獣が剣を握るが如く①
吐いた息は溜息に似ていた。 広々とした空、小さく見える人や物、聞こえなくなった喧騒。 室内と似ていて二人きりを感じられる場所だ。
登ってみるものだと、小さく息を吐き出すと、エルが怯えたように服の袖を引っ張る。
「怖いのか? 建物の上だけど」
「んぅ……いえ、風が強いので……落ちたら危ないじゃないですか」
「俺はエルが落ちるより早く動けるから大丈夫だ」
エルの手を触り前に引くと、エルはもう片方の手で俺の手を握り込んで落ち着こうとする。
まだ怯えの抜け切らない彼女の頭を開いた手で撫でると、恥ずかしそうに目を逸らす。
「日本だと、もっと高い建物いっぱいあったので、大丈夫ですから。 娯楽として紐を付けて飛び降りとかもありましたし……」
「してみるか?」
「してみません」
縁に腰掛けて、脚を空に投げ出すように座る。 高いところが安心するのは、エルが何処にも逃げられないからだろうか。
俺の背中に張り付くようにしゃがみ込む彼女は、俺の耳元を食むように吐息を掛けて、喉を絞るように言葉を発した。
「……逃げませんか? 初めて会った時みたいに僕を攫って……」
「……怖かったのか?」
「……あなたが、戦うのは」
とても。 落とすように言ったその言葉。 媚びるように、脅すように首に回される手の感触。 頰に落ちた……雨粒。
「……雨だ」
下に見える二つの人影。 ……戦えと、促されている。 神にか、運命にか。 それには逆らえない。
ここで逃げれば、エルはまた罪悪感に苛まれてしまう。 また逃げて、また記憶を消させるのか。
そんなこと、認められない。 逃げて記憶を消して、それを繰り返すなど……絶対に、認められない。
突然現れた曇り空を見上げて、あまりにままならないことに溜息を吐く。
「逃げて、一緒にいましょうよ。 安全ですし、二人なら……」
「二人だと満足しない癖に、何を言っている」
びくりと、彼女の肩が震えて、思ったよりも低く出てしまった声を誤魔化すようにエルの身体を抱き締める。
「悪い」
「い、いえ……」
本当に俺だけでいいのならば、逃げてもいい。 母親を始めとして、俺以外の大切なものがあるから、いつもエルは迷い、後悔をする。
苛立ってしまったのは、他の人に対する嫉妬もある。 色々なものを大切に出来るエルへの嫉妬もある。
「……ああ」
俺だけ、とあまりに甘い嘘への怒りも……当たり前のようにあった。
嘘、嘘、嘘。不快に思ってしまう。 気分が悪い。 胸糞悪く、鬱陶しい感触が心臓を握る。
憎い。
思ってはいけないことを思ってしまった。
「……アキさん?」
不思議そうに首を傾げたエルの頭を撫でて、自身の醜さにほとほと呆れる。
俺にはエルばかりなのに、エルは他の物もある。 そんな嫉妬、あまりにも理不尽だ。
口を開いて、閉じる。 エル、エル、エル。 俺の物になってくれ。 俺だけを見てくれ、俺だけと話して、俺だけに心を許して、俺だけのために生きてくれ。
言えるはずもない。
「あの、どうし……」
「好きだ。 エル」
安堵したようにエルは息を吐き出し、俺は彼女を落ち着かせようと撫でる。
酷い不安感が、
「エルは、俺と共に一生を過ごしてくれるか?」
「一生って……」
「この世界で、俺と一緒に死んでくれ。 一緒に生きて、一緒に死のう」
エルは首を傾げて、抱かれたまま不思議そうに俺を見上げる。
「……? 当たり前じゃないですか」
彼女を抱きしめて、持ち上げて唇にキスをする。 エルは顔を赤くするが、高いところで暴れるのが怖いのか抵抗はしない。
「……エル」
「なんですか?」
気が狂いそうなぐらい嬉しい。 頭が上手く働かない。 人らしい感傷やら喜びではなく、もっと原始的な、奥底から湧き出るような感覚。 彼女なら、何を言っても許してくれる。 俺のことを愛してくれる。
思うがままに口にした。
