逃避、その意味、その価値、その結果①
雨夜 樹。 そう名乗っていた少女は、善人ではあったとしても、いい人と呼べるような者ではなかった。
人より優しく、痛みに強く、気高く、正義感に溢れ、地道な努力を行い、責任を果たそうとする。 そんな少女には一つ、決定的な、致命的な欠点があった。
嫌悪感。 悪人を見たら当然嫌悪する。 善人を見ても、欠点を見つけて嫌悪する。
行き過ぎた正義感からくるような嫌悪ではなく、これが少女の本質であり、根幹であり、その全てだった。
友達がいないと少女は語った。 その理由は、人見知りだからもある。 人が怖いというのもある。 身体が同年代に比べて遥かに幼く、その容姿故にもある。
だが、何よりも先にくるものが嫌悪。
人を嫌うのが少女だった。
自身にすら牙を剥く嫌悪感は少女を善人に仕立てあげた。 人より優しく、痛みに強く、気高く、正義感に溢れ、地道な努力を行い、責任を果たそうとする。 どれもこれも、嫌悪を自分に向かないようにするためのお飾りだった。
だが、そんなお飾りは通用するわけがない。 少女を見ている少女は、華美な飾りの中にいるのだから、いくら華やかにして誤魔化そうとも欺けるわけもない。
歪んでいる。 間違っている。
その嫌悪感を正そうとする感情すら、嫌悪の餌となる。 嫌悪を嫌悪する。 それもまた……延々と続く。
自分の世界とは異なる世界にきても少女は変わらなかった。 やはりどれもこれもを嫌悪する。
その嫌悪を分かりやすく形作った能力がひたすら憎かった。
そんな少女は恋をした。 無償で自分を助けてくれる少年で、その恋心も嫌悪した。 その少年も自身の幼い姿に欲情したりしているところを見て、嫌悪する。
だけれど、嫌悪しながらも喜びが生まれる。
幼く女性らしさの欠ける情けない身体。 少年は他の女性らしい起伏の富んだ女性の身体には興味を示さず、自分ばかりを見ている。 浅ましく情欲を自分に向ける少年に嫌悪しながらも、嬉しく思った。
間違ってばかりの少年を見て、嫌悪しながらも、どんどんと恋慕の情が募っていく。 色々な壁があり、山があって谷があって、やっと少年と恋人になることが出来た。
いや、山と谷があったから恋人になれたのだろう。 少女と少年の身長差を初めとした様々な差を埋めるにはそれぐらいのものが必要だ。
そして、今、少女は何者よりも少年を嫌悪している。
友人の少女の死が受け入れられずに、友人を置いて、寂しい思いをさせて逃げ出した。
悪い人ならもっといただろう。 低俗な人間なら他にもいるだろう。 しかし、少女は少年を一番深く嫌った。
好意ゆえに、正しくあってほしいという期待ゆえに……愛しさ余って、憎しみが強く漏れ出した。
何者よりも嫌っていて、何者よりも好いている。
矛盾はその双方をより強固なものにしていく。
好意ゆえに期待が失望を高めて、嫌っているが故に少年をよく見てよく思い出して恋心と愛情を深める。
自身すら嫌悪し続けるその歪な本質が、矛盾の塊を生み出した。
好きで嫌いで堪らなく、少年を愛して憎んだ。
友人の死からくる、精神の大きな不安定もあり、少女が壊れていく音がした。
◆◆◆◆◆
雨の夜は明け晴れて、濡れた身体は冷え切っている。
やっと理解した少女の死。 心だけは救えたかもしれないのに逃げた罪悪が残る。
深く刻んだ罪悪を、胸に手を当てて感じ取る。
「すまない」
いるわけもない少女に謝った。 忘れたくない、風化させたくない。
君を忘れないから、許してほしい。
濡れた服が渇きり、村にいる勇者が起き始めた。
それに合わせてエルが待っている、待っていないかもしれない家に戻った。
扉を開けて、閉める。 その動作の後にたどたどしく「おかえりなさい」という言葉に酷い安堵を覚える。
