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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

R市市警事件目録

R市市警事件目録 Loony

作者: 手羽サキチ

※※※※※※※※※※

注意書きです。

この小説には殺人描写や残酷な描写が含まれますのでR―15とさせていただきます。

読了後に気分を害しても作者は一切の責任を負いません

また、この小説はすべてフィクションであり、登場する団体名や人物は架空のものです

※※※※※※※※※※

挿絵(By みてみん)

11月14日

電話機から印刷された白いファックス用紙がやや狭いオフィスの床に散乱していた。紙には何も書かれていない。数枚の紙が赤く染まっていた。瓶から零れた赤色のカラーインクの様にも見えるが、これは血液だ。小さなオフィスの中央では白いセーターと黒いスカートを身に付けた一人の若い女性が死んでいた。背中から衣服の白い繊維に血液がにじみ出ていた。顔色は土気色で唇は紫色だ。貌は整い、美しい。腰まである長い黒髪が広がり、乱れていた。今にも彼女は目を醒まし、起き上がりそうにも見える。しかし、彼女が目を開く朝はもう二度と訪れない。女性は白いファクシミリの紙に埋もれている。朝の光が窓から差し込み、白いファクシミリ用紙を照らしている。朝のオフィスの、異様で凄惨な光景だ。女性の周辺には数名の刑事と数名の青い制服を着た鑑識官が集まっていた。

「被害者はこの会社の従業員です。氏名はジェニー。個人ナンバーE81325、年齢は27歳。死因はおそらく、腹部の傷による失血死です。」

中年の鑑識官が手短に説明した。A国では国民一人一人に個人ナンバーが存在し、管理されている。個人ナンバーは出生届が出された時点で一人一人に割り当てられる。

「ひどい…」

新人刑事のシズカは呟き、口を手で覆った。交通課から刑事課に異動して日が浅いシズカは遺体に対面することにまだ慣れていない。シズカは全身の血液が下がる錯覚を覚え、少し地面が揺れるような目眩を感じた。

「おいおい、それじゃ話にならないぜ。しっかりしろ。」

先輩刑事のレオンがシズカをたしなめた。レオンの言う通りだ。刑事である自分が遺体から目を背けてどうするのだ。気持ちを強く持たなくてはならない。

「すみません。気を付けます。」

刑事たちの上司であるリチャード警部が顎に手を当てた。リチャード警部はシズカが所属している刑事課のチームを率いている。

「このファックス用紙はこのオフィスの備品です。…現段階では断定はできませんが、この傷口から考えると凶器の形状は10月15日の女子大生殺人事件のものと類似している可能性が高いです。」

鑑識官が報告をした。

「分かった。詳細は検死の結果を待とう。」

先月にも同じような手口で国立大学の22歳の女子大生だったレジーナが帰宅途中のA区の公園で刺殺されていた。レジーナは卒業を控え、論文に取りかかっていた。その矢先、突然命を奪われた。遺体に暴行の形跡は見られなかった点も共通している。先月の事件の犯人を特定し、逮捕していればジェニーは殺されずに済んだかもしれない。シズカはやりきれない悔しい感情を押さえられなかった。


11月15日

R市市警本部の第二会議室に刑事課の数人の捜査官が集められた。第二会議室には二人で座れる長机が並べられており、捜査員達は椅子に腰掛けていた。レオンは一番後ろの机に座った。リチャード警部が部屋に入り、ホワイトボードの前に立ち、机の上でパソコンを開き、スクリーンを下した。

「昨日の女性会社員殺害事件の検死の結果が出た。死亡推定時刻は昨日11月13日水曜日の22時頃だ。死因は腹部の刺傷による失血死。大動脈を切断されている。凶器の形状は刃渡り20センチのナイフのような鋭利なものだ。そして、凶器形状はA国国内やその周辺で流通している刃物の形状と一致しなかった。背中から凶器で一突きされ、死んでいる。現場に残されていたファックス用紙はおそらく犯人が意図的にばらまいたものだ。現場に残されたDNAが10月15日の女子大生刺殺事件のものと一致した。」

刑事たちがどよめいた。DNAが一致すれば間違いなく同一犯だ。リチャード警部はスクリーンに被害者の刺傷を写した。後背部には一本の深い傷跡が刻まれていた。傷口にはえぐれたり、何度も刺したりしたような痕跡は見られない。レオンは今まで数件の殺人事件を担当したが、刺殺の場合は何度も切りつける、切りつける前に首を絞める、鈍器で殴る等遺体は激しく損傷されている場合が多かった。ファックス用紙を意図的にばらまいたという点は不気味である。一体、なんのために紙をばらまいたのだろう。犯罪者の行動には一貫性がない。普通の人間から見て不可解な行動を取るのは決して珍しくない。そして、凶器の形状が一致しない以上販売ルートから犯人を割り出すことは難しいだろう。

「犯行の手口はナイフのような凶器で後ろから一突き、暴行の形跡は見られない。凶器の形状は先月10月15日の女子大生殺害事件のものに酷似している。そして、何よりも現場にのこされたDNAが一致したことから本部はこの二つの事件を連続婦女殺人事件と考え、捜査本部を設置することを決定した。二人の被害者の共通項は20代の若い女性であること以外確認できていない。犯人を野放しにすれば次の犠牲者が出る可能性もある。スパイクとフィリップ、オリバーは被害者の会社に、ラッセル、トム、ジャックはそこから得た情報を基に事件の夜に会社周辺に居た人間に、レオン、シズカは被害者の両親へそれぞれ聞き取り調査を行ってくれ。」

確かに二人の被害者の写真を見たが、レジーナは身長が150㎝ほどで、短い金髪が特徴的で顔のつくりはどちらかというと地味な方だ。ジェニーは身長が170㎝以上あり、長い黒髪で目や口が大きく顔のつくりが派手だ。殺害された時の服装はレジーナがジーンズのズボンと黄色のパーカーだった。ジェニーは白いセーターと黒いスカートだ。写真を見た限り二人の共通点は確かに妙齢の女性であること以外、レオンは思いつかなかった。


11月16日

シズカとレオンは事件のあったB区のオフィスのあった場所から地下鉄で4駅ほど離れた郊外の住宅街に車を走らせた。シズカがハンドルを握っている。窓の外には黄色に色づいた街路樹のイチョウが連なっている。

「もう秋だな。一年あっという間だよ。俺も年を取るわけだ。」

レオンは助手席に座っている。シズカの黄色い軽自動車には余計なものが置いていない。

「ええ、そうですね。…先輩は今回の事件の犯人、どういう人物だと思いますか?」

シズカはハンドルを握り、前を向いたまま話した。

「そういうお前はどう思う?」

「普通の人間ではない、と思います。」

フロントガラスにイチョウの葉が一枚落ちた。

「そりゃどう考えたって普通じゃない。イカレたやつだ。」

レオンはこめかみの横でくるくると指で円を描いた。確かに被害者は一突きで殺されている点、二番目の被害者の周辺の大量のファックス用紙が意図的に散乱していた点はいささか不気味ではある。

