あまりに我儘なことを一つ⑥
エルの質問に答え終えた頃には、もう日も傾いている。
このまま街に寄らずに戻れば雪を布団にして寝ることになりそうだ。
もう一泊、あの街でするしかなさそうだ。
「アキさん。 日本に来たら、お母さんと仲良くしてくださいね」
少ししてから「仲良くしすぎても嫌ですけど」と付け足して、俺に笑いかけた。
「いや……エルの母親と仲良くするのは……嫌だ」
首を横に振って、エルの願いを叶えないという。 それは予想していなかったのか、エルは少し止まり俺を見る。
エルの願いは全て叶えてやりたい。 その想いは変わらずにある。 けれど、どうしてもエルの母親は嫌いだ。
エルの小さな時を知っている、という浅はかな嫉妬心も当然にあるが、それ以上に俺はその人を許すことが出来ていない。
「エルは……樹ではないだろう。 エルを傷付ける奴とは仲良く出来ない。 エルが嫌がるだろうから危害は加えないが、仲良くするのも嫌だ」
想像するだけで不快で顔を顰めると、エルは顔をうつむかせて首を横に振った。
「その、お母さんは……アキさんが思ってる人じゃないんです」
「……エルを違う者として扱っている」
「んぅ……そうですけど。 その、違うんです。
お母さんは悪くなくて」
「……いい。 聞きたくない。
仲良く出来るように善処するから、それでいいだろ」
エルは泣きそうになりながら、俺の腹に顔を埋めた。
「すみません。 我儘ばかり聞いてもらって」
「ああ」
エルに素っ気ない態度を見せてしまったことを後悔するが、その態度を訂正するような気分にはなれなかった。
ほんの少しだけ、心がささくれ立つのが分かる。
今まで気にしたことのない疑惑が生まれる。
「エルは……そんなに母親のことが好きなのか」
エルは控えめに頷いた。
「……はい」
あぁ、そうなのか。 そうらしい。
喉の奥から血の味がする。 何度も言葉を発せようとして開け閉めされる口の中の唾液が少し泡立つ。 結局、何も言えずに黙り込んだ。
俺の一番はエルだった。 けれども、エルの一番は俺ではなく母親だった。
ただそれだけのことで、それだけの差が言葉に言い表すことも出来ないような絶望感を俺に与えた。
望みすぎていただけだ。 一番好きな人に、一番に思ってもらえるなんて都合のいい妄想で、好かれているだけで十分だったのではないだろうか。
満ち足りている。 そう思おうとしても、無理だった。
今まで気がついたことがなかっただけで、今何かが変わったわけではない。
何も変わってはない。 そう思おうとするが、そんな風には思うことは出来なかった。
エルと出会うまでに知らなかった、人を愛するということ。 今までは喜びばかりだったその気持ちが酷く痛い。
あまり話が盛り上がることはなかった。 大切な聞き逃してはならないはずのエルの言葉も上の空に消えていき、街に戻って同じ宿に戻って、金を払う。
荷物を下すが、肩が軽くなった感覚はない。 むしろ、辛い気持ちだけが残って吐き出してしまいそうだ。
心地好さそうにベッドに寝転んだエルを見る。 その白魚のような肌をした首に目が向かう。
その首を触って、軽く掴めばエルは死ぬだろう。 もしもエルが勇者ではなく死んでも日本に戻るだけなのではなければ、それを実行してしまったことだ。
愛している、というよりも、もっとはるかに薄暗い気分の悪い感情だった。
俺だけの物にしたい。 他の誰にも奪われたくない。 それがエルを育てた親であろうが何の関係もなく、ただ思うだけで後ろめたさを感じる悪の感情である。
頭を冷やそう。 いや、少なくともエルに対して湧き上がる殺意を消せるまでは離れていよう。
殺しても俺のものにはならない。 俺だけ置いて母親の元に向かうだけだ。
「エル、少し風呂に浸かってくる」
