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健やかなる時も⑤

 俺は頭が悪い。 家系的な要因により、エンブルクは代々、魔に優れ、知に劣る。

 国や王、あるいは知らぬ何者かに良いように扱われていることは勘付いており、それでもそれを受け入れていたのは飼われていなければ生きることすら困難だからだ。


 その程度は分かる。 それに、エンブルクの血が濃い父親のヴァイスは勿論のこと、比較的血の薄い弟のレイでさえ、何の努力も苦しみもなく一騎当千の化け物だ。


 劣った知能か、踊った環境か、優った武力か。 理由など分かりはしないけれど、人と分かり合えない。

 エンブルクが近親による婚姻が多いのはそういった側面も多大にあるだろう。


 どういった理由によりかの考察など、意味がないことは分かりきっていた。


 身を裂くような痛みの理由。 俺が何を感じて、何を嫌がっているのかも分からない。 分からない。

 ただ辛い。 腹に風穴が開いて、そこから凍りつくような痛み。 痛い。


「あの、大丈夫……ですか?」


 身を引きながら「エル」としての記憶を失った少女が遠巻きに俺を見る。

 容姿はエルそのものだ。 声も、口調も、息遣いすらも、愛する人のものだ。


「……ああ」


 けれど、俺を余所余所しく心配する、あるいは怯えるその姿は、久しく見ていないものだ。


「その……ごめんなさい……どうしていいか、分からなくて」


 泣きそうな顔でエルは逃げるように布団に絡まる。


「……料理、持ってくる。 知らないところ動き回るの苦手だよな。

ああ、この前、箸を作ったんだ。 それで食べるのが好きって言ってたよな。 料理もエルが好きって言ってたやつだけ持ってくるな。 ああ、その前に退屈しないように本もいるか。 エルが面白いって言ってたのは全部別にして保管してるから、すぐに持ってくる。 本当に、何も遠慮はいらないからな。 ……ごめん、こういう風にされるの嫌いだったよな」


 どうしたらいいのか、分かりはしない。

 欠けているのだか、知識も、人として必要な何かも。 だが、エルが好きだ。 俺にはエルが必要だ。 エルがいなければならない。 どうしても、何を差し置いてでもエルが必要だ。

 エルは俺のものだ。 俺のものだ。


 エルを見ると、小さく華奢な身体がびくりと震える。


 逃さない。 絶対に逃さない。 エルの方に歩き、その身体を無理矢理に掴み引き寄せる。

 以前、エルは俺にだったら監禁されてもいいと言っていた。 だったら、いいはずだ。

 震えているエルの身体を投げないように捕まえて、持ち上げる。


 このまま拐う。 他の奴がいれば、記憶が失ったエルが俺を嫌がれば離される可能性があるが、いなければエルを奪われることはない。

 特にロトは危ない。 以前は俺よりも弱かったが、アイツがそのままのはずはない。 無理矢理エルを離さないようにすれば、あいつは俺を止めようと……俺とエルを引き離そうとするだろう。

 争いになり、負ければエルを奪われる。


 なら、確実なのはエルを拐って別の場所で暮らすことだ。 逃げればいい。 幸い、文字なら大抵の物は読める。 この時代戦える俺なら食いっぱぐれることもない。


 助けてくれた義理は果たせないが、エルの方が重要だ。


「あ、あ……ぅ、なん、です、か」

「……エル。 悪い」


 近くにあるナイフを一本適当に取り、窓を開ける。少し冷える風を感じ、毛布をエルに巻きつけて、声を出さないように手で口を塞ぐ。


「ん、んんっ! んん!!」


 眠らせようかと思ったが、傷付けることは出来ない。 そのまま窓から飛び降り、音を殺しながら着地する。見られていないことを確認してから、一切の音が出ないように屋敷の敷地内から出て、森の中を駆ける。


 グラウの石剣ぐらいは回収したかったが、それより早く遠くに逃げる方がいい。

 奪われる前に、早く走る。 速く、速く、遠くに。


 途中、口を塞いでいた手に軽い痛みが走る。 エルに噛まれた。 大して痛くもない。 エルの性格だと食いちぎられることもないだろう、問題ない。

 見慣れた場所をただ走って、知らない場所に着く。 国内だと父親やレイのツテで脚が着く可能性があるので、国外の……ロトが馬車を使うとすれば最低一年は掛かるような場所ぐらいまでには逃げる必要がある。 そこで静かに暮らせば見つからないだろう。


 走って、走って、エルの噛む力が弱まったことを感じ、ゆっくりと減速をして止まる。


 止まったことを感じてか、エルは身体を動かして俺の腕から抜け出す。

 よろめくように歩いて、地面に座り込んだ。


「あ……その……ごめん、なさい。 ごめんなさい、ごめんなさい」


 謝り続けるエルを見て、腹の底が痛むのを感じる。


「謝らなくていい。 多分、俺が間違っている」

「え……あ、その……すみませ、ん」


 エルは俺の方を見つめる。 涙を流している目尻は徐々に乾いていき、パチリパチリと瞬きを繰り返した。


「……僕が、悪かったんですね」

「何を言っているんだ。 俺が、エルを失いたくなくて、無理矢理連れ去って」

「じゃあ……なんで、貴方は……その、辛そう……で……」


 エルは身体を震わせながら立ち上がって、俺の方に近づく。


「辛そうで……僕のことを、知ってるんですか?

すごく速かったのに、全然、痛く、なかったです。 口を押さえられていたのに、しんどくも。 少し辛くなったら、止まって……」

「ごめん」

「でも、怖かったです。 今も、怖いです。 でも貴方も怖がってて。 起きたら、知らない人に甘やかされて、突然連れ去られて、怖がられていて……」

「……悪い」


 エルの手を引いて、抱き締める。 柔らかい。 暖かい。 小さい。 好きな感触だ。 離したくない。


「あの、やめて、やめて、ください。 怖い、です」

「……あと少しでいいから」

「でも……」

「あと五分だけ」

「……長いです……」


 そう言いながらも、エルは逃げようとせず、そのままされるままにいた。

 安心する。 もしかしたら、この場で逃げても逃げられないからかもしれないけれど、でも、逃げないでいてくれた。


 エルをゆっくり離すと、彼女は顔をうつむかせて口を開いた。


「結婚、してた……って本当、ですか?」

「……ああ」

「その、なんで、ですか?」

「なんでって……」

「その、僕のこと、好きだった……という、こと、ですか?」

「いや、今も好きだ。 君がいないと、俺は生きていけない」

「……信じられないです。 僕が好かれるなんて、嘘っぽい、です」


 エルはぐったりとした様子でしゃがみ込む。


「僕が人を好きになるのも、信じられないです」

「俺が好きなのは、間違いない。 好きだ。 愛してる。 君以外何もいらない」

「……突然、そんなの言われても、困ります」


 聞かないことを示すようにエルは耳を塞ぐ。


 休んでから、エルを抱き上げて、街が見えるまで走った。 以前来たことがある街で、適当に宿をとり、エルと同じ部屋に入った。

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