「犯人はなぜ二人の被害者を選んだのでしょう。一人目の被害者のレジーナは衝動的に殺害した通り魔的犯行であるといえます。しかし二人目のジェニーは深夜のオフィスで殺された。」

レオンはふう、とため息をついた。シズカは事件に真面目に向き合うあまり、事件に入り込んでしまう。それは捜査官としてあまり良いことではないようにレオンは思っている。事件に心を奪われ、被害者に深く感情移入するあまり自分の心を壊されてトラウマを抱えて警察を去る人間も少なくないのだ。

「人間の行動、特に殺人を犯すような人間の行動は一貫性が無いことが多いからなんとも言えないな。二番目のジェニーについては犯行現場が小さな会社だったから警備員も常駐していなかった。明かりが点いているのを見て忍び込み、後ろから刺したとも考えられる。そこにいたのが前の犯行と同じ若い女性だった。ほら、次の交差点を左折したところに有料駐車場がある。」

シズカはハンドルを切った。犯人がどんな人間なのか、それはいくら考えても無駄なことだ。まずは被害者の両親への聞き取りを慎重に行わなければならない。二人は有料駐車場に車を停め、ジェニーの家に向かった。ジェニーは両親と同居していたそうだ。イチョウ並木からは黄色のイチョウの葉が落ち、銀杏の独特な匂いが漂っている。ジェニーの遺体はまだ警察に保管されている。昨日まで元気だった娘が突然命を奪われ、遺体が戻らず葬儀を行うことができない。家族はとても辛い気持ちだろう。レオンは一軒の家の前で足を止めた。煉瓦造りの二階建ての家だ。門にかけられた手作りであろうチューリップの花が描かれたトールペイントの表札には家族の名前が書かれている。ハンス、メアリー、ジェニーと書かれている。ジェニーは一人娘だったのかもしれない。レオンがインターフォンを押した。すると中からジェニーの母であろう老年の女性が顔を出した。

「・・・はい、なんでしょう。」

レオンはスーツの懐から警察手帳を取り出した。

「R市市警のレオンといいます。」

「同じくシズカと申します。…お嬢さんの件はお悔やみ申し上げます。事件についてお話しを伺いたのですがよろしいですか?」

メアリーの紫色のメッシュの入った白髪は乱れ、目の下には隈ができていた。憔悴した様子だった。

「…はい、どうぞお入りください。」

玄関にはジェニーが大学の卒業式で友達と肩を組み笑っていた写真の他に海の中を泳ぐ魚群の写真が飾られていた。居間のソファーに座るように勧められ、腰を下ろした。居間には60㎝ほどの海水魚の水槽があり、瑠璃色の魚が白色化したサンゴの石の周りを泳いでいる。水は少し淀んでいるように見えた。隣の部屋からジェニーの父親、ハンスが顔を出し、挨拶するとテーブルを挟み、メアリーの隣に座った。

「…娘はいつ戻ってきますか?」

メアリーがぽつり、と尋ねた。

「娘さんのご遺体は検死が終了し、手続きが終わり次第お母様とお父様の元にお帰し致します。…捜査へのご協力感謝申し上げます。」

シズカが答え、二人はジェニーの両親に頭を下げた。ジェニーの両親は軽く頭を下げた。

「できれば娘さんのことについて幾つかお伺いしたいのですがご協力願えますか?」

レオンがそう尋ねた。メアリーは黙っていた。ハンスがメアリーの肩をさすった。娘を亡くし憔悴している二人に事件のこと、娘のプライベートに土足で踏み込むような質問をするのは残酷なことだとシズカは分かっていた。だが、事件を解決し次の犠牲者を出さないためにも少しでも多くの手がかりが必要だ。レースのカーテンが掛けられている窓からは光が差し込んでいる。

「…お話しします。家内はこの様子ですが私は娘を殺した犯人を捕まえてほしい。そして法で裁いてほしいのです。」

ハンスは目を伏せた。シズカはメモ帳を取り出し、ボールペンを構えた。一字一句書き逃すわけにはいかない。メアリーは紅茶を淹れてくるわ、と言い席を立った。もしかしたら溢れる涙を堪えきれなかったのかもしれない。

「まず、娘さんはいつ頃からあの会社に勤めていたのですか?」

「…大学を卒業した後、娘は二年間アルバイトを転々としていました。そして死んでしまう直前まで働いていた出版社にアルバイトから正社員に採用されました。だから3年前になります。」

「…娘さんは例えば誰かに恨まれたりしていた、あるいはストーカー被害に遭っていましたか?」

レオンはハンスの眼をまっすぐ見た。ハンスは首を横に振った。

「…私はそんな話は一度も聞いておりません。娘は誰かに恨みを買うような子じゃない。小さい頃から明るくて誰にでも親切な優しい子でした…」

シズカは頷いた。だがこれはあくまで父ハンスの視点から見たジェニーだ。全てを鵜呑みにはできない。それはレオンも分かっているはずだ。

「娘さんの交友関係についてお尋ねしたいのですが仲の良い友達を教えていただけますか?」

「一番仲の良かったのは幼なじみのシーアンです。友達は多かったし私の知らない友達も居たと思います…だけど全員の名前までは覚えておらんのです。」

20代後半の娘の交友関係を親が把握していることは珍しいだろう。そうなると幼なじみのシーアンに話を聞く必要がありそうだ。

「シーアンさんはどちらにお住まいですか?」

ハンスはゆっくり立ち上がると壁に掛けておいたハガキを入れた状差しから一枚のカードを取り出した。カードは紫とオレンジで彩られ、お化けカボチャやコウモリのシルエットが描かれていた。ハロウィーンパーティーの招待状だろう。

「先月の末にシーアンから娘宛てに来たものです。ここに住所が書いてあります。毎年友達同士で集まってハロウィーンやクリスマスのパーティーを開いていました。」

ハンスはカードを差し出した。シズカはそのカードを受け取り、住所をメモしてハンスに返した。

「11月13日の娘さんの行動を教えていただきますか?」

レオンは手のひらを膝の上で組み、ハンスの眼をまっすぐ見た。事件当日の被害者の行動を聞く。これがこの聞き取り調の重要な目的だ。シズカは姿勢を正した。

「…娘は朝7時ごろ起きていつも通り出勤しました。そして夜中の12時になっても帰ってこなかった…」

ハンスはそう言うと膝の上で拳を強く握った。シズカはハンスの悲痛な思いが伝わり、胸の奥が締め付けられるような感覚が走った。

「一つ、いいですか?娘さんは何時間勤務していたのでしょうか。」

レオンはそう問いた。確かに朝7時ごろ起きたとすれば会社に着くのは遅くても10時頃だろう。ジェニーの死亡推定時刻は23時だ。単純に考えて12時間以上働いている勘定になる。

