肉無き骨
月は厚い雲海に覆われ、地上の暗がりにちいさな明かりが灯る。
ぽつり、ぽつりとまた一つ。山に囲まれた集落において四方八方、点々と現れた十数もの灯火は狂乱の渦中にあった。
「 」
女の悲鳴が一つ上がる。今度は一瞬だけのごく短いもの。
村の男たちは松明を片手に、もう一方に剣や刀、棍などの武具を携え、悲鳴のもとへ駆けつけた。家屋の前にある畝ばかりのまっさらな畑には、齢にして十程度の黒い髪の少女が腰を抜かしたように地に尻をついていた。
「大丈夫か、雪ちゃん!」
男衆の一人、壮年の男は不用意に少女の体を支えた。少女は固まったままで、その目は虚空を見つめて動かない。男は不審に思い、少女の視線の先に松明をやった。
そこにはぬらぬらと照り返す桃色の壁がそびえていた。
薄紅の色域は家屋全体を覆い、邪まに蠢き、嬉々として唸り……。表面には呼吸じみた気泡が垣間見えることもあった。男にはそれが極めて原始的で生物的な活動の最中であるように思えた。
遅れてきた二十数人もの男たちも異常を目にして息を呑むが、誰も声をあげようとはしなかった。
「雪ちゃん」
壮年の男は少女の耳元で声をかけるが、少女は全く反応を示さない。男は眉を顰めつつ、ほぐれた土に松明を刺し立てると、鮮やかな薄紅の塊――肉塊はぴたりと動きを止めた。
怠慢な間隔で音を発する気泡だけが夜闇に木霊する。
冷や汗が頬を伝う。汗の一滴一滴は土に染みゆく。男は少女を抱えてそっと立ち上がった。息を殺しながら後ずさる、その一歩一歩が土に沈む。足音は無い。
月の陰りが和らぎつつあった。
壮年の男は土と砂、畑と通路との境界に差し掛かり、足を止めた。小さくため息をついて肩越しに目をやる。背後の男たちは一様に動きを止めていたが、先頭にいる屈強な男は、張りつめた面持ちのまま小さく顎を引いた。
「 」
壮年の男は肺を空気で満した。粘っこい、じめついた熱気が含まれているようだった。
次いで男は膝を曲げた。その太腿、脹脛がはち切れんばかりに膨張する。幾年もの修練の末に獲得したであろう戦士の肉体に衰えはない。自身も、再度そう確信した。
静寂が集落を包む。
繁殖期真っ盛りであるはずの蛙の鳴き声は一つもない。梅雨を目前に控えながらも気温は大寒さながらに冷え込んでいるような錯覚のなか、唯一むせ返るような熱気が肉塊から発せられていた。
男たちは皆それぞれ得物に手をかざして、あるいは拳を固めて、明らかな臨戦態勢を取っていた。
そうして合図ともいうべき気泡がひとつ、ぷつんと破裂する。
「はッ――」
壮年の男は少女を両腕で抱えながら跳躍する。泥が跳ね、男の肉体は燕さながらに背後へと飛翔。
途端、静寂を保っていた肉塊が腕を伸ばす。それは怒髪天を衝くかの如き気概で男に迫り、十メートルはあった距離を瞬時に詰め、なおかつ離れゆく男の、十数メートルもの跳躍距離を零にした。触手は着地を許すことなく、肉の鎧を纏った男の脚を容易に絡め取る。
男衆は肉の触手を断ち切ろうと動いてはいたが、壮年の男は肉塊へと引きずり込まれていく。
――――間に合わない。
遠心力により頭に血が登ってくる感覚の中、壮年の男は自らを諦観しながらも声を張った。
「五代!」
男は脚が千切れるかのような剛力への抵抗をやめ、腕の中の少女を放り投げた。
山なりに浮き上がる少女。その落下地点にて硬直していた十代の青年は我に返ると腕を出し、辛うじて少女を受け止める。
「雪ちゃんを――――」
伝達の余地も無く壮年の男は肉塊に呑まれ、声は奥底へと沈みこんでいった。
「師匠!」
五代は声を震わせた。無論、肉塊から返答はない。
