饅頭怖い⑤
ペンを叩きつけるように机に置いて、描かれた絵を握りしめる。
「どうなっている。 おかしいだろ。
俺はエルと会うまでずっとルト=エンブルクとして生きてきたはずで、一度も日本に行ったこともないはずなのに……何故ここまで明確に、これが描けるんだ」
答えが返ってくることはない。 俺の人生ではあり得ないはずの、二つ目の記憶。
日本の街並み、日本語、学校、生活……。 それを観測しているはずの、俺だけが抜け落ちている異質な記憶。
「俺は誰だ」
突然、思い出された記憶に困惑する。
いや、突然ではないか、思い出すように物を切り裂く技術、ヤケに頭の中に残る夢、エルを始めとした勇者に対して感じられる親近感……。 ゆっくりと何者かに頭の中を弄くりまわされていたのではないかと疑いを覚えてしまう。
自身のことを信じることが出来ない。 俺は誰だ。 何が俺で俺ではないのは何でどうあれば俺で俺ではないとするならばどういった物が根拠になって俺は一体何者で反対に何をすれば俺ではなくなりどうするべきでーー。
「アキさん、アキさん。 大丈夫です」
温かい。 慣れた感触、温かく小さく柔らかく愛おしい。
あり得ない自分の存在におかしくなりそうだった。
単純にエルに抱き締められた多幸感が胸中を占めて、自身の根幹などどうでもよくなる。
エルを抱きしめ返して、そのまま逃がさないように床に押し倒す。
「……あの、ここは月城さんのお部屋なので、それは……」
「……悪い。 月城、帰るのはもう少し待ってくれ」
それだけ言い残して、エルを持ち上げて自室に運ぶ。
抵抗するエルを運び終えて、扉に鍵を掛けてからエルを抱き締める。
「あ、アキさん、こんな昼間から、無理です。 恥ずかしいですよ」
抱きしめていた体制を少し変えて、エルの薄い胸に顔を埋めるようにする。
少しくすぐったそうに身がよじられて、それでも俺の頭に手を伸ばして髪を梳くように撫でた。
「大丈夫ですよ」と、エルは俺を勇気付ける言葉を言う。 言い知れない不安感は言われる度に薄れていくが、それでも恐怖心は残る。
「怖いんだ。 エル」
よしよしと子供を慰めるような手付きに羞恥を覚えるが、頭を撫でられる感覚や、安心感のあるエルの薄い胸に、大好きな甘い匂いから離れることは出来ない。
情けなく弱音を吐くが、エルは俺を見捨てる素振りも見せず、慈愛に満ちたように抱きしめてくれる。
人は怖い、魔物と怖い。 だが、斬ってしまえばそれで終わりでその程度の恐怖心だ。 内側から自身を食い破られるこの恐れは、抗うことすら出来ず、あまりに耐え難い。
エルに「大丈夫」と慰められるごとにそれも薄まっていくが、所詮は一時の麻痺でしかないことは分かっている。
固い胸に顔を押し付けながら、息を吸う。
俺は、俺である。 とりあえず見失うことがないように定めてから口を開く。
「俺は確かに、この世界に産まれたはずだ」
「……あ、このまま変なことするわけではないんですね」
変なこと?
少し首を傾げるとエルは取り繕うように俺の頭をゴシゴシと撫でる。
「んぅ、アキさんには、お父さんもレイさんもいますし、どう見ても血の繋がりはあるので、それは間違いないと思います」
「だが、俺には何故か日本の記憶がある……らしい」
今の今まで気が付いていなかったが、あるいは存在していなかったのか、俺の中には日本の風景などが多くある。
エルから離れて、紙とペンを取り出す。
「……とりあえず、思いつく限りの風景を書くから、エルはそれが正しいかどうか教えてくれ」
「はい、分かりました……」
エルも困惑しているのか、少し浮かない声が聞こえた。
手先が器用で助かった。 ペンを紙の上に走らせて風景を何枚も描いていく。
「日本の風景ですね。 ……多分、わりと現代の風景だと思います」
「そうか」
思いつく限り書き続けると、エルが一枚の絵を持って止まる。
「……アキさん。 この絵……」
エルは手を震わせながら、俺と絵を見比べる。
「よく見たら、これも、こっちも……」
「何かおかしなところがあったのか?」
期待を込めて言うと、エルは頷く。 良かった、やっぱり……俺に日本の記憶があるのは勘違いだったんだ。
ただエルの言葉の表現が巧すぎて風景を知ることが出来ただけで。
エルは信じられないようなものを見たかのように俺を見詰めた。
「あり得ない、です。 こんなの」
日本にはあり得ない物が書かれていたのか。 何にせよ、安心だ。
そう思っていた俺の耳にあり得ない言葉が聞こえた。
「なんで……僕の家の絵を描けるんですか……。 だって、アキさんが……いや、日本人の記憶があったとしてもこんなのおかしいですよ、どうなって」
「……は?」
思わず間抜けな声が漏れ出る。
エルの家……? エルの手から受け取ってそれを見る。 こことは大分違う建築様式と間取りで、よく分からない物も多くあり、よく分からないが、エルはこんなところに住んでいたのか。
「……俺のエルへの愛が、奇跡を起こした?」
「えっ、そういうことなんですか? すごい」
あり得ないとは思うが、この奇跡を起こせそうなぐらい溢れてくる愛以外には心当たりはない。
やはり愛の仕業だったのか。
「……? 本当に、なんで……アキさんが僕の家を知って……」
続けて風景を描いて行くが、やはりどれもこれもエルの家の周辺らしく、訝しげに俺を見た。
「……能力?」
「グラウのように能力に目覚めたってことか?」
流石に時間的にあり得ないだろう。 幾ら年がら年中エルのことを考えているとしても、所詮は会って一年も経っていない。
何十年と戦い続けたグラウと比べると、年季が劣っていて能力が身につくとは思えない。
だが、それ以外にあり得ないのも分かる。
「じゃあ、これはエルの記憶なのか?」
「……多分ですけど」
とりあえず、記憶の正体が分かって落ち着く。 しかし、エルは月城の元に行こうとせずに俺の身体に抱き付いてそこに収まる。
「……まだアキさんが不安なので、今日はアキさんと一緒にいようと思います」
「……悪い」
「月城さんも、ここの生活が気に入ってないわけでもないで、別に大丈夫だと思います。
旅立つのは遅れますが、元々急ぎすぎも良くないと思っていたので」
気を使われているのは分かるが、今はこの気遣いに感謝して甘えよう。
抱きしめられて、頭を撫でられる。 そのまま寝転がりエルのふとももを枕にする。
「甘えん坊ですね」
「……いいだろ、別に」
「んー、まぁ可愛いんでいいですけど」
エルに可愛いと言われるのはすごく癪である。
ゴロゴロとふとももの上を転がってから、息を吐き出す。 本当に能力に目覚めたのだろうか。
「まぁ、エルの記憶なら問題ないか」
そう言ってから、裏返ってエルのふとももに顔を埋めた。