「…娘はいつも月曜日と火曜日は朝の9時から夕方の6時まで働いていました。休日は木曜日と日曜日です。ですから木曜日の前の水曜日と日曜日の前の土曜日の夜は遅くまで残って仕事を片付けるようにしていた。だいたい12時頃には帰ってきた。それがあの夜は娘が夜中の1時を過ぎても帰ってこないから家内は何かトラブルに巻き込まれたのではないかと心配した。私は多分友達の家に行っているのだろうと思いました。もう30に近い娘が一晩戻らないくらいで警察に駆け込むのは過保護だと思ったのです…しかし、あの時警察に電話していれば…救急車を呼んで娘は助かったかもしれない…」

ハンスの拳が震えた。もしあの時、別の行動を取っていれば、事件が起こる前の行動の枝分かれした分岐点に戻ることが出来たならば。どんな事件でも被害者やその家族は自分の行動を後悔し、苛まされることが多い。しかし、家族には何の落ち度もないのだ。悪いのは自分の身勝手な理由で他人を傷つけ、時には命も奪う犯罪者だ。そんな人間は、決して許されない。

「ハンスさん、ご自分を責めないでください。亡くなったジェニーさんも、ハンスさんもメアリーさんも何一つ落ち度なんてないんですよ。許されないのは人の命を奪う、犯罪者です。」

シズカは記録を中断し、身を乗り出してハンスに語りかけた。

「…ええ、それは分かっている。あなたの言うことは正しい。しかし、自分の家族を誰かに殺されたことのないあなた達に私の気持ちは一生わからないでしょう。」

ハンスが絞り出すような声で話した。シズカは自分の言った軽率な慰めの言葉を後悔した。例え犯人を逮捕したとしてもジェニーは一生戻らない。ハンスとメアリーの時計の針はジェニーが殺された11月13日から一秒たりとも時が進むことはないのかもしれない。レオンは黙ってハンスの言葉に耳を傾けていた。

「…すみません、あなたに当たってしまいました。忘れてください。」

ハンスはぽつり、と言った。シズカはかける言葉が見つからなかった。

「娘さんはいつ頃から水曜日と土曜日に残業する習慣がありましたか?」

「…1年ほど前です。その頃に休日の曜日が変わったのです。」

ハンスは目を閉じ、頭を抱えた。もう、何も話したくない、何も聞きたくない。これ以上の聞き取り調査を行うことは難しいだろう。

「分かりました。捜査へのご協力、感謝いたします。」

レオンとシズカはハンスに頭を下げた。ハンスは立ち上がり、二人を玄関まで誘導した。メアリーの姿は無かった。家を出る時にもう一度二人はハンスに礼を言い、立ち去った。駐車場への道でシズカはうなだれた。

「シズカ、次は被害者の友人の所に聴取に行くぞ。その前に飯にしよう。」

レオンが飄々と話した。けれどレオンは決して事件を軽い気持ちで捉えていないことをシズカは分かっている。同僚の刑事たちはみな事件に対して真摯に向き合っている。冷静かつ客観的に判断するために上手く気持ちを切り替えているのだ。自分の心をうまくコントロールできないのは決して優しさではなく自分の弱さだとシズカは思った。

「俺はハンバーガーでいいよ。チーズバーガーが食いたいな。お前は?」

シズカは顔を上げた。

「私もそうします。さっき通ったハンバーガーショップでいいですか?」

シズカは車のドアを開けた。


二人は昼食を済ませると、ジェニーの一番仲が良かった友人のシーアンの家に聞き取り調査に向かった。幸いシーアンは在宅だった。シーアンはジェニーの死にひどく心を痛めていた。シーアンからジェニーの交友関係についての聞き取り調査を行ったが、ジェニーは友人たちとも仲が良かった。ここ5年は恋人もおらず、昔交際していた男性からストーカー被害を受けたり、恨まれたりしているという話も聞かないということだ。シーアンがジェニーから聞いた限りでは仕事も順調だったそうだ。そしてシーアンからは被害者の友人で彼女が知っている限りの連絡先を尋ねた。彼女は友人を疑いたくないが、自分はジェニーの全てを知っているわけではないわ、と言うと知っている限りのジェニーの友人36人の連絡先を書き上げた。また、第一の被害者レジーナの写真をシーアンに見せたところ、第一の事件が報道されていたため、ニュースでは見たが全く知らない人物だと答えた。


会社での人間関係についてはスパイク達が会社での聴取で得た情報と照らし合わせる必要がある。しかし、ハンスとシーアンを聴取した限り、ジェニーが他人から恨まれている可能性は低いとレオンは感じた。となるとやはり、通り魔的犯行だったのだろう。ファックス用紙をばらまいたという点は不可解ではあるが、その行動に整合性の取れた意味合いはないのだろう。とりあえず明日は市警に集合し、リチャード警部の指示を仰ぐ必要があるだろう。


11月17日

 市警の第二会議室には一日目の捜査を終えた捜査官が集まった。リチャード警部がホワイトボードの前に立った。シズカは一番前の長椅子に座り、メモを取る準備をした。

「昨日の捜査で得た情報を照らし合わせよう。スパイク、会社での聴取はどうだった?」

スパイクが立ち上がった。

「会社の社長から聞いた情報では被害者は3年前から勤務しており、木曜日と日曜日の二日が休日でした。事件当日は残業のために一人で会社に残っていたそうです。被害者は休日の前日に会社に残り、残業を行う習慣があったそうです。会社の警備については会社が入っているビルは規模が小さいということで警備員が常駐しておらず、5階のフロアのうち被害者の勤めていた出版社は3階にあり、後は5階に編み物教室が入っていました。他のフロアは空いています。なんでも編み物教室の主催者がこのビルのオーナーなのですが編み物教室は18時には締めるのでビルの戸締りを任されていたのは出版社だったそうです。そして残業していた被害者が最後にビルを出るので、水曜日と土曜日は被害者がビルの戸締りを行っていた。したがって事件の夜はビルの扉にもオフィスにも鍵は掛かっていなかったそうです。ビルの監視カメラは2週間前に故障したまま修理に出したままだそうです。また、会社の同僚から聞いた情報では、被害者は誰かに恨まれている様子はありませんでした。以上です。」

スパイクが着席した。リチャード警部は次に会社周辺で聞き取りを行っていたトムを指名した。

「会社から500メートルほど離れた居酒屋で聞いたところ会社は繁華街から外れているため人通りは多くないそうです。会社の斜向かいに位置するマンションで聞き取りを行ったところ、被害者の悲鳴などを聞いた人物は居ませんでした。」

