少女の記憶
あの晩。月のない夜に、目の前で起きたことは本当に本当のことだったのか。
馬車から伝わる震動が、消し去ってしまいたい記憶を蘇らせるようであった。自分の、恐怖に震える体を思い起こさせるようであった。
目に映る風景のように、ガラスを隔てて浮かぶのは、あの夜のこと。
怪しい物音の原因を確かめに家の外へ出ていった父の悲鳴が聞こえた。
何かあったのではないかと私は母と一緒に家を出て、父の悲鳴が聞こえた家の裏手を目指した。
「離れては駄目よ」
母はそういって私の手を掴んだ。そのあかぎれた手は、たぶん私と同じくらい震えていた。
家の裏手に回る。まだ種をまいたばかりの、物寂しい畑が闇の中に沈んでいた。ランプの灯りではほんの手前しか照らすことができない。
父の足跡は畑の手前、方向転換をしたのだろう、家の側を向いて止まっている。
「お父さん、いないね」
私は声を出して母を見やる。
母は「ええ」と頷く。繋いだ手は酷く汗ばんでいた。
「 」
どこからか父の呻き声が聞こえた。
私は周辺を見回すけれどわからない。母には声の出所が分かっていたようで、荒い息のまま、手に持っていた灯りを屋根の上へかざした。私もつられてその方に目をやると、途端、音もなく薄紅の膜が降りかかってきて、それは私ではなく母の上に覆いかぶさった。
「 」
母の短い悲鳴ごと、薄紅の、水で洗った臓物のような鮮やかな色の膜が母を覆い隠した。
私は、母があげた不意の絶叫に腰を抜かして尻もちをついてしまった。
蛞蝓や蝸牛の襞を彷彿とさせる気持ち悪い動き。薄紅の膜のうねる様はそれそのもののようにも見えた。しかもランプの灯りによるせいか、淡い発光が幽霊じみた不気味さをも漂わせている。
臓物の膜が、母とランプを内に取り込んだまま屋根の上へ戻っていく。膜の淡い発光が、屋根の上に異様な影を映し出した――けれど。
私が覚えているのはそこまで。屋根の上にいたモノを見て意識を失ったのだろう。だから、それがどんな形、どんな色だったかは全く覚えていない。
だけど覚えていることがある。
焼印のように決して消えない印象を覚えている。
それは目を背けたくなるほどに醜くて、だけど生命そのもののように力強くて。なによりも身近にあるもののように感じたのを、私は覚えている。
「大丈夫かい、雪ちゃん」
馬車の窓ガラスには、不均衡が雑居する街並みが映っている。時折、間近を横切る木々に視界を阻まれると、窓には見知った青年の姿が映る。映っては消えて、また街並みに戻る。
髪を均等に切りそろえた十代前半の幼い少女は意識を取り戻す。いつの間にか背中ににじんでいた脂汗を振り払うように、馬車の室内にぱっと目を向けた。
「大丈夫……。五代さんこそ車酔いはもういいんですか」
お雪と呼ばれた少女の視線の先には、同郷の青年の姿。
対面式の座席、向かい側に腰掛ける青年は片手に本を、もう一方の手で口元を抑えてうずくまっていた。
青年――五代は青白い顔のくせに「そりゃ、もう」と、笑みを浮かべるが「全然駄目だ、乗馬のときより駄目だ。馬車ってのは揺れるもんだな、しかもゆったりと丁寧に脳みそを揺さぶるもんだから……」と、手に持っていた書物を力なく落とす。
「柄にもなく本なんて読むからそうなるんです」
お雪は五代の背を軽くさすりながら、床に落ちた書物を拾う。
五代は眉を強気に吊り上げるが「余計なお世話だッ――」と急に頬を膨らませ、もがくように手元の袋に手を伸ばした。
「ちょっと待ってください、それは!」
制止の声も虚しく、五代は手に取った革袋に嘔吐物をぶちまけてしまう。五代が大切に使っていたもので、中には旅の必需品が入っている。今朝はまだ食事を取っていなかったがために胃液ぐらいしか出なかったのは幸いか。
五代は嘔吐物を出しきって「やっちまったよ……」と馬車の窓を開け放つと、息苦しい車内よりはマシだといふうに、窓から首を出して唾液を吐いた。
「やっぱり俺にはわからん。法術ってのは難しいもんだ」
「いきなり難しい本を読むからですって。この易経って面倒なものなんですよ、つまらないと思うなら読まない方が身のためです」
「そうだな、その通りだ。その三本線の羅列は見たくない、目が回る……」
五代は唾液を垂らしながら、外の風景を見やった。お雪もまた、その視線を追う。
朝方、まだ八時にもならないというのに、広々とした通りには、袴姿の剣客やら甲冑姿の騎士やら、はたまた頭部に小さな突起を持つ鬼の一族やらと仮装大会さながらの大所帯が列をなしているようだった。
