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向日葵の祈り

作者: さむらいみ

 三十年振りに訪れた参道の入り口は、鳥居の色も剥げ、ひどく荒廃した印象だった。

 背の高い杉並木の落とす深い影の中、雑草の覆い茂る急な石段を登る。登り始めてすぐに汗が噴き出すが、木陰に吹く初夏の涼しい風がその汗を気持ち良く乾かしていく。

 自然石を乱雑に組んだ足場の悪い石段を一段登るごとに、過ぎた年月をも遡っているような錯覚を覚える。しかし、足取りにかつてここを登っていた時のような軽さは無い。

 参道を登り切ると、三十年分の風雨に晒された祠も相応に古び、祠を周回する外廊下の床板もそのほとんどが抜けおちていた。

 ほつれの目立つ縄を揺らして鈴を鳴らし、拍手を打って、目を瞑る。

 目を開け、「約束を果たしに来ました」と声に出して言うと、静まり返った境内に、ごう、と強い風が吹いた。


 私がこの村で過ごしたのは、小学五年生の、ほんの一年にも満たない短い間だった。

 私が四年生の頃、中部地方の山間の小村に暮らす母方の祖母が、体調を崩し歩く事も困難となった。当時都内の社宅に住んでいた私たち家族には、祖母を受け入れる余裕が空間的にも金銭的にも無かった。また、祖母も嫁いでから五十年近く暮らした村を離れたがらず、何度も話し合いを重ねた結果、母が一人息子の私を連れて、祖母の暮らす村へと引っ越す事となった。

 友人たちと別れるのは寂しかったが、田舎の暮らしは楽しいものだった。

 今のように、どの家にもゲームが当然のようにある時代とは違い、子供たちは外で遊ぶのが当たり前だった。ずっと住んでいた東京では考えられない、泳ぐ事の出来る川や、簡単に捕まえる事の出来るカブトムシなど、田舎の生活は生命感に満ちていた。

 弱った祖母との暮らしが目的だったとは言え、思い出して見ると、この村で過ごした日々は、まるで毎日が夏休みだったかのような印象を私の中に残していた。


 祖母の家は、村の外れの、畑の続く斜面の中腹にあった。居間のガラス戸を開けると、部屋に居ながら、麓へと連なる村全体を見渡す事が出来た。

 なだらかに下って行く斜面の底に広がる盆地は、一面の田んぼだった。盆地の中心あたりに、二両編成の列車が走る単線の線路と二車線の県道が並行して田んぼの中を横切っていて、小さな木造の駅舎の回りに、数件のお店と住宅が並んでいた。

 田んぼにはまだ稲は植えられておらず、水を張っただけの田んぼの中を走り抜ける列車は、まるで水面を滑って行くように見えた。細長い盆地を挟んで、向かい側には同じようななだらかな山並みが見え、さらにその先には、山並みの上から鋭い稜線を覗かせる山脈が、未だ消えない雪を抱いて聳えていた。

 私は、家にいる時は、多くの時間を祖母が寝る居間で過ごした。

 ガラス戸を開け放ち、その前の縁側に腹ばいで寝ころんで、本を読んだり、時には宿題をしたり。寝たきりの祖母の相手をするよう、母が望んでいた事もあったが、私自身も居間から眺められる風景が大好きだったのだ。


 祖母の家の一軒下、古びた茅葺屋根を持つ農家の裏には、広大な向日葵畑が広がっていた。私が暮らし始めた四月頃にはまだ種も植えられておらず、ただの更地でしかなかった。

「夏になると目の前一面が向日葵で埋め尽くされてそれは綺麗なものなんだよ。私はその風景が大好きでね、それでずっと夏が大好きなんだ」

 里山を吹きぬけて来る気持ちのよい風に吹かれながら、祖母が話してくれた。

 私はいつしか祖母と一緒にその風景を眺める夏の日を楽しみにするようになっていた。

 しかし、その年は記録的に雨が少ない年で、ほとんど雨の降らないまま、梅雨も半ばを過ぎて夏の気配が近づいて来ていた。

 畑の向日葵も見るからに発育が悪く、萎びた茎は、とても大きな花を支えられるようになるとは思えないほどだった。

 祖母は、その事をひどく心配していた。

「今年は向日葵が見れないのかねえ」

 毎日のように、居間に置かれた介護用のベッドから外を眺め、落胆のため息を着いた。


 祖母の余命がそれほど残っていない事が分かったのもその頃だった。

 母は私にその事を直接話はしなかったが、父と電話の会話から「あと三ヶ月、秋まで持つかどうか」という言葉を聞いてしまった。

 祖母も自らその事を悟っていたのかもしれない。咲かない向日葵を心配する言葉はいつしか「今年は」が「もう」に変わっていった。

 その日以来、私はなんとか祖母にもう一度満開の向日葵畑を見せてあげたい、と思い込むようになった。そして、家の裏からさらに坂を登った先にある小さな神社でお祈りをする事を思い付いたのだ。


