修行初日
風に揺られたエルの髪が少しだけ手に当たってむずかゆい。
そんな雑念を振り払うように木剣を握り、グラウの方を見る。
「何はともあれ、まずは目標である、高みへと朽ちゆく刃を見せる。
それを目指して修行してもらう」
くいっと飲みきった酒瓶と、火を消した葉巻を地面に投げ捨ててグラウは木剣を構える。
息を吸い、虚空を見据える。 そこに酔いや老いは感じられない。
グラウの頰に浮かんだ赤みはその剣気に押されるように引き、見た目はほとんど変わっていないはずなのに、酔っ払いから老成とも取れる落ち着いた風貌に変化する。
両手で持った木剣を上段に持ち上げる。 そしていつの間にか手と剣は下に移動していた。
呆気に取られてから、木剣が風を切り裂いた音がやってくる。
「は?」
思わず、間抜けな声が口から漏れ出てしまう。
それも仕方ない。 木剣の軌跡どころか、振っていることさえも認識が出来なかった。
グラウはこちらへと向き直り、自慢気な笑みを浮かべた。
「どうだ、すげえだろ?」
それが自分に放たれたならば、気がついた時には死んでいる。 そう想像したら、背筋に一つの汗が垂れる。
「これが、高朽流の初めの技にして最奥の奥義。
まぁ、これ以外の技がないだけだがな。 俺が勝手に作った流派だしな」
そう言ってへらりと笑ったグラウの頰に赤みが浮かび始める。
当たりを引いた。 素直にそう思った。
「真似してやってみろ」
グラウはそう言ってからの新しい酒瓶のコルクを噛んで抜いて、それを飲み始める。
エルの応援を聞き、グラウの指示に従って木剣を上段に構える。 足の位置、開き具合、脇、手首、視線、背筋、顎、息遣い。
構えのすべてを思い出し、模倣する。
グラウが感嘆の声を漏らす。 エルはまだ始まってもいないのにすごいと褒め始めた。
ここから、グラウはどうしたんだ。
分からない。 分かる訳もない。 見ていなかった、見ることさえも出来ない技だったのだから。
木剣が降りていた場面を思い出す。 だいたいどのような軌跡を描いて、木剣を振り下ろしたグラウがその体制になったのは分かる。
すべての動きは分かっているはずなのに、真似することは出来るのに、その速度を生み出すことが出来る未来が見えない。
「どうした?」
グラウの声を聞き、それに追われるように剣を振り抜いた。
遅い。 いつもの振りと変わらない遅さだ。
「充分だ。 身体を動かすことも出来れば、体力もある。 いい目も持っていて技を伝えるには申し分ない」
木剣をもう一度振り上げて、振り下ろす。
「何が違った。 違いは、なかった」
グラウは褒めておきながら、笑う。
構えから、振り下ろした後の姿勢まですべてが同じはずなのに、結果は明らかに差があった。
一方の木剣は視認することすら不可能の速度で振り降ろされ、もう一方の木剣は容易に視認出来る遅さだ。
「ほとんど一緒だが、全部違うんだ。
とりあえず座れ」
グラウは木剣を放り投げて、荷物から紙とペンを取り出した。
俺は地面の上に座り込むが、エルは抵抗があるのか座り込まない。
膝の上に来るかと尋ねるが断られた。
紙とペンということで、意外にも理屈っぽいことを教えられるのかと思えば、グラウはその予想を裏切り、紙に線を引きそれを俺に渡す。
「お前らはそれ、何に見える?」
紙だ。 紙の端から端までまっすぐに直線が引かれた紙で、特にそれ以外におかしなところはない。
「直線だ」
「線分ですね」
グラウは俺にペンを手渡して、同じように書けという。
特に支えになるものや机もないので紙を手に持って、まっすぐに線を引く。
「これが俺とアキレア、お前との差だ」
まっすぐな線と、ガタガタ揺れている線が二つ並んだ紙を俺に見せて言う。
「俺の書いた線の長さを1とすれば、お前の書いた線は1.5の長さがある。
