誕生
不定期更新です
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古来より、ノーランガラス帝国の南の外れの森林に生息し、人々に恐れられていた怪異がいたという。
『アグ』と呼ばれるその怪異は突如として、そこに何の脈絡もなく現れた。その怪異『アグ』は分裂を繰り返し、全世界へと跋扈していった。
人々はその醜悪な外見と無慈悲に蹂躙する姿をみて怖気づき、為す術もないなかったと言う。
村一番の騎士でさえ、腰に捧げた剣を抜刀したとしても、腰が震え、身体中が麻痺したようになり、地にうずくまってしまうほど。それほどにも脅威的な怪異だった。
たったの半日で幾つもの村々が『アグ』によって壊滅させられ、その村人もひき肉の如く切り刻まれ、死に絶えた。
やがてノーランガルス帝国を中心に、全帝国が怪異『アグ』の退治に全戦力を注いだ。
そして、王都に鎮座する帝国随一の力を誇る騎士団を怪異『アグ』の元へ派遣させ、退治を試みた。だが、全ての騎士団は帰ってくることはなかった。
そして、ついには全世界が『アグ』によって蹂躙され続けた。
もう戦力と呼ばれるようなものはないのに等しかった。多くの人々は無残に虐殺され、『アグ』の餌食となってしまった。
そして、ノーランガルス帝国は南から侵食され、ついには北へと怪異が迫ってきた。そこの人々は『アグ』の侵入を防ぐべく岩石で作られた防波堤を作っていた。だが、時すでに遅し。
怪異『アグ』は既にそこ近づいていた。
彼らは信じられなかった。まだ出現から6日ばかりしか経過しておらず、その短時間で南から北の果て到達は通常では不可能なのだ。そう、通常では。だが、『アグ』は異常だった。常軌を圧倒的に逸しているような怪異なのだ。馬で10日かかる距離も、いとも簡単に走破できる。
もう戦える者はおらず、ましてや勝てるわけがない。防波堤すらもできていない。もう誰も怪異『アグ』を止めることが出来ないかと思われた。
そのとき空で『何か』が光った。
ノーランガルス帝国の北の村で。そのさらに東、西に行った帝国の村でも。
『何か』が光った。
すると、怪異『アグ』はいつの間にか、この世界から消失していた、という。
その『何か』がなんだったのかは誰も知る由もなかったが、人々はその『何か』が自分達を救ってくれたのだと確信した。
姿形ない『何か』は人々の想像によって祀られ、『神』となった。その『神』が残したという教えを人々は従い、その『神』を心から崇高な神として信仰し続けた。ヴァルキリアス。それが『名無しの神』の名前だった。正確には付けられた名前。人々の想像と妄想で作られた、いわば偽造神というもの。それを人々は未来永劫信仰し続けた。何か暗号のような文言を唱え、日々崇めていた。赤の他人に。狂った人がこの世界に蔓延してしまったのだ。
人々は『アグ』の出現から恐慌し、狼狽した。
人々は『名無しの神』に縋り、崇めてしまった。
そして、人々は見事に洗脳された。
『名無しの神』.....いや....
一人の欲深い少女によって。
◆
鐘が鳴った。
一日を告げる鐘が日の出とともに、轟音を出して盛大に鳴った。
それと同時に周辺の家々から声という声が鐘の轟音の中でも明快に聞こえるほど響いてきた。王都周辺の人々はこうして一斉に目覚めた。
やがて鐘の音は静まり、人の声で溢れかえっていた。
生活感溢れるような心地よい音。
作られた...音。
貧困に植えて、犯罪が多発した帝国が『名無しの神』の出現と共に別物となった。人々は教えを常に、胸に焼き続けた。それはとても犯罪が蔓延る帝国では相容れないような教えであった。
物を盗んではならぬ。
人を傷つけてはならぬ。
人を売ってはならぬ。
衣食住は自己の手で確保するべし。
人生を諦めず、常に努力するべし。などなど。
善行を大いに勧め、悪行を為す事が許されないような天国にも等しき世界のような教えだった。法といっても過言ではないほどに、人々の生活を縛っていた。それは教えと言っていいのか。『名無しの神』の命令ではないのだろうか。そう思う者は誰一人いなかった。理由は然り、『神』だからだ。『神』のおっしゃる事が全て正しいのであり、絶対普遍の常識でもあるのだ。だから人々はそれを信じ続け、実行し、素晴らしく見える世の中へと変容させた。
それが今の世界。
誰も傷つくことのない世界。
人が大いに尊重される世界。
平和で優しい世界。
もし、教えに従い人生を諦めず、努力しても貧困のままで飢え死にしたとしても誰も責めない世界。教えが間違ったとはいわず、ただ努力が足りなかっただけで終わらせる。そんな理不尽をも受け入れる世界なのだ。
狂った世界。
いい呼び名だと、誰も思わない。ましてやそういう風に考えたこともないだろう。
努力が足りなかったのか。
じゃあ仕方ないね。
来世でも頑張って、応援してるよ。
死を祝福する、悍ましい世界。
そんな世界に、一人の『記憶』を持った赤ん坊が誕生した。
『アグ』の襲撃が『名無しの神』によって及ばなかった未練の地で。