 祖母の家より上には、二軒の農家があるだけで、その先は次第に高さを増して行く山に深い森が広がっていた。

 村の端、道の果てとなる森の入口に、朱塗りの鳥居があり、そこからさらに参道を登ると、神社があった。神社の建てられた辺りからせり上がる様に勾配がきつくなっているため、参道は急な石段になっていた。石段は大きさのまばらな自然石を積み上げた素朴な物で、参道の両側に植えられた杉の巨木に覆われて昼でも薄暗いほどだった。

 私はその雰囲気を不気味に感じ、それまでほとんど神社に足を向ける事は無かった。

 しかし、暗い森の中に続く参道への恐怖感と急な石段という、乗り越えなければいけないハードルが、祈りの効果を強くするように思え、私は神社に通うようになった。

 いつ訪ねても神社に人気は無かったが、祠の周囲は綺麗に掃き清められていた。神社全体を覆う木が祠の上部だけ途切れ、そこから日差しが降り注いで祠を明るく照らしていた。静けさと光に溢れたその場所で祈っていると、次第に辺りが神聖な空気に満たされて行くように思えた。

 

「雨を降らせてください。もう一度、おばあちゃんに向日葵を見せてあげたいんです。だから、お願いです。雨を降らせてください」

 ある日、いつものように神社で手を合わせていると、突然強い風が、神社を取り巻いた。雨が降らない日が続いたために乾燥していた地面から、砂埃が竜巻のように舞い上がる。思わず開いた目を砂埃が潰し、ヒリヒリと傷む目に涙が溢れる。

 やがて、ごう、ごう、と音を立てて吹いていた風が止み、涙を拭いながらそっと目を開くと、賽銭箱の後ろの、祠への入り口となる階段に少女が一人座っていた。

 少女は、真っ黒なおかっぱ頭に、草色の着物を着ていて、私と同じくらいの年齢に見えた。いくら田舎の村とは言え、着物を着ている子供は珍しかった。少女は、揃えた足の上に肘を置いて組んだ手に顎を乗せて、口元に笑みを浮かべながら私を覗き込むように見つめている。


「願い事は何?」

 ほんの少し目を閉じていただけの間に、突然人が現れた事に驚く私に向かって、少女が言った。

「君は誰? どこから来たの?」

「願い事は、何?」

 少女は私の問いに答えずに、重ねて聞く。

 少女の事を不思議に思う気持ちは当然あったが、それ以上に、祈りが通じたのかもしれないという興奮が強かった。

「雨を降らせて欲しいんだ。雨をたくさん降らせて、向日葵を咲かせて欲しいだ。それで毎日ここで祈っているんだ」

 私が勢い込んで言うと、少女は「ふうん」と答えて、前髪に半ば隠れている大きな黒い目で、少しの間、私の顔を見つめた。私は、今度は口に出さず、同じ事を頭の中で繰り返す。「雨を降らせてください。向日葵を咲かせてください」と。

 少女が組んでいた両手を解き、立ち上がった。

「祈りは通じたわ。着いていらっしゃい」

 少女はそう言うと、勢いを付けて階段から飛び下りた。

「え? 通じたって、どういう事?」

「私が誰か、どこから来たかは、まだ言えない。でも、本当に願いを叶えたいのなら、黙って私に着いて来て」

 少女は私の返事も待たずに、祠の裏へと回った。祠の裏からは、かすかに道らしきものが、森の中へと続いていた。少女は森の入り口で一旦立ち止まり、私を見ると微かに頷き、山道へと足を踏み入れた。

 私は、慌てて後を追った。

 少女は、急な坂道を滑るような足取りで軽やかに登って行く。遅れまいと必死に後に着いて登っていると、奇妙な事に気付いた。少女は裸足で、そしてその足がまったく汚れていない。正体はわからないが、普通の女の子では無いのは確かだった。


