった彼女に押し寄せた霊たちを、半分欠けた男が一声の下に消し飛ばす。
[玲、ちゃんっ]
彼女が、やって来た男に抱き付いた。無惨な骸とは違う、美しいままの姿で。
彼女に触れた途端、男の身体の欠けはなくなった。
[朔弥、ごめん、ごめん…俺っ]
[良いの。良いんだよ]
顔を歪めて泣く男に、彼女は首を振って笑みを見せた。
[やっと、触れた。ね、もう、離れないで?離さない、で]
[離さない。ごめん。約束したのに、守れなかっ…]
[ううん。ずっと、守ってくれてた。こんなに長く、生きられたよ?だから、泣かないで、玲ちゃん。これからは、ずっと一緒、でしょう?誰にも邪魔されずに、ずっと]
彼女に縋り付いて泣く男は、先の悪霊と同じ存在とは思えぬ善良そうな霊だった。
涙でぐちゃぐちゃの顔で、彼女への誓いを告げる。
[離さない。もう、離さない。今度こそ、朔弥を、守るから]
[うん。ありがとう、玲ちゃん]
その、会話を、ぼくは呆然と眺めていた。
状況が、まったく掴めなかった。
彼女が不意に、こちらへ目を向ける。
その指が、つい、とどこかを指差した。
「あ…」
その先に、居たのは、依頼人。
惨い状態になった死体を見て、
嗤って、
いた。
「ふ、ふふふ」
狂気を孕んだ目付きで彼女だったものを見下ろし、含んだ笑い声を漏らす。
「死んだ。やっと死んだ。あは、あははははっ」
笑った依頼人が、こちらに気付いて目を向ける。
彼女の霊には、気付いていない様子だった。
つかつかとぼくに歩み寄って、狂った笑みを見せる。
「あなたに頼んで良かったです。ずっと、呪いを弾きやがって、本当にうざったかったんですよ、あの霊」
「え…?」
「あは、ざまないわ。こんな死体見たら、あのひとも幻滅よね。と言うか、自殺するような女なんて、死体を見るまでもなく幻滅かしら。ふふっ、好い気味だわ」
意味が、わからなかった。
この女は、なにを、言っている?
ぼんやりと見返すぼくに気付き、依頼人は上機嫌で説明した。
「気付かなかったんでしょう?まあ、普通のことじゃないですもんね。悪霊が、誰かを守ってるなんて」
「守る…?」
「あの悪霊、何年も前からずうっとあの女を守ってたんですよ。ほかの悪霊や、呪いから。それが邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で仕方なくて、あたし、あなたに祓ってってお願いしたんです。あの女と話したって聞いたとき、ちょっと焦ったんですけど、あはは、あなたがひとの話をちゃんと聞かないひとで良かったです」
青天の霹靂とは、このことだろう。
思わぬネタばらしに、血の気が失せる。
ぼくは一体、なにを、した?
依頼人はぼくを安心させるように、微笑んだ。その笑顔に、吐き気しか感じられない。
「心配しなくても平気です。“浄霊したから死んだ”なんて、誰が信じます?あなたが罪に問われることはないですよ。お金もちゃんと払いますし、あなたは、仕事を全うしただけです」
依頼人は鞄から分厚い茶封筒を取り出すと、僕に押し付けた。
「それじゃ、ありがとうございましたぁ」
鼻唄でも歌いそうな足取りで、依頼人が歩き去る。
いつの間に到着していたのか、ブルーシートを持った警官が、集まっていた野次馬とぼくを追い払った。
人波に流されて歩き、途切れたところで、止まる。
茫然自失のぼくの前に、彼女が立った。仲良さそうに、男と手を繋いでいる。
[あの子、ずっとわたしが嫌いだったんです]
そっと、ひと気のない公園にぼくを導き、ベンチに座らせてから、彼女が語った。
彼女が強烈な霊媒体質で、単独で居ればたちまち取り殺されるような人間だったこと。彼女に取り憑いていた霊は幼逝した彼女の叔父で、生まれたときからずっと彼女を守り続けてくれていたこと。
恋人のように彼女に寄り添う男も、少し不機嫌そうながら語ってくれた。
悪霊を呼び寄せてしまう彼女を守るためには、自身も悪霊に堕ちるしかなかったこと。悪霊に操られた男に彼女が殺されかけたことがあり、以来近付く男は追い払うようにしていたこと。
[…ずっと守ってくれる玲ちゃんが、いつの間にか好きになっていたんです。でも、玲ちゃんは霊だから触れないし、わたしはもし死んだら、すぐにでもほかの霊に食べられちゃうだろうって]
[俺が、喰わせないよ]
[うん。ごめんね、玲ちゃん]
[良いんだ。俺がしたいんだから。俺だって、朔弥を、愛して、るからな]
ぎゅうっと、お互いの手を握り締めて、ふたりが見つめ合う。
彼女は男に身を刷り寄せると、嬉しそうに微笑んだ。
[玲ちゃんが好きだったから、ほかの男性には興味がなくて。それで振ったなかに、あの子の好きだった男が居たみたいなんです。大学のときと、就職してから、合わせて三回]
「…それで、恨まれた?」
[みたいですね。何度か呪い?掛けられて、そのたび玲ちゃんが祓ってくれてたんですけど…]