剣速もそれに現れていて、俺が1の距離を振るために1振っているのに対して、1の距離振るために1.5振っている。 だから遅い。
分かりやすく言えば、お前の剣は高みへと朽ちていない、ブレブレだから遅いんだ」
遅いと言われたのは初めての経験で、何気なくだが誇りに思っていたのか少し悔しく思う。
「分からなければ。
剣を見ろ、剣は斬るためにいらない物を捨てて細く朽ちゆく刃を持つ。
塔を見ろ、塔は高くなるために先細りに高く朽ちいっているようだ。
無駄を削げ殺せ朽ちさせろ。 その境地が高みへと朽ちゆく刃だ」
無駄が一切存在しない、一振り。
単純にもほどがある奥義に戦慄し、それと同時に納得する。
「んで、具体的にどうするかってのがこれだ。
一本の線を引け、一瞬でまっすぐ引けるようになれ」
グラウは荷物から大量の紙の束とインクを取り出して俺の横に置く。
予想以上に地味な修行に驚く。
「これ、ここまできた意味があったか」
「そりゃ、まずは奥義を見てやる気出させないとバックレるだろ?」
否定は出来なかった。
とりあえず、グラウと俺の線が並んでいる紙に線を引いていくが、どれも最初と似たり寄ったりでまともにまっすぐ書くことが出来ない。
「頑張ってください!」
エルの応援を受けて、更にやる気を出して直線を引いていく練習を続ける。
インクでビショビショになった紙を捨て、新しい紙に線を引く。 集中して一本、ゆっくりと一本、さっと一本と様々な方法で引いていくが、どうしてもまっすぐ引くことが出来ない、
「コツとかはないのか」
「諦めるの早いな。
まぁ、なんだかんだ言っても、どれほど器用に引けるかが重要なんだ。
神経を研ぎ澄ませる感覚、一秒を十秒に引き延ばすような感覚が出せれば、上手く引けるんじゃねーか?」
ここにきて投げっぱなし。 グラウは立ち上がり、袋に木剣を入れていく。
「んじゃ、また明日、時計塔の前で。 それは宿題な」
グラウはそう言ってから去っていく。 修行は三時間どころか十分で終了し、あとは自習することになる。
「……どうします?」
このまま続けるか、バックレるかという事だろうか。
「当然、やる。
まぁここでやる必要もないから、図書館で練習して、エルはその横で好きにしててくれたらいい」
紙の束とインクとペン持って、フードをかぶり直して移動する。
図書館に着く前に、エルは口を開いた。
「アキさんが、頑張ってくれるの嬉しいですけど……。
あんまり無理はしないでくださいね」
「そんな大それた修行じゃないだろ。
それに、今は無理をしていないが、無理はする」
横に歩いているエルの手を掴む。 驚いようにエルは振り向いて俺の顔を見る。
「俺はエルを守るためなら、無理はする。 いくらでも」
顔を赤く染め上げて、それから少しぼーっと俺の顔を眺め、慌てたように俺の手を振り払って、目を逸らす。
「そんなの、嬉しく……ないですから」
エルは振り払った手で俺の服の裾を掴み、顔を伏せて立ち止まる。
「アキさんは、僕のためにしてくれるのが……多いです。
僕は、無理はしてほしくないです。 アキさんがなんて言おうと。
そんなの、全然、嬉しくないですから」
「……エル」
何か言おうとするが、喉の奥から声が出ることはなく、エルの発したその言葉に頷くことも出来ない。
立ち止まったせいで目立っていることに気がつき、すぐに歩くのを再開する。
何故かは分からないがエルを怒らせてしまった。
下手なことを言って拒否されるのが恐ろしく、考えることよりも恐怖が先行してしまう。
早く何か言わなければと思っている内に、図書館に到着してしまった。
懐かしい苦手なそこに入るのには、エルの手を握って勇気をもらいたいところだが、下手なことは出来ないと、俺のでは空を掴んでしまう。