 しばらく登ると、重なり合って並ぶ大きな岩の陰に隠れて、洞穴の入り口があった。

 少女は迷わずその中へと入って行く。少し恐怖を感じはしたが、私も思い切って少女の後へと続いた。

 洞窟は人が一人ようやく通れるほどの大きさで、かなり奥深くまで続いているようだった。洞窟は緩やかにカーブしながら、さらに奥へと続いている。外の光が届かなくなると、少女が私の手を握ってくれた。少女の手は、冬の外気に晒された後のように、冷やりとして体温が感じられなかったが、暗闇の中その柔らかな感触は、安心感を与えてくれた。

 少女の手の感触だけを頼りに歩いているうち、次第に道が登っているのか、下っているのか分からなくなり、やがて私は少女に手を引かれ暗闇の中をふわふわと飛んでいるような気持ちになっていった。


 しばらくして、洞穴の奥に仄かな明かりが灯っているのが見えた。その明かりを目指してさらに進むと、少しずつ明かりが大きくなっていき、やがて無数のロウソクに照らされた広場に行きついた。広場はかなり広く、学校の校庭ほどの大きさがあるようだった。これだけの広さを照らすために、いったい何本のロウソクが必要なのか、私には想像も出来なかった。

 広場を囲む岩壁には、いくつもの木造りの扉が並んでいた。一メートルほどの間隔で岩壁に直接取り付けられた扉が規則正しく並んで、広場を取り巻いていた。

 少女は立ち並ぶ大小の蝋燭を縫うように歩き、広場を横切った。そして、広場の入り口のほぼ対面に位置する、空色に塗られた扉の前に立った。

 少女は、空色の扉に右手を置いて、私に振りかえった。

「雨がお望みなら、この扉を開けなさい。中にいるミコト姉さんと話すといいわ」

 そう言って、一歩下がって私のためにドアの前を空けた。

 私は扉の前に立ち、古びた金属製のノブに手を伸ばしかけ、一旦その手を止めて少女を見る。

 少女が私の躊躇いを溶かすような優しい笑みを浮かべて、大きく頷く。

 私は、思い切って扉を押し開けた。

 扉は厚い板を貼り合わせた重厚な造りだったが、ほとんど重みを感じさせないほど滑らかに開いた。


 扉を開けると、濃厚な草の香りが鼻の奥を刺激した。もの憂げな真夏の午後の臭いだ。

 目の前には見渡す限りの草原が広がっていた。草原は光に満たされていて、外に出たのかと思ったが、どこにも太陽が見えない。

 百メートルほど先、なだらかな丘の上に一本の巨大な木が聳えていた。

 空気は触れる事が出来そうなほどに湿り気を帯びていた。巨木の上部は、その湿気が生み出す靄の中で陽炎のように揺れ、やがて空に溶け込んでいる。

 巨木の根元に、簡素な造りの日本家屋が一軒建っているのが見えた。私は、その家を目指して草原へ足を踏み入れた。

 巨木までは、思った以上の距離があった。膝まで隠れるほどの草に足を取られ、じれったいほど進むのに時間がかかる。時折立ち止まって息を整えながら、私はゆっくりと草の海を渡った。

 近づくにつれはっきりと見えてくる巨木は、一枚の葉も茂っていなかった。その代わり、無数に延びる枝の先に、サッカーボールほどの大きさの実が生っていた。一つ一つの実が、折り重なった緑色の葉に包まれている。