そこでトムは少し間を開けた。

「ただ、住民の男性が22時頃コンビニに行くためにマンションの一階に下りたところ、ビルの30メートルほど先を歩いている人影を目撃したそうです。」

22時は被害者の死亡推定時刻と一致している。その人物が犯人である可能性がある。シズカをはじめ捜査官たちに緊張が走った。

「しかし、暗がりで距離も離れていたため性別、年齢は不明です。外見は黒いフードか帽子を被っていたようで服装はコートのようなものを着用していたようです。」

リチャード警部は顎に拳を当てた。そしてレオンを指名した。

「被害者の両親と被害者の親友の女性から聴取を行った結果、被害者はスパイク先輩が話した通りで一年ほど前から水曜日と土曜日に深夜まで残業を行う習慣がありました。残業の日は遅くても午前1時には帰宅していたそうです。被害者は誰かに恨まれていたという話は聞きませんでした。親友の女性から友人20名の連絡先を入手しました。」

レオンは着席した。リチャード警部が頷いた。

「情報を照らし合わせると被害者は習慣的に水曜日に残業を行っていた。現時点で被害者に恨みを抱いていた人間はいない。ビルの鍵は開いていたため、外部の人間がビルに入ることは容易である。また、監視カメラは故障していたため映像は残っていない。そして近隣住民がビルの近辺で人影を目撃している。そして現時点で第一の被害者レジーナと第二の被害者ジェニーとの共通項はない。」

皆が黙ってリチャード警部の指示を待っている。警部は顔を上げた。

「まず市警から事件に関する情報提供をよびかける広報を行おう。目撃された人影を犯人と考えるには根拠が不十分だ。そしてラッセル、トム、ジャック、スパイクは近隣住民への聴取を引き続き行ってくれ。第一の被害者レジーナとの共通項を探るためにフィリップ、オリバー、シズカ、レオンは被害者の友人36人を手分けして聞き取り調査を行うように。何かあれば私に遠慮なく言ってくれ。」

シズカはフィリップ、オリバー、レオンと相談して一人9人ずつ分担を決めて聴取を行うことにした。二つの犯行が関連性はあるのか、あるいは通り魔的犯行であるのか。いずれにしてもまずは少しでも多くの情報が必要だ。


11月21日

レオンの目の前のソファーには眼鏡を掛けた黒髪の若い女性が座っている。ここは彼女が母親と暮らすマンションの一室だ。この女性は今回の事件の被害者、ジェニーの友人で名前はジャスミンという。レオンは二か月前の事件でジャスミンと知り合った。こんな短期間でもう一度会うことになるとは思わなかった。ジャスミンはジェニーの親友、シーアンのいとこでジャスミンが二か月前の事件の後で心を痛めていた時にシーアンの紹介で知り合ったという。

「あー、なんというか久しぶりだね。…被害者のジェニーさんについて聞きたい事があるけどいいかな?」

ジャスミンはうつむいていた。

「正直、もう刑事さんには会いたくなかったんですけど…」

「いや、申し訳ない。すまないねえ。」

レオンは頭を掻いた。二か月前の事件の際、結果的にレオンはジャスミンを欺いたことになる。レオンを恨んでいるようには見えないが、レオンの顔を見ると二か月前の事件のことを思い出してしまうのだろう。

「ジェニーさんが、誰かとトラブルがあったということは、聞いてません。私が、教団の事件の後に落ち込んでいて…いとこのシーアンがジャスミンさんを引き合わせてくれて…ジェニーさんが私のアルバイト先まで紹介してくれて…そのおかげで今働けるようになって…ジェニーさんが居なければ、私は立ち直れなかったです。」

ジャスミンの目尻からは涙が溢れそうだった。この娘は短期間に二件もの事件に巻き込まれている。巡りあわせが悪い、運が悪いとしか言いようがない。レオンはジャスミンがかわいそうに思えた。レオンは第一の被害者、レジーナの写真をポケットから出し、ジャスミンに見せた。

「この女性に見覚えはあるかな?」

「…いえ、分かりません、ごめんなさい。」

「いや、いいんだ。捜査への協力ありがとう。」

ジャスミンはどういたしまして、と言った。レオンはジャスミンの家を後にした。ジャスミンで9人目だ。これまで9人のジェニーの友人全員が口をそろえて自分が知っている限りジェニーは人間関係のトラブルに巻き込まれている様子はないと話した。そして第一の被害者、レジーナはニュースで顔を知っているが、全く面識のない人物であると答えた。レオンが推測するに第一の被害者と第二の被害者のつながりは、無いだろう。よって二つの犯行は通り魔的犯行であると言わざるを得ない。防犯カメラが壊れ、映像はない。事件の目撃者は存在しない。ビルの鍵は開いていた。偶然が一致したとはいえ運が悪すぎる。


11月22日

市警では2度目の会議が行われた。事件の情報提供者を募ったが、事件の目撃者は見つからなかった。そして多くのイタズラ電話と犯人を特定できない市警を批判する苦情の電話が多く寄せられた。連続殺人犯を野放しにしていれば市民が不安になるのは当たり前だ。そしてその責は自分達にあるとシズカは思った。何一つ犯人への手がかりは掴めない。歯痒く、悔しく、今すぐ部屋から飛び出したいような、居ても立ってもいられない気持ちだ。

リチャード警部は刑事たちが収集した情報を聞いていた。そして全員の報告が終わった。

「皆、ご苦労だった。先月の事件と今月の事件は怨恨の線は無いだろう。よってこの二つの事件は通り魔的犯行であると判断しよう。市警本部では各部署と連携し、市内のパトロールを強化する。また、夜間の外出を控えるように勧告する。そして、市民に伏せた状態で婦警によるおとり捜査を開始することを決定した。そして二人の被害者が共に22歳と27歳だったことから20代~30代前半の市警に勤める婦警を参加させる。」

皆息を呑んだ。犯人へ繋がる情報が何も掴めていない以上、市民の安全を守るためにはパトロール体制を強化する必要がある。そして最終手段はおとり捜査で犯人をおびき寄せることだ。シズカは挙手した。

「私もおとり捜査員として参加させてください。」

シズカは拳を握った。市民が危険にさらされ、他の課の婦警が自分の身を挺して捜査に参加するならば刑事の自分だけが安全な場所に居ることをシズカは許せなかった。

「分かった。第一の被害者と君は背格好が似ている。ちょうどいいだろう。」

リチャード警部が頷いた。


11月23日

市警の会議室には20代~30代のくらいの私服を着た婦警が10人集まっていた。皆身長も外見もばらつきがある。会議の開始まではあと10分ほど時間がある。窓の外は5時だというのにすでに暗くなっている。その中の一人の栗色のくせ毛と大きな青色の目が特徴的な女性がシズカを見つけると手を振り、歩み寄った。