惨事はそれだけに留まらなかった。肉塊は触手に苛立ちをのせて振り回し、青年・五代の師に続けてまた一人、また一人と、歴戦の勇士たちを捕まえては呑み込んでいく。
触手は十数にも増殖し、なお増殖を続けている。その内の一本が五代に迫るが、筋骨隆々の猛々しい男が身の丈ほどの棍で叩き落した。棍の表面を覆っていた木目は剥げ、鉄の芯が剥き出しとなる。
「五代、女子供を連れて都へ行け」
「先輩……」
それは五代の兄弟子の一人であった。
「巫女様の姿が見当たらない、既に討たれたとみるべきだろう。退魔なくして禍津神々、鬼哭啾啾たる邪気を祓う術はない。行け!」
ただの鉄棍が蛇の如きしなりをみせる。得意の棒術を駆使し、兄弟子は臆することなく肉塊へと突進していった。
五代もまた怖気づく心臓に喝を入れて、一歩踏み出す。
「オ、オレだって」
その無謀な突撃を食い止めたのは背後からの剛力であった。皺だらけの手が五代の肩を捕まえ、後方へ投げ飛ばすかのように引き倒したのだ。力なく笑う膝がそれに耐えられるはずもなく、五代は勢いよく尻もちをついてしまう。
「さっさと行け、腰抜け! 山道沿いに都を目指せばいい」
「孟栄さんまで」
五代が見上げた先には、拳法家、孟栄の姿があった。自身の師が認める最大の好敵手。
孟栄の肩幅の広い体躯の向こうにはもはや数えることも億劫になるほどの触手が獲物を求めて暴虐の限りを尽くしていた。戦いに身を投じた男たちははすでに半数が犠牲となっており、今、また一人が犠牲となった。
「行け!」
孟栄は自身を壁として迫りくる触手を拳で叩き落し、あるいは手刀で切り払って踏みとどまる。
五代は歯を食いしばり、落ちていた剣に手を伸ばすが、腕の中で震える少女を捨てることはできなかった。自分にそう言い聞かせた。
五代は漏れ出る嗚咽を呑み込んで駆けだしていた。
震える膝を制して、避難勧告を村中に発する。男たちの言いつけで家屋に引きこもっていた女子供は手荷物を抱えてすぐさま五代と共に村を発った。山道を駆け上がり、村落を見渡せる位置にまで来ると、眼下には深淵の如き暗闇が不気味な沈黙へと落ち込んでいた……。
そして――。
朝日と見紛うかの如き光明の中に、彼は目覚めの時を迎えた。
車輪が跳ねる。山道に敷かれていた砂利のいくつかが車輪に巻き込まれ、目覚ましにしては喧しい騒音が室内を満たしていた。
一時的な浮遊感が青年の体を押し上げ、その雑然とした物置は室内を一層混乱させた。
「いてっ」
誰が持ち込んだのか、真っ赤な張り子でできた達磨が青年の頭部に降りかかる。両手で抱えるほどの大きさでありながら、木や紙等の材質ゆえ血を見るに至らなかったのは幸運だった。
飛び起きた青年の視界は暗い。横に長い小窓から差し込む光から、少なくとも夜ではないことを悟る。木箱やら壺やらの影が幾多も目に入った。ここは資材室のように思えた。
「ようやっとお目覚めかの、清正よ」
少女の弾むような声に、青年は目を向けた。視界の中心には小さな人影が頬杖をついている。
清正と呼ばれた青年は、そうでなければならないとでもいうように乱れた黒髪をいつもの七三にきっちり分けて居直ると、喉は言葉を発していた。
「殿下」
自身の口から出たというのに、清正は首を傾げた。
目の前の影は大衆と変わらぬ質素な出で立ち。頭は手ぬぐいで覆われ、ところどころに黒い髪の毛が雑草のように生えている。幼い丸みを帯びた顔は煤けているが、整った愛らしい顔立ちまでは隠しようがなく、清正は瞬時の疑念を拭い去った。
「殿下!? なんというお姿で……!」
「忍び込むとなればやはり変装は必須よな。それともなにか、清正。職人が精魂込めた錐彫りの衣でもって埃臭い荷台へと乗り込むべきであった、と?」