 間近まで来ると、木の巨大さに圧倒された。幹の根元は、隣に建つ家よりも大きかった。


「こちらへ来てお座りなさい」

 私が立ち止まって木を見上げていると、木の後から柔らかな女性の声が聞こえた。

 幹を回り込み、木の後ろへ行くと、木造りのベンチに女性が一人座っていた。

「ミコトさんですか」

「ええ、私がミコトよ。願い事があって来たのね」

「はい」

 ミコトと名乗った女性は、科学者のような白衣を着ていて、艶やかな長い黒髪をうなじの辺りで結び、銀縁の眼鏡をかけていて、何かを研究している学生のように見えた。

「ここにお座りなさい」

 そう言いながら、ミコトが座る位置を少しずらし、ベンチに私のためのスペースを空けてくれる。

 ミコトの隣に座り、前を見ると、その先は果てしないほどの草原が広がっていた。緩やかな起伏はあるものの、一本の木も、一軒の建物も無い気の遠くなるような風景だった。

「ここに来たと言う事は、天候についての願い事ね」

「はい。雨を降らせて欲しいんです。向日葵が咲くように、雨が降らせてください」

「雨、ね」

 それだけ言うと、ミコトは少しの間、ただじっと草原の先を見つめていた。

「願い事は、向日葵が咲くほどの、雨。私は、その願いを叶える事が出来るわ。ただ、その前に願いを叶えるための条件を説明しないといけないわね」

「条件?」

「ええ。願いはただで叶う物ではないの」

 ミコトはそう言うと、立ち上がって背後の木を仰いだ。

「これは、とこしえの木。人々の願いを栄養に大きくなる木なの。願い事を叶えるためには、この木の実となって、木の養分とならないといけないの」

 ミコトは、背伸びをして一番下にある実の葉っぱをめくる。

「見てごらんなさい」

 私も立ち上がり、背伸びをすると、めくれた葉っぱの下には、人の顔があった。

 その顔は、眠っているように目を閉じている。

 驚いてミコトの顔を見ると、ミコトは微かに頷いて、葉を元に戻し、ベンチに座り直した。

「ただし、こうして眠る時間の長さは、願い事によるの。簡単な物なら、ほんの一日二日で済むわ。例えば、新しい自転車が欲しい、という願いなら、三日間ほどこうして眠っているだけでいい。目が覚めると、自転車のある人生が始まっている」

「でも、三日間もいなくなると、大騒ぎになるよ」

「それは大丈夫。その間は、その人は最初から死んだ事になるわ。三日間が過ぎると、またその三日間は人々の記憶から消え、元の生活が始まる。眠っていた三日間の空白は、その後の時間が埋めてくれる。もし、その人がそのまま生活していたら過ごしたであろう三日間が、周りの人にも自分にも、記憶として蘇ってくるの」

「雨を降らせるためには、何日間眠っていなければならないの?」

「自然の摂理に反する願いは、短くはないわ。向日葵が咲くほどの雨を降らせるためには、百日と一日」

「そんなに?」

「ええ。それ以下にはならない」

「でも、それじゃ、おばあちゃんが、おばあちゃんはあと三ヶ月しか生きられないんだ。百日じゃ、おばあちゃんと一緒に向日葵を見る事が出来ないよ」

「雨は、向日葵を咲かせるため。向日葵を咲かせるのは、あなたのおばあちゃんのためなのね」

「うん。おばあちゃんに、もう一度向日葵を見せてあげたいんだ」

「眠る日は、今日からじゃなくてもいいのよ。いつ眠るか、自分で選ぶ事も出来る。ただし、これにも条件があるの。願い事をしてから、眠る日を一日延ばすと、眠りにつく期間も、一日延びる」

「どういうこと?」

「例えば、今日からではなく、明日から始めると、百日と二日眠らなければならないの」

「眠るのをずっとずっと先にして、その前に死んじゃったら?」

「そうなったら、眠らなければならなかった日数が、最も血のつながりが深い人の寿命から差し引かれるわ」

「でも、自分がいつ死ぬかわからないと、もしかして僕が事故で死んだりしたら、お母さんの寿命が短くなってしまうじゃないか」

「そうならないよう、眠る日を延ばす事を希望する人には、特別にその人の寿命を教える事も出来る」

「それなら、僕の寿命は何歳?」

「それは、願いを叶えて、いつか別の日から眠る日を選ぶ事を決心したと言う事でいいのね」

「うん。そうする」

 私は、深く考えもせずに、そう答えた。

 私は所詮十一歳の子供で、寿命や死などと言う物は、ずっとずっと先の未来の事。自分の事として受け止めるには、幼すぎた。

「本当にいいのね」

 ミコトは私の決心を計る様にしばらくの間、私の目を見つめる。私は黙って、ミコトの目を見つめ返す。

「いいわ」

 ミコトが大きく息を吐き、少しの間目を閉じる。風が吹き、ミコトの黒髪がふわりとなびく。少し乱れた前髪を抑えつけながら、ミコトが目を開けて、私を見た。

「あなたの寿命は、六十七歳ね。日数にすると、あと二万三百五十五日。病気が原因で亡くなるわ」

 それは、その時の私にとっては、ほとんど永遠に生きられると言われたに等しかった。

「それじゃあ、ここにあなたの名前と今日の日付を書いて」

 そう言いながら、ミコトは一枚の葉っぱを差し出した。その葉は、とこしえの木の実を包んでいる物と同じ葉っぱだった。

 私が、葉っぱと一緒に渡された太いペンで名前と日付を書くと、ミコトはその葉を頭上に投げ上げた。数メートルほど上のまだ実を付けていない枝先にその葉が張り付き、勢いで少しの間ゆらゆらと揺れた。