「シズカ、久しぶりね。」

「エリー、元気?」

エリーはシズカが交通課に勤務していた時の同僚だ。二人は個人的にも親しい間柄なのだがシズカが刑事課に入ってからは一度も会う機会が無かった。

「私は相変わらずよ。出会いも無いしねえ。あ、何べんも言ってると思うけど警察官の男は絶対に嫌だから刑事課の男は紹介しなくていいわよ。」

エリーは手のひらをシズカに突き出した。

「分かってるって。」

緊迫した雰囲気なのだがエリーと話していると調子が狂った。エリーはふーっ、とため息をついた。エリーは1年前に恋人と別れて以来、新しい恋人が出来ないと嘆いている。美人であることは間違い無いがエリーは口が達者すぎるのだ。

「…ってそんなふざけたこと言ってる場合じゃないわよね。」

エリーは頭を掻き毟ると眉間に皺を寄せた。

「連続女性通り魔事件のせいで今、全R市中の女性が不安な思いをしているでしょうね。非力な女性だけを狙って殺すなんて絶対に許せないわ!」

「そうだよね、私も…そう思うよ。」

エリーは本気で怒っているのだろう。おしゃべりで、少し軽率な面もあるけれどエリーも市民の安全を守りたいと願う警察官の一人なのだ。その時会議室のドアが開き、10名の男性捜査官とリチャード警部が入ってきた。

「皆、集まってもらったのは他でもない。連続通り魔事件の犯人に関する情報が掴めないという事案を受け、本部では市民に夜21時以降の一人での外出を控えるように広報を通じて勧告した。しかし、実際に夜間の外出禁止を強制することは難しいだろう。したがって市警では夜間のパトロールの強化と共に婦警によるおとり捜査を行うことを決定した。そこで婦警の皆には男性警官一人と組んで夜間に市内を歩き、犯人が現れるのを待って欲しい。この捜査は通り魔事件以外にも今月増加している強制猥褻犯など女性を狙った犯罪全般を抑止する目的があることを理解してもらいたい。」

リチャード警部は表情を変えず、淡々と話した。婦警たちはメモを取るものもいれば、腕を組みリチャード警部の言葉を噛みしめるように深く頷いているものもいた。皆、同じ女性として力の弱い女性を狙う卑劣な犯罪を許せないのだ。シズカの交通課の同期の婦警たちもそういう思いで警察官になった者が多かった。シズカも同じ気持ちだ。刑事として事件を公正に捜査するために過度に感情的になっていけないことは分かっている。だが、シズカも女性や子どもを狙った悪質な犯罪全般を見ると湧き上がるどす黒い嫌悪感を押さえられない。

それからリチャード警部は組になる刑事と婦警の組み合わせを指示した。シズカはスパイクと組むことになった。

「よろしくお願いします、スパイク先輩。」

「ああ、よろしく頼む。」

スパイクは頷いた。証拠を挙げられない以上、一歩でも前に、前に進みたい。シズカはそう思った。


11月24日

あたりは薄暗く、オレンジ色の弱々しい光を放つ古いタイプの街灯が数十メートルおきに設置されている。人影はない。日付が変わり、深夜1時を過ぎたころだ。レオンは建物の陰に身を潜めた。20メートルほど先にはエリーが歩いている。エリーはショルダーバックを肩にかけ、モデルのように真っ直ぐ歩いていた。今のところ特に変わったことはない。もし犯人が現れれば、レオンはエリーと協力して犯人を確保するのがおとり作戦の内容だ。それにしても薄暗い。市警本部では夜間の外出を控えるように勧告したそうだ。だが、実際に全ての市民が外出を控えることは難しいだろう。夜間に働いている人間も世の中には多い。こんな明かりも少ない薄暗い道だ。路地から誰かが現れ、襲い掛かってくるかもしれない。女性だったら誰でも身の危険を感じるだろう。レオンはエリーの動きに合わせて距離を取りながら移動した。突然エリーの前方から黒い服を着た人影がエリーの方へ走った。光るものが見える、ナイフだろうか。まさか連続通り魔事件の犯人か、レオンは反射的に走り出した。間に合わない。この距離から射撃することは不可能だ。エリーは瞬時に男から距離を取り、長い脚を高く上げ、渾身の力で男の顔を横に蹴った。エリーのハイヒールが男の頬に直撃する。男の手からナイフが落ち、男は大の字になって倒れた。どうやら気絶しているようだ。男は20代~30代に見える。レオンが駆け寄り、ナイフを蹴り、男から離し、手に取り回収した。

「この男、連続通り魔事件の犯人かしら?」

「いや、まだ分からん。どちらにしてもナイフを持って襲いかかったんだ。傷害未遂だ。応援を呼ぼう。」

レオンは懐から手錠を取り出し。男の両手に掛けた。腕の時計を見た。

「午前1時14分、傷害未遂により現行犯逮捕。」

レオンは電話で本部に応援を要請した。エリーは冷めた目で男を見下ろしていた。

「…この街も最近物騒ね。」

「ああ、銃の購入も増えてるしな。」

民間人の銃の所持が認められているこの国では女性が自分の身を守るため免許を取り、銃を所持するケースが多い。エリーは黙っていた。

「…あんた自分の恋人が浮気したらこんな風に蹴り入れるのか?」

レオンは手を広げ、少しおどけて見せた。

「さあ、どうかしら。まあタダじゃ済ませないわ。」

エリーがにやり、と笑った。こうして見ると中々の美人だ。

「おっかないねえ。」

遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。


レオンとエリーが逮捕した男はギリーという名で年齢は22歳だった。強盗罪の前科があり、つい12日前まで服役していた。つまり、ギリーが連続通り魔事件を起こすことは不可能なのだ。机を挟んで、ギリーが座っている。記録員はエリーだ。ギリーはふてくされたような表情を浮かべている。

「で、お前は12日前に出所してから2件の強盗事件を起こした。被害者の女性二人からは被害届が警察に出されている。三件目は、運が悪かったな。」

幸い二人の被害者はナイフで脅されたもののケガを負うことはなかった。ギリーは頭を掻き毟った。

「おとりなんて卑怯だぞ!警察のすることはえげつないんだよ。俺は警察が大っ嫌いだ!」

ギリーはじたばたと暴れはじめた。エリーが席から離れ、机を叩いた。

「卑怯?卑怯なのは女ばっかり狙って強盗してるあんたの方よ!いい加減にしなさい!」

「んだとこのババア!よくも俺のアタマ蹴ってくれたな!お前こそ傷害罪だろう」

エリーの整った眉が吊り上った。エリーは今にもギリーに掴みかかりそうだ。

「エリー、記録に戻ってくれ。」

レオンが手で制し、エリーは席についた。それからギリーは身勝手な理由を次々と挙げて反抗した。エリーはもうその言葉に反応せず、背を向けて記録を続けていた。聴取が終わったのは朝の6時だった。レオンは地下鉄に乗り、アパートに帰った。明日、いや今日のおとり作戦は20時からだ。そうすると、18時頃起きればいいだろう。ベッドに寝転び、目を閉じた。本当に犯人を逮捕することができるのだろうか。証拠は何も残っていない。第三の犯行は行われるのだろうか。おとり捜査で犯人をおびき寄せることはできるのだろうか。事件の犯人を特定できず、迷宮入りとなる事件も少なからず存在する。この国の刑法では殺人罪には時効がない。しかし、このまま犯人を逮捕できなければいずれ捜査本部は解散せざるをえない。レオンは眠りに落ちる。夢を見た。床にばらまかれた白いファックス紙が血に染まる。ファックスからは延々と紙が出てきた。そこにジェニーの姿は無い。