そういうのが都合がいい。 返事を待たずに昨日も浸かった風呂に向かう。
昨日はペンギンもロトもいた風呂場は、最初から大勢が入ることを想定されていただけあって、なかなかに広く寂しい。
掛け湯をして、軽く身体を洗う。
ゆっくりと濁った湯に浸かる。 熱いはずのお湯も、どこか身体の感覚が遠いようで、実際とは離れたような生々しさのない心地だ。
肉体や動きは精神に引っ張られる。 当然のことだが、それが深く理解出来た。
「……あぁ、熱いな」
そうつぶやいて見るが誰も何も返さない。 一人だけの風呂場に空虚さだけが残ってしまう。
グラウは死んで、俺の母親の元に向かった。 ロトやリアナは遠くの地を目指して旅だった。 何より、エルの心は故郷の母親を思っている。
あまりに辛かった。 寂しく、何もかもが足りないような気分だ。
愛されたい。 エルに愛されたい。 一番に愛されたい。
そんな願いはエルに届くことはなく、風呂場の水をぱちゃぱちゃと鳴らしてみる。
そんなことでは気を紛らわせることなど出来ずに、面倒になって止めた。
しばらく浸かっていると、脱衣所の方から人がやってくる。 そろそろ出るかと思いながら、溜め息を吐き出した。
何故か、大好きなエルには会いたくないらしい。 人間は意味が分からない。
昔のように、単純にエルを触りたいや抱き締めたいなんて欲望だけだったら、このような気持ちにはならないのだろうか。
入ってきた者を少し見ると、昨日みた男だった。 確かクロだったか、ペンギンの飼い主だ。 ペンギンはいないようだが。
「アキレアだったか」
「……ああ」
軽く頷く。
「大丈夫か?」
そう言われて身体を見回すが、怪我は見当たらない。 何かあるとすれば表情だろうか。 そんなよく知りもしない奴に心配されるほどに酷い顔をしているのか。
「大丈夫では、ないだろうな」
そんな顔でエルの元に戻れば心配されてしまうのは間違いない。 決してエルと一緒にいたくないわけではないが、今は少し難しそうだ。
「昨日よりも、酷い面をしているな」
嫌なことは続くものだから、仕方ないのかもしれない。
「耐え難いことが続いて」
少し遠くに浸かったクロを見て、ほんの少し羨ましく思えた。 なんとなく、悩みがなさそうに見える。
「そうか。 ……お前、腕は立つんだよな?」
「並大抵よりかは強いとは思うが。 どうかした?」
「気晴らしに、俺の仕事を手伝ってみないか?」
クロの仕事。 昨日の自己紹介で言っていたような気がするが、頭が働かなくてよく思い出せない。
「確か……傭兵だったか?」
「ああ、嫌なことも、何かを殴ってりゃスッキリするもんだ」
暴力的だな。 まぁ、確かに魔物を攻撃していれば気も晴れる気がする。 何より、エルと少し離れられるのが良い。
「相手が人なら無理だが」
人殺しは、相手が悪人であったとしてもエルが嫌がる。
だからするつもりはない。
「ああ、魔物が相手だ。 いや、正確には魔物ではないが……」
魔物ではない魔物。その正体は薄らとではあるが、思い至る。
「竜か。 本物の」
竜には本物の生物と、紛い物の魔物がいる。
それは他の生物も変わらないが、竜は他の生物とは大きく違う点がある。
他の生物を模した魔物の方が強いが、竜だけは紛い物よりも本物の竜の方が強い。 ……らしい。
正直な話、竜はエルとグラウと共に戦った赤竜しか戦ったこともなければほとんど興味もないので知りはしないので、本当かは不明だが。
あれより強い生物がいて堪るかとも思う。
「ああ、おそらく一人でも狩れるが、前衛がいなくてな」
異国で知り合いもいないから俺を誘ったのか。 まぁ、気晴らしには丁度良さそうだ。
俺はクロの言葉に頷いた。 エルの思いに背いて戦うことになるが、もう良いだろう。




