逃げはしない。 そう決めたから⑥
人は弱い。 だからこそ俺は強く、だからこそ俺は人を辞めている。
四足での跳躍はもう一日中続けていて、小慣れたものだ。 四足と二足は両方に利点があり、欠点も抱えている。
この巨人から逃れるのみであれば四足での走行が優れているために俺はひたすら跳ね続けた。
靴は擦り切れて、靴底がなくなった時点で投げ捨てたために裸足で、服も動きに耐えられずに敗れたせいでボロボロに崩れている。 獣じみている。
獣だとしても、俺は自我を確かに持ち、道具になれるような忠誠心がある。 獣であり、魔物であり、道具であるべきなのが俺だ。 戦場においてはそれ以上は必要がない。
二日以上絶え間なく治癒魔法が飛んでくるが、エルは大丈夫なのだろうか。 なんて疑問は捨て置く。 大丈夫だから治癒魔法が来るんだ。
巨人の攻撃が一瞬止む、俺から興味を失ったのかもしれないと判断し、四足を二足に戻し、切っ先がなくなった槍を構えて突進する。
切れ味も何もないただの棒での突く。 それでも硬い岩の身体を削ることが出来るのは、エルの治癒魔法によって少しは身体の調子がマシになっているからだろう。
腐り始めた魔物の血肉を喰らい、自身の太ももを指で抉って痛みで眠気を覚ます。 その痛みもすぐに治癒魔法で修復される。
避けて、喰って、自傷する。 それを繰り返すことで、意識を保ち、血がなくなることに対処して、生にしがみつけていた。
あとどれほど……避け続ければいいのか。
◆◆◆◆◆
避けることは、不可能か。
土塊が巨人の拳に突き立った地面から吹き飛び、俺の身体にぶつかり、弾け飛ぶように俺は後方に行った。
戦闘、否、足止めから四日目。 未だ途切れることのない治癒魔法が即座に俺を癒し始める。
今までの回復速度から、全快まではあと二十分程か。
もう既に一切の武器はなく、削り取った巨人の岩の破片を持ち、それを投擲する。
既に高みへと朽ちゆく刃を使えるだけの精彩さはなく、乱雑にぶつけるだけだ。 この巨人もそれに、俺が巨人に傷を付けるのも不可能になったことに気がつき始めたのか、小さな傷が身体中に刻まれた身体を動かした。
一歩。 攻撃や俺を追うためではなく……動いた。 二歩目、三歩目と、巨人は俺に興味を失ったかのように動き始めた。
「おい、待てよ。 お前の相手は、俺だろ」
巨人を追いかけて、その足に手に持った岩を使って殴りつけるが、ほとんど傷もつかない。 俺の手が痺れるだけだ。
「おい! 聞いてんのか! 逃げるのか!」
ふざけるな! 俺は逃げるつもり満々だったが、お前は逃げてはいけないだろうが。
エルに、追いつかれる。 そうすれば俺のいないあいつらでは、太刀打ちも足止めも出来ない。 責任感の強いエルは、素直に渡さないかもしれない。 渡したとしても、相手は魔物だ。 勇者を狙うのは間違いない。
ーー死ね。 死ね。
「うるせえんだよ! 遠くから愚痴愚痴命令だけ言いやがって! てめえが死ね!」
吠え声と共に口から血液が漏れ出て、身体から力が抜ける。 眠気が襲ってくる。 睡眠ではなく、失神、あるいは気絶……。 するわけにはいかず、口の中を噛み切って無理矢理起きようとする。
だが、噛み切れるほどの力が入らない。
待てよ。 待てよ。 巨人、魔物、待ってくれよ。 頼むから、そっちには……大切な人がいるんだ。
「待て、待って、待って頼む、本当に……」
俺はどうでもいいから、エルは、頼むから、見逃して……。 無理矢理、動く腹の筋肉だけで這って追おうとしたら、生臭い空気が、生暖かい空気が腹に感じる。
薄い、ほんの少しの痛みが腹に走る。
目を開けることすら出来ないが、俺を食おうとしている魔物が何かは、聞いて分かった。