12月14日

おとり捜査を終え、シズカはスパイクと共に市警に戻った。群青色の夜の闇と朝日の橙色の光が混ざり、朝焼けの空が眩しかった。刑事課のフロアに行き、リチャード警部に活動を報告した。警部の金髪は少し乱れ、疲弊しているように見えた。犯人を確保できずに一番責任を感じているのは警部なのだろう。おとり捜査を始めてから2週間以上が経過した。その間偶然にも1名の強盗犯、1名の猥褻犯を確保できた。しかし聴取の結果二人の犯罪者は連続通り魔事件とは関連がないことが明らかになった。

「分かった。二人とも今日はもう帰って休みなさい。明日の17時から今後の捜査方針について会議を行う。」

スパイクは分かりました、と返事をした。シズカははい、と返事をした。おそらくおとり捜査の中止を決定するのだろう。このままでは事件は迷宮入りしてしまう。シズカは焦りを感じていた。その時リチャード警部の机の上の電話が鳴った。リチャード警部が電話を取る。

「こちら刑事課、リチャードだ。C区で女性が何者かに刺されて意識不明の重傷。今、病院に搬送されたんだな。分かった今から向かう。」

リチャード警部は電話を置いた。シズカは口に手を当てた。心臓が激しく鼓動を打つ。

「…まさか、三人目の被害者が…」

「…くそっ!」

スパイクが大きな拳を机に叩きつけた。

「二人とも、現時点では断定できない。まずは現場に向かおう。」

被害者は救急車で搬送されたものの生死はまだ分からない。もっと早く犯人を特定できていれば、しかしそう言ったところでどうすれば犯人に繋がる手がかりが見つかるのだろう。もどかしい。悔しい。自分は無力だ。市民を守ることが出来ずに、何が警察官だ。犯人を絶対に捕まえるという思いで捜査に臨んでいた。しかし、犯人を捕まえることはできず、第三の被害者を出してしまった。唇を強く噛んだ。シズカは胸の奥から苦いものが溢れて広がるような感覚を覚えた。シズカの拳が震えた。

「シズカ、悔しい気持ちは皆同じだ。君だけではない。激しい感情は判断を乱す。落ち着きなさい。」

リチャード警部がそう言い、うつむいた。警部の言う通りだ。スパイクも、リチャード警部もこの事件を捜査する刑事全員が同じ気持ちなのだ。今は落ち着かなければならない。

「…はい、申し訳ありません。」

リチャード警部はうなずき、立ち上がった。スパイクとシズカはリチャード警部の後に続いた。

スパイクの運転で三人はC区に向かった。徐々に道は乱雑なスラム街に近づく。大通りから道が逸れると一軒のアパートが建っていた。周辺にパトカーが停められ、鑑識官や交番から来た制服を着た警官が数名いた。アパートの外装は変色し、黄ばんでいる。鉄骨の階段は赤く錆びていた。今にも崩壊しそうなほど寂れている。三人は車から出ると、アパートの入り口に張り巡らされた黄色いテープをくぐると赤く錆びた階段を上がった。二階の一番奥の部屋に入った。玄関に続く廊下のフローリングには血の跡があった。その周辺では部屋の中では鑑識官が現場に残された証拠を拾い集めようと作業を行っていた。警察学校を出たばかりに見える太い眉が特徴的な警官がリチャード警部に近づいた。

「リチャード警部、C区第三派出所のギル巡査であります。現場の状況を報告いたします!」

ギル巡査は背筋を伸ばし、敬礼した。どうやら緊張しているようだ。

「分かった。よろしく頼む。」

「まず被害者の女性はダイアナさんという女性です。年齢は22歳、個人ナンバーF34592。職業は…キャバレーのホステスです。通報者はダイアナさんの友人で同僚のシルビアさんです。昨夜11時にダイアナさんはシフトが入っていたのですがダイアナさんは連絡もなしにお店を休みました。ダイアナさんは2年前からこの店に勤務しており、今まで無遅刻無欠勤だったそうです。そこで同僚のシルビアさんが心配して勤務時間が終了した4時にダイアナさんのアパートに様子を見に行ったところ部屋の鍵が開いており」

「腹部を刺されていた。」

スパイクが言った。

「その通りであります。ダイアナさんはまだ息があり、シルビアさんが警察と救急に通報し、最寄の派出所の本官がここまで急行したところ、ダイアナさんが倒れておりシルビアさんはダイアナさんに付き添い救急車に乗りました。」

ギル巡査は気を付け、の姿勢で待機している。リチャード警部は顎に手を当てた。

「…現時点では断定できないが、第一の事件が起きたのが10月15日、第二の事件は11月13日、犯人はちょうど一か月おきに犯行に及んでいる。今日は12月13日だ。そうすると犯行には規則性があるといえる。」

スパイクが頷いた。

「確かにその月の13日から15日に犯行が集中しています。」

鑑識官がリチャード警部に近づいた。

「警部、玄関周辺から被服の繊維が発見されました。それと、現場に残された髪の毛のDNAを第一、第二の事件のものと照合します。」

リチャードは分かったと返事をし、振り返った。

「分かった。鑑定を急いでくれ。それに被害者が命を取り留めれば、証言を得ることもできるだろう。」

被害者のダイアナは重体だと聞いた。犯人は殺すつもりでダイアナを刺したのだろう。証言に関わらず、とにかく生きていてほしい。せめて、命だけは。シズカはダイアナの無事を願った。


12月18日

シズカとレオンはダイアナが搬送された国立大学附属病院に車で向かっていた。窓の外には葉が落ち、枯れている街路樹が並んでいた。

「ダイアナが一命をとりとめて、よかったです。後30分搬送が遅れていたら危なかったそうです。」

ハンドルを握るシズカの顔は心の底から安心しているように見えた。

「持つべきものは遠い親戚より近くの友人、てわけだ。」

「ええ、そうですね。…ジェニーの事件の現場で採取されたDNAが一致しましたね。」

「ああ。連続犯で間違いない。」

「被服の繊維も特定できましたね。」

「ああ、大手メーカーが販売しているコートと一致したな。販売元から犯人を割り出すことは難しいが、」

「目撃情報を募る時には役に立ちます。そしてダイアナから証言を取る。」

「その通り。上手くいくといいけどな。」

二人は車を病院の駐車場に停め、入り口に入った。病院の床は白く、多くの患者が受付の近くの待合所で椅子に座っていた。看護婦や白衣を着た医者が廊下を歩いている。シズカは受付をしていたグレーの制服を着た事務の女性に話しかけた。

