馬車
乱れる息、固い地面を乱雑に靴で踏んで鳴る音、不満気に漏れ出る声。
少女は大袈裟に息を乱しながら馬車の停まっているところに必死で走るが、このままでは時間に間に合わないのは明白だ。
「ちょ、っと、待ってくだ、さい」
絶対に間に合わない速さなのにまだ少女からすれば速いらしく、速さを緩めるように懇願されるがそういうわけにもいかない。
俺たちが乗るのは、十数台の馬車で共に目的地に向かう形態の馬車で、護衛を雇うための代金が減る分だけ安めの値段で乗れる上に、二人で一つの馬車を使えるため他の乗客を気にしなくても良いという都合のいいプランのものだ。
問題点は遅れても時間通りに出発するということだ。 それに安めとは言えど結構な値段がするために、遅れるわけにはいかない。
仕方ない。 後で文句を言われる覚悟を決めて、走っている少女の腹を持ち、肩に担ぐ。
「えっ、あっ、ちょっと、降ろしてください! これ街中だと恥ずかし……!」
少女の声は無視して、抑えていたスピードを上げて道を疾走する。
担がれているとどうにも揺れるらしく、その上に恥ずかしいという理由で嫌がられるが非常事態なので仕方ないだろう。
ぐんぐんと速度を上げ、余裕を持って馬車の停まっている場所まで到着できた。
「間に合ったな」
壁に手を付きながらぐったりとどこか遠くを見ている少女に、少し笑いながら声をかける。
「アキさんは、鬼畜、です」
少女から新しくもらった名前を聞いて、少し目を逸らす。 慣れていないせいか変に気恥ずかしい。
アキレア。 そういう花が少女の故郷にはあるらしい。
その花の名の由来や花言葉というものがぴったりだと言われた。 その内容は聞いていないが、気恥ずかしくなりそうなので聞く気にはならない。
少女も自分で付けておきながらそれが恥ずかしいらしく、略してアキと呼ぶことにしたぐらいだ。
「お前が足が遅いのが悪い」
馬車の運営している代表と、軽い顔合わせをしてから、まだ文句を言っている少女に一言言って、世話になる御者に二人で挨拶をする。
「よ、よろしく、お願い……します」
「ああ、よろしく」
まだ発車時刻ではないが、荷物も少しはあり少女も俺で酔っていて気持ち悪そうにしているので早く座らせてやりたい。
安かった割にいい作りになっている馬車の中に入り込み、少女は荷物を丁寧に置いてすぐに椅子の上で横になった。
「んぅ、アキさんのせいで気持ち悪いです」
「それはお前の足と朝が遅いのが悪い」
「朝遅いのは、昨晩アキさんがなかなか寝かせてくれなかったから……」
「それすげえ外聞悪いから止めろ」
不思議そうに小首を傾げる少女に向かって分かりやすくため息を吐いてやる。
少女の頭を退かして椅子に座る。 脚のところに頭が乗ってきて少し重たい。
「それに、寝れなかったのも元を辿ればお前がだな」
名前をつけるという約束を果たすために昨晩は遅くまで起きていた。
「それは、知り合いの名前と被ってしまったんですから仕方ないじゃないですか」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを下から向けてくる。
昨日、旅の用意で疲れていたせいで何故か上がっていたテンションのまま少女に考えた名前を発表した。 その時のことを思い出すと顔に血が上ってくる。
「「俺が花なら、お前は太陽のような存在だから」……でしたっけ?」
少女に付けようとした名前は、太陽の女神の名前を拝借した物だった。 多少珍しくはあるが、あり得ないような名前でもない。
問題は少女に語った名前の理由だ。
その時の俺は酒場の主人に呑ませられた酒の影響で羞恥心やらが働いていなかった。 そのせいで、まるで口説いているかのような恥ずかしい言葉をペラペラと吐き出したのだ。
「忘れろ。 本気で」
「いひひ、ちょっと難しいです」
その後で、また似たような口説き文句と共に新しい名前を少女に付けてから寝たのだが。 朝思い出してから、あまりの羞恥に耐えられず一人で暴れているところを見られてからずっとからかわれている。
今も昨晩のテンションでいられたらどれほど楽だっただろうか。 からかわれるどころか歯が浮くような台詞で少女をからかうことも出来たはずだ。
いや、それは黒歴史を量産してしまうだけか。
「……もう酒は飲まん」
昔飲んだときはあまり変わらなかった気がするが、度数が高いのを出されたのだろう。 やっぱりあの酒場の主人はクソ親父だ。
「僕としては、飲んでくれたら嬉しいですよ」
いひひ、と笑う少女の顔を見るとまたため息が漏れ出る。
そんな話をしていると、御者から声をかけられる。
「出発するよ」
俺が返事をするより前に馬車が動き始める。
ガタン、と一度大きく揺れてから、小さくかたんかたんと揺れながら進んでいく。
あまり広くない馬車の中で、黙りこくった少女の顔を見る。
「眠いなら、寝てていいぞ」
「違いますよ。 いや、眠たいのは眠たいんですけど」
昔乗った馬車よりも作りが荒いのか、小さな揺れが少し気になる。
少し馬車から外を見えるようにしてみれば、ゆっくりと進んでいて歩くのとあまり変わりのない速さだ。
「アキさん。 僕の名前、呼んでくれませんか?」
「嫌だ」
「お願い、します」
またからかうつもりかと思うが、どっちにしろからかわれるならばいいかと思って口を開く。
「……エル」
言うと同時に少女の目から逃れるように目を逸らす。
太陽の女神の名前が断られてしまってから、再び必死で考えた名前だ。
この世界を作った神が、世界に付けた名前。 世界の名前、エルトから取った。
名前の響き事態はそんなに珍しいへんな名前ではないが、それでも……あまりに付けた理由が恥ずかしい。
「いひひ、もう一回言ってください」
酔っていたから口走れた言葉を名前にしてしまったのは完全に失敗だ。 過去に戻れるなら、必死で魔法の練習をしてる俺を殴るよりも前に昨晩の俺を殴りに行きたいぐらいだ。
「うるせえ。 寝るなら寝とけ」
荷物をすべて入れた鞄から毛布を取り出して少女に、エルに掛ける。 不満げな顔をしてこちらを睨むが、言いたくないものは言いたくないんだ。
「おやすみなさい。 アキさん」
寂しそうな顔を向けて、エルは目を閉じる。
「あー、くそ。
おやすみ、エル」
どうしてもこいつには勝てない。 信頼してしまった弱みか、何でも言うことを聞いてしまいそうになる。
悔しい思いをしながらもエルの寝顔を見ていると、釣られて俺もうつらうつらと眠気が出てきてしまう。
ここで寝ると夜中まで目が覚めてしまうと分かっているが、何もすることがなく座っているといつの間にか寝入ってしまった。