「俺の子供を産んでくれ」
ポカンと、エルが俺を見る。 首を傾げて「子供?」と意味が分からないように呟いてから、抱き上げていた身体が硬直し、顔を真っ赤にしながら下手な人形のようにカクカクと頭を上下させる。
「いいのか!?」
ぐるぐるとエルの身体を振り回し、抱き締める。 嬉しい。 何か根源的な、獣じみた喜びを感じる。今すぐにでも、と思うが場所が場所だし、大山とロムが訪ねてきたらしいので、先にそちらからだろう。
「……急すぎて頭がおかしく、なりそうです」
「名前とか決めた方がいいのか? ああ、育て方が分からない。乳母とかいるよな?」
「……とりあえず落ち着きません? 少し雨降ってきましたし」
エルの身体を抱き上げたまま塔の中に入る。
「……自分より取り乱してる人がいると落ち着きますね」
「取り乱していない。……エルに似た子がいいな」
「低身長の遺伝子を引き継がせたくはないです」
「可愛いからいいだろ」
エルに似ていれば似ている方が好ましい。 むしろエルがもう一人出てきてくれたらいいのに、抜けた毛とかに治癒魔法を使ったらエルの身体が生えてきたりしないだろうか。 声に出ていたのか、呆れたようにエルが俺を見る。
「挿し木みたいな……。 アキさんの取り合いになるからダメですよ」
「俺も増やせば……」
二人の俺とエルがいるのを思い浮かべ、半々に分ける姿がどうしても思い浮かべられない。 エルを二人とも自分のものにしようと争う気がしてならない。
「アキさんが二人いても、僕同士で両方手に入れようと争うので血生臭い喧嘩になりますね」
「……やめとくか」
「アキさんは増えてもいいですよ?」
「殺し合いになるから遠慮しておく。 ……まぁ分裂とかは無理だろうけど」
ロクなことがないと思いながら、彼女の手を取って階段を降りる。
「アキさんって、どれぐらい強いんですか? ……その、危なかったり……」
「さあ、分からないな。 俺自身戦い始めたのは一年ほどのことだし、戦いに興味があるわけでもない……。 ロムに聞けば分かるか」
塔から出ると小雨の中でロムと大山の二人が待っていた。
「……一通り、出入り口は纏めた。 雨が強くなるかは分からないからすぐには始められないが、歩きながら説明ぐらいする」
「分かった。 エルの傘を買ってからでいいか」
近くの店で急いで傘を買って差してやりながら歩く。
「アキさん、アキさんが濡れてます。 というか僕だけしか入ってないです」
「それで大山、出入り口は幾つあるんだ?」
「聞いてください」
「ああ、やっぱり普通の出入り口と通気孔の二つだな。 魔法で穴を開けてもいいが……気が付かれるだろうな」
「むしろ傘の傾斜のせいで傘を差してない場合より濡れてるんですけど。 アキさんが」
エルが傘を持とうとするが、抵抗して動かさないようにする。
「あ、ロム。 俺って世界的に見てどれぐらい強いんだ?」
「……どれぐらいと言っても、過去はまだしも今の世界をそれほど知っているわけでもないからね。 相性とかもあるから一概には言いがたいし……」
ロムは少し目をエルに向けてから溜息を吐き出す。
「生半可な人には負けないと思うよ。 剣士の中だと、分かっている中で、同格レベルが……三人程度。 確実に君より強いと言える人間は、一人だね。 まぁ争うことはないと思うから大丈夫だよ。 まだ若いしね」
「……グラウのことは知っているか?」
「いや、分からないな」
分かっている中で、同格レベル以上が四人か。 ……もっと昔から魔法ではなく剣技を練習していた方が良かったか。
「……エルは隠した方が良さそうだな」
見られたら奪いに来られる可能性が高い。 力を付けるのはもちろんだが、その四人が団結して奪いに来る可能性もある。
「……ありませんよ」
「いや、危険だ。 何か修業は必要だな……」