「戯言をおっしゃらずに。どうして僕は――」と、そこへきて清正は自身の記憶がすっぽり抜け落ちていることに至り、せっかく整えた髪をかき乱して「あぁ、もう! ここはどこです!?」と掴みかかる勢いでみすぼらしい身なりの少女へと迫った。
「声を荒げるでない、見つかればただ事では済まぬぞ」
少女は清正をぞんざいに押しやってから、よくやく真ん丸の瞳を清正に向けた。
嬉々とした色が見え隠れする視線に、清正は自身の置かれている状況が、少なくとも自身にとって好ましいものでないことを直感した。
「ただ事で済まないのは僕だけですよ、ここはどこです!? ついさっきまで宿の方で、ええと、そうです。僕は紅茶を片手に夕焼けを眺めていたはずです、ええ! 先日の後始末が終わってようやく一息ついたところでした!」
「そうさの」と少女は清正と移り行く木々の風景とを見比べ、こちらのほうが面白そうだと細めた瞳を清正に向けた。「答えが欲しくば、まずは余の問いに答えてもらおうかの」
清正は乱れた息を整えつつ「なんです」と少々怒鳴り気味に問い返す。そこには話がわき道に逸れたとしても許しはしないという決心の表れがあった。
少女はあたかも清正の読み通りであるように、もったいぶってから口を開いた。
「今よりふた月前、皇国の端、北部西方の詰所で二人の若人が保護されたそうだの」
されど固めた決心は容易に崩され、清正の姿勢は雪崩のように崩れ去ってしまう。
「それから半月、ようやく若人の片割れが目を覚ました。話を聞いてみれば、なんでも妖怪変化の類に村を襲われたらしい。名のある武術家のことごとくが敗れ、力ある巫女も、女子供も命を落としたとか」
追い打ちをかけるが如く、少女はずいと清正に迫って耳打ちする。
「もう一つ、こいつは要領が得ないとかで確証はないが、“山三つを丸ごと消し去った”――とか。若人の言に嘘偽なければこれは国の大事ぞ。天災の類であるならば五賢人の御力を以って事に当たらねばならぬ。人災の類であるならば軍事的な脅威と捉える必要がある。だというのに、調査団の派遣を余が耳にしたのはつい二日前」
少女は近場に投げ出されていた扇子を取ると、畳まれたままのそれを太腿に叩きつける。爽快な破裂音が室内に木霊した。
「さて、清正。心して答えよ。国家存続の危機を前に、かような案件が、一体どうして、垢の一片も残さぬ余の耳に届かなんだ」
殿下と呼ぶにふさわしい精悍を体現し、かつ自己の圧倒的優位性を示したのは間違いなく清正の眼前に構える少女であった。
ところが清正は歳不相応というそれにかえって平静を取り戻し、崩れた姿勢を建て直すと「そのようなこと、言われずともご存じでしょうに」と、ふくれっ面でもって少女に相対する。
それに少女は引き締めた表情を綻ばせて愉快な笑いをあげてから「悪ふざけが過ぎたわ」と手のひら代わりの扇子でもって乱雑に地面を叩いた。
「いやな。お前の考える通り、余がそれを耳にしたなら飛びつかない道理はないものな」
少女は、遠方にある仮面をつけた道化ばかりが座する社交界の舞台を思い起こして小さく息を吐くが、扇子と共に雑念を放り投げる。
「お前の思想、言動、行動、習慣。そのすべてが余のためであることぐらい百も承知しておる。確かにこの案件、危険ではある、が。ほれ、感じるだろう。もはやこの地に邪気はない。あるのは僅かな残り香のみ」
少女はひとつしかない通気窓より外を見やる。清正も「まさか」とつられて覗いてみれば、窓の外には木どころか草の一本もない、不毛の大地が広がっていた。まるでもとからあった山を力任せに削り取ってつくられた平地のようだ。
「清正よ、察しの良いお前ならわかっていると思うが、そろそろお前の問いに答えよう」
馬車が停止したのを見計らって少女は立ち上がる。