「個人ナンバーF34592のダイアナに面会に来ました。R市市警刑事課のシズカとレオンです。」

シズカは警察手帳を見せた。

「分かりました。ダイアナさんの病室は4階の403号室の個室です。一度4階病棟のナースステーションに行ってください。」

シズカはありがとうございます、と言い二人はエレベーターで4階病棟に上がった。4階病棟は壁がガラス張りの窓になっていてそこからは街の様子が見渡せる。レオンは少しめまいを覚えた。二人はナースステーションで先ほどと同じ用件を告げた。すると、若い看護師が応対した。

「…すみませんが面会時間は30分以内でお願いします。ダイアナさんはまだ手術の後で食事もとることの出来ない状態なんです。」

「分かりました。できるだけ早く済ませますよ。」

レオンはそう言った。大けがをしてから4日しか経っていない。体にも大きなダメージを負うことはもちろん、心も傷ついているだろう。しかし、今は一刻も早く犯人の情報を得る必要がある。ダイアナから犯人についての証言を取れれば捜査は大きく前進するだろう。レオンとシズカは病室まで歩いて行った。

「胸、大きかったな。さっきの看護師。」

シズカははあ、と気の抜けた返事をして曖昧な笑みを浮かべた。くだらない下世話な冗談を言う、それがレオンの息抜きだ。初めは目くじらを立てていたシズカも今は呆れている。それがレオンの切り替え方だと分かっているようだ。声を掛け、ノックをして病室に入ると、ベッドの上に水色のパジャマを着た赤毛の女性、ダイアナが座っていた。ベッドの近くの小さな机には薄水色のガラスの花瓶が置いてあり、一輪のユリの花が活けられている。ダイアナは二人の様子を見て不審がるように睨んだ。どこか荒んだ雰囲気の女性だとレオンは感じた。

「…あんたたち、誰?」

「R市市警刑事課のレオンです。こっちはシズカ。」

「…ああ、刑事さんね。もう大丈夫よ、傷は縫ったけどね。まあ、顔に傷がつかないだけ良かったわ。」

ダイアナは気丈に振る舞っていたが疲れた様子だった。レオンは後ろに下がった。こういう事件の聴取は婦警の方が向いている。シズカが近くにあった椅子を引き寄せ、座った。レオンは記録を取るべく筆記用具を準備した。

「ダイアナさん、事件のことについていくつか聞きたいことがあります。…今は、とても辛いと思います。けれど犯人を捕まえるためにあなたからお話しを伺いたいんです。」

ダイアナは黙って目を閉じ、少し間を置いてから口を開いた。

「…黙ってるわけにはいかないのね。正直あまり思い出したくない、無かったことにしたいわ。だけどお腹には縫った痕もある。だから忘れられないの。…自分の気持ちを整理するために、なら話すわ。」

事件は被害者の平穏だった日常を突然奪う。事件に巻き込まれた被害者や遺族は事件のことを忘れることはできない。ダイアナもおそらくまだ心の整理がついていないのだろうとレオンは思った。ダイアナの白い手は少し震えていた。シズカはその手の上に自分の手を重ねていた。ダイアナの手はほのかに温かく指は細く、骨張っていた。あと少しシルビアがダイアナを発見するのが遅ければダイアナは事件現場のロープに囲まれて死んでいたのだ。生きていてくれて、本当に良かったとシズカは思った。

「ありがとう、ダイアナさん。」

水商売をしているダイアナは大人びて見えるがシズカよりも年下だ。

「…もういいわ。何でも聞いてちょうだい。」

ダイアナは首を振り、前を向いた。シズカはダイアナの手をそっと放してた。

「まず、14日の行動について教えてください。」

「あの日は前の日もお店だったから夕方の4時時まで寝てたの。それから起きて、買い物に行ってごはんを作ってテレビを観て、10時半に家を出るつもりだったわ。お店は近いから。」

「…10時20分くらいだと思うわ。チャイムが鳴ったの。宅配便です、って声がしたから…私ついスコープを覗かないでドアを開けちゃったのよ。…バカでしょ。」

ダイアナはため息をついた。あの時ドアを開けなければ、そう後悔しているのだろう。シズカは言葉に迷っているようだ。おそらくジェニーの事件でハンスに聴取を行った時のハンスの言葉を思い出しているのだろう。自分の家族を誰かに殺されたことのないあなた達に私の気持ちは一生わからないでしょう。その言葉はシズカの心に棘のように突き刺さっている。シズカはううん、というと首を横に振った。

「そしたら、目の前に黒い、覆面を付けた男が立っていた。手にはナイフみたいな物を持っていた。とっさにドアを閉めようとしたけど間に合わなくて…ベランダの方から逃げようと思って後ずさりしたら、お腹を刺された。」

シズカはダイアナの話に黙って耳を傾け、時おり頷いていた。レオンはダイアナの話した内容のメモを取った。

「…お腹から血が出てきて、痛かったけ生きていると分かれば一回刺されて、本当に死ぬと思ったから、死んだふりをしたの。そしたら男は立ち去って行った。男の足音が遠くなってからも、目をつむってた。お腹の傷が痛くて動けなくて、気が遠くなって…気付いたら病院のベッドの上だったわ。」

ダイアナの腹部の傷は他の被害者のものに比べて浅かったのだろう。死んだふりをするというダイアナのとっさの判断が生死を分けたと言っていい。そして友人のシルビアが意識を失ったシルビアの元に訪れた。ダイアナが命を取り留めたことは奇跡だ。

「…シルビアが来てくれなかったら、死んでたと思うわ。」

シズカは頷き、黙っていた。そして話を切り出した。

「犯人の特徴について覚えている限りのことで教えてください。」

「多分男だったと思う。宅配便です、っていう声が男の声だったもの。身長は…そこの人よりも少し小さいくらいかしら。」

ダイアナはレオンを見た。

「体格は、痩せていたと思う。服装は、黒いコートを着て、黒い覆面をしてたわ。」

「髪の毛は、見えましたか?」

「…ううん。髪の毛は分からない。それ以外のことは、ごめんなさい、分からないわ。」

ダイアナはうつむいた。レオンは腕時計を見た。面会を初めて25分ほど経過していた。

「最後に、被害に遭った時のあなたの服装を教えてください。」

「部屋着だったわ。上下が紺色のジャージ、高校の時の…」

ダイアナはそう言った。聴取はもう十分だろう。

「分かりました。御協力、ありがとうございます。」

シズカは立ち上がり、ダイアナに一礼した。レオンもそれに倣い、二人は病室を後にした。

「まずは本部で報告ですね。犯行時の犯人の服装についての証言を得られましたから。」

「ああ、そうだな。」

レオンは懐から携帯電話を取り出した。前から歩いてきた看護師が目を吊り上げた。

「病棟内は通話禁止です。」

レオンは慌てて携帯電話をしまった。


日が暮れた頃、本部の会議室では再び捜査会議が行われていた。刑事たちは長机に座り、リチャード警部が前に出て会議を進行させる。

「それではレオン、被害者のダイアナから得られた情報を報告してくれ。」

レオンは立ち上がり、ダイアナの証言を話した。

「…という訳で犯人は覆面を被っており、黒いコートを着用していたそうです。」

刑事たちはどよめいた。ようやく犯人の目撃情報を得られたのだ。膠着状態だった状態が前進した。リチャード警部は頷き、次にダイアナの同僚や店の客から聴取を行っていた班をまとめていたスパイクを指名した。