そんなものでも気を紛らわすことはできたようで、五代は今一度大きく深呼吸をした。
「三日も乗り続けてると気が狂いそうになる、走った方がまだ気分がいいな。お偉いさんはこういうのに乗って移動するらしいけど……もう勘弁だ。もう二度と乗りたくない」
涼しいのはいいんだけどな、と、五代は車内天井にひっついている氷塊を見上げた。両手で抱えられるほどの大きさのそれは、溶け落ちるようなそぶりどころか、水の一滴も滴ってはいない。
「これも法術が成せる生活術ですよ。見てください、氷の中心に水晶が埋め込まれているでしょう?」
「あるね」
荒削りの表面から覗ける氷塊の中心部には拳大の水晶が埋め込まれていた。水晶には筆でしたためたのだろう<涼>という一文字と、その周辺を囲う、うにゃうにゃとした、達筆すぎて文字と認識できない程度の文字が記されている。
「人の思念を具体化する<一字>と、人と神々とを結ぶ神代文字によって描かれた輪、すなわち<円陣>。これを<一字円陣>といい、法術の初歩と考えていいでしょう。ここから水晶や氷といた媒体を通して、涼しい環境であったり、火の玉を生みだしたりとするわけです。このように汎用性の高い皇国魔法技術である<法術>を編み出したのが<五賢人>がひとり、<源流>の名をもつ清明様なのです。知っているでしょう?」
「名前ぐらいは」
「そっぽを向かないでください!」
五代がそっぽを向いたのを、お雪は無我夢中で叱りつけた。
「悪かったよ。しかし、案外簡単そうだ、俺にもできるかな」
「簡単な法術ならできますよ。素質がある人や訓練を積んだ人なら、術式や媒体がなくても指先に火を灯せるらしいです」
「念じればいいのかい? 『火よ灯れー』って」
五代が馬鹿馬鹿しいふうに話すのを受けて、お雪はいくらか困った気持ちになるが「父はそんなふうに言ってました」と返す。
お雪は父親の、風変わりで素朴で包容力のあるその姿を思い起こしてしまう。
「……雪ちゃんのお父さんは魔導士だったもんな。すごいよな、皇国最高峰の魔導集団の一員だぜ」
「昔の話です。私が産まれた頃に引退したそうですからね、私が知っているのは土いじりが好きで、たまに綺麗な手品を披露してくれる父の姿だけなんです」
自身の頬が緩むのを感じる。久しく使わなかった表情からかなんだかぎこちなさを感じる。
だけど地面に引っ張られるように、意識の楽しい部分は身体の奥底へと遠のいていった……。
「誰なんでしょうか。生き延びた人っていうのは」
不意に喉を通り出たのは自分の声だった。
落ちた視線が捉えたのは、組んだ両手の親指同士がくるくると蠅のように回っている様であった。
お雪が知っているのは“調査担当者が変更になったため、北の都へ向かってもらう”という指令じみた一文と、“もう一人の生存者”という一言のみ。
されるがままに馬車に乗らされ、いつの間にか北の都まで流されている。自分一人ではどうしようもない流れの中にいることを感じ取りながらも、お雪はそう問わずにはいられなかった。
そして返ってきたのは、ぎこちないふうに浮ついた五代の声だった。
「孟栄さんかもしれないな、あの人は強いよ。だってよ、素手で竜をぶちのめす人だぜ! そう簡単に死ぬはずがない」
お雪は眩暈からか、涙からか、あるいはその両方せいか、見えている景色が陽炎のように揺らめいて見えた。
そうかもしれない、そうだろう。
五代の言葉を言い聞かせるように自分に染み渡らせてはみるが、どうしても思い出の中の両親が思い浮かんでくる。素朴な二人がくれた温かい思い出であったが、今は胸の苦しさにしかなりえなかった。
ぐわんぐわん、馬車の震動が気分を揺さぶる最中、「しかし」という五代の声にお雪は目を覚ます。
「こういう時ってのは、案外子供の方が生き延びるもんだ」
子供――。
不意に思い浮かんできたのは一人の少年の姿。
自身よりも二つ年下の、世の中に対する好奇心に満ちた弟分の姿。
かわいげのないぐらいに自分勝手な、それでいて“友達”という集団に馴染もうとしない隣りの家のあの子。
お雪は肌寒い車内に流れ込んでくる温かさに、震えがとまるような安堵感を覚えた。
「友達が、生きているといいな」
五代のそれに、お雪はそうであってほしいと頷く。
それから間もなくして、御者台からじきに到着する旨が届き、馬車の震動が止んだのはそれから五分もかからなかった。