「ここは《壱之都》より遥か北方、そしてこの荷台は件の調査団の馬車の中よ。……お前の紅茶には来栖の睡眠薬を入れてやったわ。今は早朝、南蛮時計でいうところの五時というところ。効果のほどは一日半か、なかなかに強い薬だの。来栖の奴もこんな薬が無くては眠れぬというのだから休暇を取ればよいのにな」
外の更地に目をくぎ付けにされていた清正の肉体は過眠の疲労感を思い起こす。しかし、理性が目覚めきっていないその身は抑えのきかない感情でもって震えていた。
「一日半も、ここに潜んでいたのですか?」
「うむ。いやぁ、荷台というものはなかなかに揺れるものでな、衝撃緩和機構と言ったか? そいつを導入したと聞いているが流石に尻が痛いわ、まったく」
清正は少女のお目付け役として厳とした態度であろうと心がけるが、こういったことはやはり気恥ずかしさが先行してしまい「であれば、その……。生理的なものは――――御不浄はどうされたのです?」と、ぼそぼそと呟く形になってしまった。
対して枢姫はおっぴろげに口を開いた。
「そこに瓶があるだろう? そいつにしてな、窓から撒いてやったわ」
「な、なんてことを……」
わははと笑う少女に、清正は大きく肩を落とした。
少女は首やら肩やらのコリをほぐしていたが「清正よ、不服か? なんぞ物申すところがあるならば言うてみい。聞いてやろう」と言葉に不釣り合いな、年相応の可愛らしい動作でもって清正の隣りに腰を下ろした。
清正は「なら」とわななく唇を震わせてから、日頃の穏やかな視線とは異なる苛烈なものを少女に向けた。
「なら言わせてもらいますがね! 僕は殿下の事を思って騒動に関するあれこれを、殿下の御耳に入らぬよう必死こいてなんやかんやしたんです! 後始末が面倒だとかそんなふうには考えておりません、そりゃ少しばかり感じる時もありますよ、ですが本心からではありません! 殿下がこのような興味惹かれる場に行かない道理はないとわかっているからこそ、僕はもう、来栖さんら女中の方々、宇藤さんや堺さん、それからお屋敷を訪れる数多くの訪問者の方々に一言、口止めをお願いしたのです! それがなんです、まさか、殿下に荷台で、瓶に、そのようなことをさせてしまうだなんて……僕は……もっとしっかりしていれば。……繰り返しますが、それもこれも一重に、殿下の身を案じていればこそなのです。後始末は僕がきちんとしますから、調査団の馬車を借りて引き返しましょう! 今すぐに!」
怒涛のそれには、流石の少女も息を詰まらせた。しかしながら彼女も慣れたもので、直後には穏やかな水面の如き瞳でもって、肩をしきりに上下させる清正と向き合った。
「清正よ、余はお前のそういうところを好いておる。お前は頑なに口を開かないことはあるが、口から出る言に偽りはない。それぐらいわかる。言葉を偽るは心の穢れぞ、お前はそのままでよい」
これに小さく、感嘆にもならない声を漏らした清正は頬を赤らめた。
「清正よ、お前を拾ってからもう五年になるか。早いものよな。日ごろ目に涙を浮かべていたお前は、いつのまにかこうも逞しくなってくれた。余を心から慕ってくれる者はお前を含めごく少数の臣下のみ。中でも、お前の忠義こそ余が最も欲しておるものぞ。何かと面倒をかけるが、これからもよろしく頼む」
内に滲み、広がってゆく五つも年下である少女の言葉から清正は身を正し、両の拳をついて「そのお心のままに」と臣下の礼を以って頭を下げた。
外の景色は変わらず、内に震動は無い。
しかしながら、このような団円を少女が許すはずもなく、彼女はしてやったりと口元に笑みを浮かべ「言ったな、清正!」と、勢いよく立ち上がった。