「これで、あなたの願いは、叶う」

 その瞬間、私は意識を失った。


 屋根を叩く雨音で目を覚ました。

 慌てて起き上がる。

 横では、祖母が布団で静かな寝息を立てていた。

 ガラス戸を開けると、早朝の涼しい空気と共に、柔らかな雨の甘い香りが部屋へと流れ込んで来た。

「おばあちゃん、雨。雨が降って来たよ」

 私は、すぐにでもそのニュースを伝えたくて、眠る祖母の肩を揺すった。

 やがて、向日葵畑は、夏を向かい入れるかのように、大きな花を育てて行った。

 私と祖母は、毎日並んで、強い日差しを浴びて輝く鮮やかな黄色い波を眺めた。吹きわたる風に、黄金色の粒子が踊る。花が大きく育ち、その輝きが増すにつれ、祖母の表情は静かなものになって行った。

 ある満月の夜、月明かりに照らされた満開の向日葵に見守られるように、祖母は息を引き取った。


 祖母の四十九日が済むと、母は私を連れて父の住む家へと戻った。

 祖母の遺骨は、東京に建てた墓に入れられ、祖母の家は知人に頼んで売り払って貰い、その後私たちは村を訪れる事は無くなった。

 私は、私が果たさなければならない約束を忘れたわけでは無かった。

 しかし、東京に戻り、中学校に入学し、新しく始まった日々は私の決心を先延ばしにする楽しさに満ちていた。

 入部したサッカー部でレギュラーが獲れそうだ。好きになった女の子との距離が縮んで来た。もう少し、もう少ししたら、約束を果たしに行こう。だけど、もう少しだけ先。

そんな事を繰り返すうち、やがてミコトの事も、とこしえの木の事も、いつしか淡い夢のように遠いものになっていった。

 一年に一度、祖母の墓参りに行くと、あの日の出来事を思い出す事もあった。しかし、それは次第に現実感を失い、懐かしく思い出すいくつもの思い出の中に溶け込んで行った。

 大学を卒業し、仕事を始める頃には村での生活自体が記憶の奥底に沈み、意識に浮かび上がって来る事も無くなっていた。

 やがて私は仕事を通して知り合った女性と結婚し、数年後、娘が生まれた。


 ある日、リビングのテーブルで五歳になったばかりの娘が、一心に絵を描いていた。

 穏やかな日曜日の午後の事。妻は夕食の買い物へ出かけていて、家には私と娘の二人きりだった。

 キッチンでコーヒーを淹れて、娘の向かいに座ろうとカップを持ってテーブルを回り込もうとした時、娘の描く絵が私の目を捉えた。何を描いているのか肩越しに覗くと、広げたスケッチブックに、五歳とは思えないほど緻密なタッチで、広大な草原に聳える巨木と、その根元に建つ家が描かれていた。

「何を描いているの?」

 私が聞くと、娘は色鉛筆を置いて、絵を私に向かって掲げて見せた。

「これはね、とこしえの木って言う、人の願いを栄養にして育つ木なんだよ。昨日、夢で見たの」

 そう言って、無邪気な笑顔を見せた。

 その瞬間、私は全てを思い出した。

 祖母の事、とこしえの木の事、そして、私が果たさなければならない約束の事。

 蘇る記憶が頭の中で渦を巻き、眩暈を覚える。思わずカップを持った手をテーブルに着いて、コーヒーが零れてテーブルクロスに焦げ茶色の染みを作る。

「パパ、どうしたの」

 娘が心配そうに私を見上げている。

「大丈夫だよ。ちょっと躓いちゃって」

「もしかして、この絵が何かいけなかった」

 今にも泣き出しそうな顔で、娘がそう言いながら、手に持った絵に目を落とす。

「ううん。本当に大丈夫。とっても上手に描けているよ。ママが帰って来たら、見せてあげなさい」

「うん。そうする」

 安心したように笑顔を弾けさせる娘の顔を見ながら、心臓を絞られるような息苦しさを感じる。当たり前のように思っていたなんでもない日々の愛おしさに胸を締め付けられ、私は再び色鉛筆を握ってスケッチブックに向かう娘から目を離す事が出来なかった。