安心の元に少女を忘れるぐらいならば、と、安堵を捨てるために返事をせずに寝室に入り込んだ。
「ごめんなさい。 八つ当たりして……」
八つ当たりではないだろう。 俺が逃げた卑怯者なのも、最低の屑なのも何もかもが正しかった。
少女と出会う前の一ヶ月で、俺は人になった。 俺の人格は正しく臆病者の屑で、否定のしようがないほどエルの言葉通りだった。
「いや……事実だ」
それだけ言ってから立てかけてあった剣を手に取る。 そして家から出て行く。
「俺は……エルの、君の物になる。 好きに使え、魔王でもなんでも……殺してやる」
人だから逃げるのだ。 そう言い訳してから、結局はただ深く考えるのが恐ろしくて逃げ出しているだけだ。
だが、もう逃げない。
「……」
エルの返事を聞く前に家の前に出て素振りを始める。 高みへと朽ちゆく刃。
ブレる心でも、研ぎ澄まし朽ちゆかせていくことで鋭いものへと変質させていく。
「高みへと」あるべき姿へとなるために「朽ちゆく」人を捨てて「刃」となる。
やっと技の意味が分かる。 グラウという「刃」も理解する。
人格など朽ちればいい。 高みへと、朽ちゆくのが刃だ。
一振り、空気を切り裂いた感覚すらない、肉や骨、関節による威力の減衰も、自身の肉体という枷を取り外したようなただ鋭いだけの剣。
普段感じていた疲労もない。
「剣はもう要らないか」
鉄でも木剣で斬れるという確信を得る。 なるほど、重い剣より木剣の方が優れている。
剣を置いて、家に戻って余っていた木剣を取り出す。 一振り、二振り、慣らしてみると確かに使いやすく、より疲労も少ない。
「二式、三式……」
連続の打撃。 それすらも容易に可能となり、それすらも空虚である。 何があっても逃げれば終わりだ。
木剣を振るい終えて、家に戻る。
「……やはり、戻りましょう。
月城さんにこの村のことを知らせるべきです。
その後、ロトさんを追いましょう。 ……行き先は分かっていますから、絵本のあるロトさん達よりも僕達の方が早く動けるので追いつけるはずです」
魔王を倒す。 それが勇者の呼ばれた理由。
この村にいるとどうにもその意識が薄れるのだが、薄れを感じさせない瞳で、エルはただまっすぐに俺を見て言った。
逃避行。 そんな言葉が頭をよぎった。
「ああ」
おそらくエルも……。 逃げたかったのだろう。
まとめられていた荷物を傍らに置いて、エルは告げた。
「行きましょう」
だから俺は返した。 必要もない返事を。
「ああ」
そう言ってから荷物に木剣を重ねて、全ての荷物を背負う。
「行きましょう」
「ああ」
繰り返す。 ここには未練がある。 エルは知らぬ国の知らぬ世界の人間よりかは心の開きやすい人間達だろう。 臆病者の集まりだと思っていたが、それでも親切で悪い奴らではなかった。
自身の家で仕事をしていた流水に話を一方的に告げて、止める流水を振り切って、外に出る。
「神聖浄化……それに、まじない術……。りーちゃん……」
魔法と勇者の能力は合わせて扱うことが出来る。 似た理屈のまじない術も同じように。
「この壁に」
エルは村の外壁に手を当てて、魔力を全て込める。
神聖浄化とエルの願いを込めた、この世界にはない、まじない術とも能力ともとれないそれが発動する。
外壁が強く、けれども淡く、輝いた。
「この村に、幸福と平和を」
目をすっと閉じて、胸の中心で手を組む。 まるで聖女のように祈りを捧げたあと。 術の名を言った。
「…………エリクシル」
それがどれほど意味のある行いなのかは分からない。 それに、あまりにひどい名前だった。
「行きましょう。 ルトさん」
「ああ……。 樹……」
エルは……いや、樹はきっと、大嫌いなのだろう。
嫌悪しているのだろう。
自分を。