少し遅れて清正が飛び起きるように頭を上げた。口は呆然と開き、やってしまったという力ない表情が貼り付いていた。
「ならば、まずは調査団に話を訊くとするか。清正、後に続け!」
外に出てみれば、調査団は野営の準備に勤しんでいた。戦というわけではないため、身軽な服装で作業する調査団員らは、ある者は木々を組んで野営地を囲い、ある者は決められた場所に天幕の設置作業にあたっている。調査団の規模は百から百五十名。
そんな彼らが行き交う通路の中央を、少女は供の清正を後ろにつけて躊躇なく闊歩する。
みすぼらしい身なりながらも堂々たる歩行を見せつける少女。大人たちはその進行を止めることを憚られ、誰もが凝視して見送る以外に対応する術を持たなかった。少女の風格によって――ではなく、主に後ろについて歩く清正の身なりがそうさせていた。
清正の服装は滑らかな光沢を放つ黒の、南蛮における軍服に似た出で立ち。その素材は、富豪や軍・政府高官のみが所有できる高価かつ希少な絹。しかも首をぐるっと覆う立襟には《頭合わせの三つ葉竜胆》の装飾が施された銀の徽章があった。
「おい、あれ。七三分けのやつって――」
「ああ。皇家の付き人か、はたまたそれに近しい方だろう……。護衛官かもな」
「<八獅>の一角って事は無いだろ、あんな貧弱そうなのが」
「可能性が無いわけじゃないぜ。<八獅>の中には十代の少女がいるって話だ。見ろよ、腰に刀がある。それに、見方によっちゃあ女にも見えるだろ?」
「そんなのがどうしてここに?」
ざわめきの中から拾える言葉は、どれもこれも清正を指してのもの。
「人気者だの、清正。見世小屋の猿さながらよな」
「誰のせいなんでしょうかね」
清正は自身の安易な正直さを恨みつつ、見物人さながらの大人たちを意識の外へ押しやって前に進む。
注目されていない少女としては大人たちなんぞいてもいなくとも同じのようで、しきりに視線を動かして自身の頭脳に情報を蓄えていた。
「みたところ調査は内政府、公安の管轄で行っておるようだの」
前方、少女の視線が捉えているのは<公安>の二文字が記された旗。清正もそれを確認して頷いた。
「そのようですね。今回の異変を国内治安維持の一環として捉えている証でしょう」
「そうかの?」
「そうですよ」
皇国における統治機構、三つの主要機関の役割を考えたなら清正の結論は必至であった。
内外問わずあらゆる軍事行動を主導する<軍事府>、周辺国家との経済的、政治的関係の調停役を務める<外交府>、そして一地域から皇国全土の治安維持はもちろんのこと、司法、行政、立法――おおよそ考えうる国内統治のすべてを司る<内政府>。
当然のことといえば、当然のことではあったが、清正にはどうしても不服というべき点があった。
「<剣豪衆>や<魔導士>の助力なしというのは、問題をいささか軽視しているようにも見えます」
事件の真相がどうであれ、この場に在るのは、“一つの地域のあらゆる生命を消し去るほどの何かが起きた”という歴然たる事実。これに対し戦力として、また退魔士として最高峰の人材を派遣しないのはどういうことだろうか。
清正は落ち着かない気分を抑えつつ、少女のすぐ後ろにまで距離を詰める。
「いざという時の戦力は期待できません。やはりすぐに引き返しましょう。なにかあってからでは」
「くどいぞ、清正」
少女は跳ぶように大股で前進を続ける。それはまさに彼女の揚々とした感情の現れのようで、清正は「なにかあってからじゃあ遅いんですよ!」と情けない声をあげるが、口元は仕方なしというふうに緩んでいた。それも少女の言うように、禍々しい気配を感じないが故だろう。
されどそんな少女の進行も、正面より向かってくる男によって妨げられてしまう。