 私は、その夜改めて正確に計算をした。

 二万三百五十五日。

 不思議とその数字は鮮明に思い出す事が出来た。

 私に残された時間は、そう多くない事がわかった。

 すでに両親は亡くなっていて、私と血のつながりがある者は、この世界に娘一人だけだった。そして、私のために、この宝物の貴重な時間がたった一日でも削られるのは、絶対にあってはならない事だった。

 私は翌日から、その日のための準備を始めた。私が死んだ事になる日々に、妻と娘の生活が困窮しないよう、様々な手続きを済ませた。そして、残された少ない日々を、妻と娘に精一杯の愛情を捧げながら過ごした。

 そして、今日が私に残された最後の一日だった。私は、三十年近くの年数を経て、再び神社を訪れたのだった。


 強い風が止み、目を開けると、当時とまったく同じ姿で、少女が現れた。

 あの日と同じ着物を着た少女が、同じ姿勢で組んだ手に顎を乗せ、私を見ていた。

「遅くなってすまなかった。約束を果たしに来たよ」

 私が言うと、少女はあの日と同じ笑みを浮かべて頷いた。

「随分お久しぶりね。それじゃ、行きましょうか」

 少女は祠の階段から飛び下りると、歩き出した。

 以前と同じ山道を登り、以前と同じ洞窟の入り口を潜る。少女の手を頼りに暗闇を漂ううち、次第に私の胸は甘い郷愁で満たされる。広場も、広場を取り囲む扉も、記憶よりも随分と小さく感じられた。

少女に促されて扉を開き、私は再び広大な草の海へ足を踏み入れた。

 とこしえの木を回り込むと、ベンチにミコトが座っていた。

「メッセージは届いたようね」

 ミコトが、当時と変わる事の無い姿で、私に言った。

「ありがとう。危なく忘れてしまうところだったよ」

 ミコトは頷くと、立ちあがった。

「それじゃあ、約束を果たして貰うわね」

 ミコトがそう言いながら手を頭上にかざすと、枝先で揺れていた一枚の葉っぱが枝から離れて、ひらひらと舞い落ちて来た。その葉が、私の肩に触れると同時に、私は長い眠りについた。


 目を覚まして最初に目に入ったのは、真っ白い天井だった。

 体を起こそうとしたが、まったく力が入らない。目線を横に動かすと、私の体から伸びる何本ものチューブが見えた。チューブの先が刺さる腕は、ひどく痩せ、動かそうとしても、腕に伝わる力はどこからも湧いて来ないようだった。

 その腕の向こうに、年老いた妻が座って私を見つめていた。

「あら、目を覚ましたのね。良かった。もう少しであの娘が来るから、頑張って」

 妻が目を細めて、私に笑いかけた。妻の顔に浮かぶ無数の皺は、穏やかに重ねた年輪を感じさせた。

 少し混乱する頭を、時間をかけて整理する。私の試みは、成功したようだった。

 ほどなく、ドアが開く音がして、一人の女性が、私が寝かされている病室らしき部屋へと入って来た。

「ちょうど良かった。今、目を覚ましたの。早く近くに来てあげて」

 妻が言うと、大人へと成長した娘が、私の枕元に顔を寄せた。

「お父さん、分かる? 私のこと、分かる? ちゃんと見えてる?」

 答えようとしたが、声が出ない。一目見てすぐにお前だと分かったよ、ちゃんと見えているよ、と伝えたかったが、それは今の私には無理なようだった。

 私は、約束を果たした後に、たった一日だけこの世界に戻れるよう、計算をして神社へ行ったのだ。

 成長した娘を、死ぬ前に一目見るためだった。

 美しく成長した娘を見る事が出来て、思い残す事は無かった。しかし、もう一つ、思いもよらない贈り物があった。

 娘の陰から、一人の少女が顔を覗かせた。その子は、私の最後の記憶にある娘とそっくりな顔をしていた。

「ほら、おじいちゃんにお見舞いがあるんでしょ?」

 娘がそう言いながら、少女を私の前へ押し出す。少女は、少し照れくさそうに私の前まで来ると、自分の背中に隠していた物を、私の顔の前へ差し出した。

「おじいちゃんの大好きな物持って来たよ。だから早く元気になってね」

 鮮やかな向日葵の黄色が、視界一杯に広がった。

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