「グギャギャ」と気持ちの悪い、感情を思わせないただの笑い声。 ゴブリン。
獲物が弱るまで遠巻きで見守り、獲物が弱ったら襲いにくるという習性があったな。 エルの言葉を思い出す。
ああなるほど、賢い魔物だ。 文字通り指一つ碌に動かすことも出来ない俺は、ただの餌だろう。
守りたい。 守りたい。 守らせてくれ。 本当にこの世に神がいるなら、エルを守らせてくれたら、永久に仕えて、不滅の信仰を抱いてやってもいいから。
魔王でも、俺を喰っているゴブリンでも、逃げた巨人でも、殺してやるから。 だから、今、俺に起き上がるだけの力を……。
ーーアキさん。 大好きですよ。
そんな言葉を思い出しながら、照れた笑顔を瞼の裏に見ながら、柔からな肢体を知って、愛する喜びと愛される嬉しさを知りながら死ねる俺は、きっと幸せなのだろう。
だが、エルを、幸せなんてどうでもいいからエルを、エルを、エルをエルエルエル……。 雨夜 樹。 彼女をその名前から、解放させてやりたかった。
◆◆◆◆◆
俺は死にたかった。 愛していた少女の死から逃げ出して……何年経ったことか。
少女の願いである役目すら放棄し、酒を飲み散らかしながら……死に場所を探していた。
それでも、俺は少女と共に眠ることさえ許されていなかった。 同じ墓に入ることどころ、死ねば……違う世界に戻るだけだ。
「君と同じ墓に入りたい」
少女を見捨てた言葉を発した。 決意も新たに立ち上がろうとするが、それが決意なのか逃避なのかも分からずにゆっくりと腰を下ろした。
少女が褒めた黒髪は、既に肩を超えて背中に近いほど伸びきっていた。 その上に薄汚れていたために、家無しと思われても仕方のないような格好だ。
そんな中、この酒場は居心地がいい。 金さえ払えば飯も酒も出てきて、とやかく言われることもない。
泥酔したとしても、せいぜいが財布をすられる程度だ。
すられる前に店主に金を馬鹿みたいに渡して、酒を持って来いと伝える。
少女は、今の俺を見たらどう思うのだろうか。 そんな考えを忘れたく、一瞬でも見捨てられる姿を考えたくもなく、もっと呆れられて、失望されるような醜態を晒し続ける。
「君と同じ墓に入りたい」
繰り返し呟いてみても、立ち上がる気力すら湧かない。
今ここで死ねば、楽になる。 もううろ覚えになってきた勉強は追いつくのが大変だろう。
友達の顔も忘れた。 代わりに、殺しと騙し、暴力を覚えて、痛みに慣れた。
だが、そんなのもまた数年したら忘れられるだろう。
死ねば、楽になる。 帰れば、楽になる。
そう思うたびに、少女を風化させていくことを望む自分が酷く汚く憎く、殺意すら湧き上がる。
少女と最後までいたら、もっと違ったのだろうか。 あの時逃げなければ……。
腐っている。 結局は自分本位で、少女の気持ちを考えられていなかっただけだ。 好きだと告げる、それを行うだけの権利は俺にはなかった。 同じ墓に入る権利も、ないだろう。
少女。 好きだ。 愛している。 そんな言葉はあまりに軽く醜く、恥知らずだ。
酒を煽って、飲み干して、飲み干して、飲み干して。 意識すらままならず、それが心地よい、
酒を飲み、意識を失う瞬間だけ寝ても醒めても考えている少女の姿をその一瞬だけは忘れられる。
忘れたく……ないのに、ただ心地よかった。
◆◆◆◆◆
目を開ける。 体を少し動かして、生きていることを確認する。
「大丈夫、ッスか?」
綺麗な少女が、エルよりも下手な敬語で俺に尋ねかけた。 見覚えのある少女だが、どうでも良い。
立ち上がって部屋の中に置かれていた直刀の短剣を手に取り、部屋の窓を蹴り割った。
「な、何やってるんスか!」
「いかないと」
駆け出した。 もう後悔はしたくなかった。