「待たれよ」
男の視線は少女にではなく、理路整然を具体したかのような清正に向けられていた。清正は少女の付き人であることを強調するように小さく一礼して応えた。
それをどう受け取ったのか、男もまた清正に一礼を返した。
男の出で立ちは現場に出る作業人というものではなく、公の場にふさわしい高級文官を彷彿とさせる風貌だった。裾は長く、またゆったりとした大口の長袖――ちょうど法術士のローブを意識した白い麻で編まれた衣服を身に纏っており、整った髭の合間から覗く唇が開かれた。
「この場は<中央内政府>が<公安>の管轄下にあります。許可なき方は早々に立ち去りなさい。どなたかに用件があれば承りましょう」
男が淡白に告げたのを聞いて、少女は男を見上げた。
「この場の最高責任者と話がしたい。無論、取り扱っている案件について、の。貴公がここの責任者とお見受けするが」
如何に。少女は問うた。
男からしたら豆鉄砲を食った気分だろう。眼下にて仁王立ちする、百姓の娘と言って差し支えない少女からそんな言葉が出てきたのだから。しかもその内容ときたら横暴不遜というのがお似合いときた。
男が隠しもしない嘲りを表情に含めて少女に答えようとするのを、清正は「失礼」と差しとめて、少女の脇、一歩後ろに立つ。
「こちらにおわすは《蒼の皇国》、劉鋒皇帝陛下が御息女。第四皇女、劉枢殿下であらせられる。殿下は北方――つまりこの地における今回の事件について気がかりがあるとのことで、先ほどまで周辺集落にて、自らの御身分をお隠しになって聞き込みをされていました。その延長としてこうしてこちらに足を運ばれたのです」
清正の堂々たる言に男の表情から軽んじる気が失せ、代わりに眉を顰めて少女に視線を注いだ。
少女――枢姫は清正に合わせて「如何にも」と胸を張った。
男の疑念は晴れきらないとみえるが、それでも礼を失するのは組織人としていただけないと考えたのだろう、一歩後退してから両の手を組んで、深く頭を下げた。
「遅れながら、大司空直属<十杖>が一人、小牧宗徳と申します。無礼とは存じまするが、こちらも内政総裁たる大司空、鳳明様より極秘裏の下命を拝する身ゆえ……。身の証立てをお願い申し上げます」
「公安の者ではなく“鳳明直属の”、か。ふん、なるほど」
枢姫は意味ありげに頷いてから「しかし、余自らが証明したならば貴公の命を奪いかねない、の」と、その視線を清正に送る。すると清正は懐から印籠を取り出して、《頭合わせの三つ葉竜胆》の印を示した。
「これで、よろしいですか」と清正は小牧を仰ぐ。
「ええ、もちろんでございます」と小牧は清正に対して蛇のように目を細めて頷くと、枢姫の眼下にて土の汚れも意に介さずに膝をついて首を垂れた。「殿下、先の無礼をお許しください」
枢姫は別段の感情も示さずに「良い」と一言を告げてから、中空に視線を彷徨わせつつ続ける。
「しかし、<十杖>――鳳明の直属となると話は訊けそうにないの」
小牧は頭を上げた。
「恐れながら、殿下の仰る通りにございます。鳳明様より、事の真相究明までは何人にも詳細を告げるなと申しつけられております故」
「当然のことぞ、仕方あるまい」
枢姫があっさり引き下がったのを見て、清正は無表情の裏でぎょっとするが、その疑念もすぐに霧散する。
枢姫は「しかし」と不敵な笑みを口元に浮かべ、小牧と視線を交えた。
「ほんの一つだけ、小牧殿個人に問おう。事の真相過程は兎も角として、この案件、何らかの力が働いたように感じられる。空気に紛れる邪まな気配の残滓、それが人の意志に依るところか、はたまた大地の意志かは定かではない。そこで問う、此度の事件は人災か、天災か……――貴公の考えを訊かせてはくれまいか」