濁された言葉の先を予想して、唇を噛み締める。
ぼくが、彼女の守りを取り去ってしまったんだ。
気にするなとでも言いたげに、彼女は僕に笑みを向けた。
あの女とは大違いの、暖かく心地好い笑みだった。
[どうもいろいろ、わたしについて調べたみたいですね。玲ちゃんさえ居なくなればわたしはすぐにも死ぬって知って、どうにかして祓う方法を探したみたいです。祓い屋を差し向けられるのも、これが初めてじゃありません。…そんな不毛な努力するくらいなら、自分を磨いて振り向かせれば良いのに]
…そうして振り向かせるために頑張った結果が、今の彼女なのだろうなと、なんともなしに思った。
幸せそうに男の横に立つ彼女は、天使のように美しかった。
ぎゅっと繋がれた手を見て、そのときやっと気付いた。
霊体は、ひとに触れられない。だから生前の彼女に絡み付いていたのは、霊力が具現化した鎖や縄だった。
彼女に、手形など付くはずがない。
全部、全部虚言だったのだ。
「ぼくは…とんでもないことを…」
呟いて顔を覆ったぼくの手に、冷気が触れた。
顔を上げれば、すり抜ける、彼女の手。
霊体は生人に触れられない。すり抜けて、かろうじて冷たさを感じさせるだけ。
彼女はぼくの顔を見つめて、首を振った。
[あなたは悪くありません]
こちらに向けられた瞳には、少しもぼくを責める色がなかった。
[遅かれ早かれ、わたしは死んでいたんです。むしろ、今までよく生きたくらい。生まれたときには、七つになれずに死ぬだろうって言われてたんですから]
穏やかな声で、彼女が語る。
玲ちゃんが居たから、やっと生きられたのだと、隣に立つ男へ愛情のこもった視線を向ける。
ぼくに視線を戻し、微笑んだ。
[それに、やっと、玲ちゃんに触れられる。抱き締めて貰える。だから、良いんです。あなたも、玲ちゃんも、自分を責めないで]
ふふっと、彼女は笑いを漏らした。
悪戯っぽい視線で、ぼくと男を見遣る。
[こんな死に方したら、玲ちゃんはわたしから離れられなくなるでしょう?大好きなひとを、独り占め出来て、嬉しいんです。こんな、悪女が死んだだけですから、気に病まなくて良いんです]
それが本心なのか、ぼくを慰める詭弁なのか、わからなかった。
男がぼくを見下ろして、言う。
[朔弥を祓えば、天国にも地獄にも行けずにそこらの霊に貪られるだけだ。少しでも悪く思うなら、俺たちを祓わずに見逃せ]
…なんて優しい叔姪なのかと、思ったよ。
こんな状況を作ったのはぼくの傲慢だったのに、彼らは少しもぼくを責めなかった。
「祓いません。祓えま、せんよ。ごめん、なさい。どうか、お幸せに」
[あら、祝福されちゃった]
最後まで彼女は、ぼくに笑顔を見せていた。
どこかへと去る彼女らを、ぼくは黙って見送った。
うん。祓わなかったよ。
もしかしたらその後、ふたりが悪霊となって、誰かを襲ったかもしれない。
でも、ぼくはそれはないと思ったのだよ。
だって、そんな馬鹿なことをして祓われれば、彼女は喰われてしまうのだからね。
そのあと駆け付けた師匠に事情を説明して、そりゃもうこっぴどく叱られた。
師匠は、彼女のような症例を知っていて、だからぼくに祓うなと言ったのだって。
ぼくは鍛え直しを命じられて、霊媒師の看板を下ろした。
みっちり叩き直されて、ようやくまた独り立ちが認められても、また霊媒師を名乗る気には、ならなかった。
ただ、祓うのではなく、見極める必要があると思ったからね。
それで考えた結果、辿り着いた結論が探偵業だったわけだ。
ぼくは霊のことだけでなく、心理学や話術も学んだ。霊なんかよりよほど怖い人間が居ると学んだし、なにより、霊も元は人間だと思い知ったからね。
ぼくの話は、これでおしまいだよ。
聞いてくれて、ありがとう。
あれ以来、あのふたりには会っていない。でも、きっとこの世界のどこかに居るのだろうね。
彼女は、彼岸には行けないのだろうから。
うん?ああ、食べられたとは、思っていないよ。ぼくは彼を信じているからね。悪霊に堕ちてまで、彼女を守っていたわけだし、なにより…。
いや、だって、あの目。
どう考えても、彼女にベタ惚れだったよ?
たぶん最初は単に姪に対する庇護欲だっただろうに、どうやって女として意識させて、ぞっこんに惚れさせるまで持って行ったのだろうね。彼女には、感服だよ。
ああ、そろそろ新しい依頼人が来るね。その前に、下調べを済ませて置かないと。
お茶、ご馳走さま。美味しかったよ。
あ、そうそう。
あのときの、依頼人だけれどね。
伝聞だがどうも、自分が掛けた呪いが跳ね返って、酷い死に方したらしいよ。まあ、それまでにまた数人、殺していたみたいだけれど。
因果は廻る、と言うやつだけれど、犠牲者を増やしてしまったのは、心残りだね。
きみも、逆恨みには気を付けると良い。
本当に、怖いのは霊より生人だよ。
拙い作品をお読み頂きありがとうございました
少しでもゾッとして頂けていれば幸いです