これに小牧はまたも頭を下げて「今のところ、調査中としか」と答えた。
無難かつ退屈な回答にもかかわらず枢姫はどういうわけか満足したふうに頷いた。
「なるほど、の。いやいや、無理を言ってすまなんだ。これ以上は邪魔になりそうだの、そろそろおいとまさせてもらおうか」
枢姫はそう告げて来た道を引き返していく。
清正も後に続こうと踵を翻すが「付き人殿」と小牧の声がそれを妨げた。
「皇女殿下はまだ幼い、容姿で人を選ばれるのも無理はなかろう。八上家の明星たる者、せいぜいその白い肌を汚さぬよう、化粧を念入りにするがよろしい」
小牧の口元には深く歪な皺が刻まれていた。
清正は「ご丁寧に」と頭を下げてから枢姫の後に続く。背後から迫る嘲笑を振り切るように……。
調査団の者たちが作業に従事している道中、枢姫は隣りを歩く清正に向けて笑みを浮かべた。
「清正よ、嘘が上手くなったな。忍び込んだと言ってやればよかったものを」
「荷台に忍び込んだなんて言ったら、荷造りをした人の責任が問われるでしょう。事は穏便に済ませましょうよ」
枢姫は口の中で笑い声を殺しながら「そうだの」と頷いた。
人がまばらになってきたのを見計らって、枢姫は抑えた声で「清正、耳を」と口に出すが、それは清正の頓狂な悲鳴でかき消された。
「あぁ、でも! 嘘がばれたら僕は斬首ですよ! 相手は大司空様直属の文官団、かたや家の格も持たない三男坊! これはもう、どう考えても極刑ですって、どうしよう……。うわぁ、もう……」
清正は高潔にも見えた態度から一転して、七三の髪を見る影もなくぐしゃぐしゃにしてうんうん唸る。それに枢姫は愉快といわんばかりの笑い声を上げた。
「馬鹿を言うな、お前は余の家臣ぞ。かような些事で首を落とさせるものか」
枢姫はしばらく腹を押さえていたが、一旦声を静めると、口角を吊り上げたまま口を開いた。
「清正よ、気がついたか」
「なにがです」と清正は顔をあげた。
「あの小牧とかいう男に陰りがみえた。此度の事件、何らかの人の意図が働いておるやもしれんぞ」
枢姫のうずうずとした好奇心を感じ取りつつ、清正は見当がつかないというふうに首を傾げながらも「またか」と溜息交じりの声を漏らす。されどその表情は柔らかく、年相応の朗らかさが滲み出ていた。
真夏の太陽がうだるような輝きでもって正午を示す。
枢姫、清正は調査団の野営地より離れ、滴る汗を拭いながら緑一つない荒野を進んでいた。かつての生命に溢れた山紫水明たる景観は面影も無い。
「酷いものですね」
「うむ。景観は不毛、気質は邪気。全くもって気分が悪い」
枢姫の言葉に、清正もまた込み上げてくるものを飲みこんで頷く。からっと乾いた空気に紛れる穢れた気配。怨念にも似たそれは紛れもない陰性。清正には呪術的な、吐き気を催す瘴気にも感じられた。
足を進めるうちに清正は手に広げた皇国領内の地図を示しつつ「ここが、集落の跡地です」と何の変哲もない荒地にて足を止めた。
枢姫はきょろきょろと周囲を見回してから「見事に何もないの」と呟いて、更に北方に足を進める。間もなくして、平坦に続いていた荒野に著しい変化を見つけた。
「溝ができておる」
幅は清正の肩幅と同等、深さは足の脛まである溝が、北方へ直進する軌跡を描いていた。しかも溝内部の色は濃い茶色で、湿っているように見て取れる。
「雨が降ったというわけでは……ないですね」
「そうであるならここら一帯が湿っていなければ道理に合わん」
枢姫は臆することなく「この溝はどこへ続いておるのかの」と、溝に沿って歩みを進める。
清正はいつでも抜けるよう刀の柄に手をかけて足を踏み出す。生来、気の弱い清正は斬首台に足をかけるが如き錯覚を覚えた。
「溝の幅が次第に広くなっておる。ここは牛の頭尾ほどの幅だが、見ろ。おそらく山があったのだろう、ここで溝が一気に広がっておる。横幅はもはや大河に匹敵するぞ」
「深さも相当ですね。成人男性三人分というところですか」
清正は溝の底の方を覗き見る。なにやらぬめつく液体が溜まっているように見えたが、特に触れることなく、直視を控えて足を進めた。
前方の枢姫から「清正」との呼びつけに清正は駆け付ける。
「どうされました」
「こいつをみろ」
枢姫が指示したのは溝の縁。盛り上がった土の部分。そこには重なり合ったいくつもの紅葉型の跡が刻まれていた。清正は自身の目を疑った。
「これ、人の手形じゃ……」
「大きさからみて子供のものだろう。十人分といったところかの」
べたべたと規則性も理性もない、乱れた手の跡が一か所に集中している。爪で引っ掻いたもの、掌を強く打ち付けたもの、鍬で掘り起こしたような溝は引きずられまいと抵抗した跡だろうか。
清正はその思念の残滓を感じとり、自身の手が震えるのを抑えきれなかった。手をかけた刀の刃が鞘と擦れてカタカタと鳴る。
「殿下、引き返しましょう。この案件は調査団に任せるべきです」
声に震えを込めなかったのは彼の付き人としての意地だろう。目に力を込めて主君たる枢姫に制止を呼びかける。が、枢姫は「行くぞ」と足を進めていく。
「この生き物は集落周辺の生命を時間をかけて食い尽くし、逃げる女子供を貪った後には北へ北へと一直線で向かっておる。当然、周辺の生命を食い尽くしながらの。このままだと行き当たるのは――北壁か」
《北壁》――大陸禁忌の地と皇国を隔てる半透明な石英の壁。水晶の素材として使われる石英でできたこの壁は、陽光を浴びて七色に輝くことと、この壁の立地から《神秘の護壁》とも称される。
「霊妙之森を目指しているのではないでしょうか……」
皇国領の北側に沿って山脈のようにそびえる《北壁》の向こうには、《霊妙之森》と呼ばれる禁忌の森が広がっている。魔の怪物が闊歩し、未知の術を扱う魔人が住むといわれる太古からある未開の森。霊妙之森と皇国とを隔てるが故の《神秘の護壁》。
北方異変における“未知の現象”と“禁忌の森”。
清正がこのふたつを結び付けたのに特別な理由はいらなかった。
枢姫もまた同様に頷いたが「しかしながら、こやつは目的地に辿りつけなかったようだの」と荒野の切れ目、皇国領内の森林を目前にして立ち止まった。溝も森林の手前ですっぱりと途切れていた。森林の向こうには七色の壁が頭を出していた。
清正は胸をなでおろす思いであったが、それも一時の事。
「殿下、お待ちください。なにかいます」
荒野の切れ目、ぶつりと寸断された大河の溝底に人影があった。人影は力なく地べたに尻をついて項垂れている。肩はかすかに上下しているように見える。
「人か……?」
清正は警戒心露わに呟いて、溝に落ちないようにじりじりと身を乗り出す。
人の形をしている。衆人と変わらぬ服を身に着けている。髪の毛は黒。邪まな感覚は無いが、生存者と考えるにはあまりにも疑わしい。なんせ大河の幅ほどもある溝が、包丁で寸断されたように途絶えた地点にいるのだから。
清正が人影に注意を向けていると砂煙が視界に入る。枢姫が溝の傾斜を滑り降りていった副産物であった。
「殿下!?」
清正は彼女を止めようとすぐさま傾斜を下るが時すでに遅く、枢姫は既に人影の脇におりていた。
枢姫は恐れ怯む様子もなく、そのまま項垂れる人影の顔を覗き見てから、清正に目を向けた。そこには、強い高潔な意志があった。
「童ぞ」
大河の溝の底。失意に項垂れる子供の、その震える肩を、枢姫は何の躊躇もなく支えたのだ……。