「私たちが聴取を行った結果、ダイアナは特に誰かに強く恨まれていた様子はありませんでした。店での勤務状況も真面目に働いていたようです。ダイアナは17歳の時に家出をして以来両親から勘当されたようで家族とは連絡が取れていない状態です。シルビアたち店の同僚はそんなダイアナの事を何かと気にかけていたようです。以上で報告を終了します。」

スパイクはきびきびと話すと着席した。次に警部は現場周辺で事件時の証言の聞き取り調査をしていた班をまとめていたトムを指名した。

「事件のあったアパートに入居していたのは被害者のダイアナの他に2名いました。他の部屋は空きやで建物が老朽化していることから来年度の取り壊しが決まっていたそうです。そのため前に住んでいた住民は引っ越していったそうです。犯行時刻の10時20分には30代の男性はまだ家に戻っていなかったそうで事件のことを知りませんでした。大家の70代の女性は難聴のため補聴器を着けて生活をしていたそうで寝ている時は補聴器を外していて物音に気付かなかったと話していました。…大家はダイアナの危険に気付けなかったことを後悔していました。」

偶然が重なり、事件を目撃した人間は居なかった。見えかけていた犯人の虚像が遠ざかる。

皆沈痛な面持でうつむいていた。犯人を捕まえることの出来ず、被害を食い止めることのできなかった不甲斐なさと自分の無力さをシズカは感じていた。他の刑事たちも同じ気持ちだろう。

「皆、ご苦労だった。今後は犯人の特徴をイラスト形式でまとめた看板を現場周辺に出し、目撃情報を募る。夜間外出禁止の勧告とパトロールの強化は継続して行う。各部署にも通達を出した。ここで被害者の特徴をまとめよう。皆、意見を出してほしい。」

シズカは挙手した。

「被害者は、皆22歳~27歳の20代の若年女性に集中しています。」

フィリップが手を挙げた。

「ええと、外見は第一の被害者が金髪、第二の被害者が黒髪、第三の被害者が赤毛です。」

ジャックが手を挙げ、銀縁の眼鏡のつるを押さえた。

「服装の特徴は第一の被害者がジーンズのズボンと黄色いパーカー、第二の被害者が白いセーターと黒いスカート、第三の被害者は上下が紺色のジャージです。」

レオンが手を挙げた。

「被害者の体格は第一の被害者が150㎝代、第二の被害者が170㎝代、第三の被害者が160㎝代です。…外見も美人だけを狙っているわけじゃない。」

シズカは考えた。被害者の特徴は若年女性であることの他に共通点は見られない。強いて言えば露出の低い服装の者が多いということだろうか。しかし、季節を考えればそれは当然だ。家に居たダイアナを狙ったのは前々から犯人が後を付けていたのだろうか。それとも単なる偶然か。

スパイクが手を挙げた。

「犯行の日時は第一の被害者が10月15日、第二の被害者が11月13日、第三の被害者が12月13日です。ちょうど約一か月おきに犯行に及んでいます。」

リチャード警部は顎に手を当てた。

「…犯人は規則的に若い女性だけを狙って犯行に及んでいる。そして暴行は行わない。」

スパイクはもう一度挙手した。

「…警部、三人目のダイアナは家に居て襲われました。もしかすると犯行以前からダイアナに目を付けて狙っていたのではないでしょうか。」

「ああ、確かにそうだ。もしくはベランダに出ていた洗濯物等で女性であると判断したのかもしれない。単なる偶然の可能性もある。やはり、広報を通して特に若い女性の夜間外出を控えるようにと伝えるべきだろう。…そして、もし犯行に今後も規則性があるとすれば、次の犯行が起こるのは1月10日から17日までの一週間だろう。そして第二の犯行と第三の犯行は共に13日に起こっている。特に1月13日には注意が必要だ。」

リチャード警部は皆の情報をまとめた。皆が次の指示を待っている。警部は額を親指で押さえて考えていた。皆犯人を捕まえることの出来なかった不甲斐なさ、次の犯行を許したことへの後悔を抱えている。特に指揮を執るリチャード警部は責任を感じているのだろうとシズカは思った。

「…よって今後の捜査はやはりおとり捜査の継続と犯人についての情報提供を待ち、状況に応じて動く。パトロールの強化や外出禁止令は各部署と連携して行おう。おとり捜査は他の部署に行ってもらう。シズカ、君は納得できないと思うが刑事課は事件の捜査を集中的に行うと決定した。」

シズカははい、と返事をした。エリーたちおとり捜査員の婦警だけを危険な目に遭わせることは納得できない。しかし、それは自分の気持ちを上手く整理できない自分の身勝手なわがままだと気付いた。捜査にはそれぞれの部署の領分があるのだ。その領域を勝手に乱せば、捜査全体に支障が出るだろう。いずれにしてもダイアナから犯人についての証言を得られることができた以上捜査は進展したといえる。シズカはベッドの上で震えるダイアナの手を握ったときの感触を思い出した。恐怖と後悔に苦しみながらも証言をしたダイアナの勇気を無駄にしないために前に進み続けるしかない。そして自分勝手な理由で人を傷つけ、命を奪う犯人を一刻も早く逮捕しなければならない。

12月22日

犯人の特徴をまとめたボードを設置してから捜査本部には数十件の犯人についての情報提供が寄せられ、刑事たちは情報提供者一人一人のもとに赴き、聴取を行っていた。レオンは犯人を見たと証言している男性の待つ場所に車で向かった。自家用車を持っていないレオンは警察が所有する覆面パトカーを運転した。窓の外の景色が流れていく。街が夕日に染まる。連続殺人犯の始めの犯行が起きてから3カ月以上経っていた。タフな刑事たちの中にも疲れの色が見えてきた者もいる。事件発生後30日以内に事件を解決できなかったばかりか警察は2名の犠牲者を出した。三件目の事件が起きた後警察は記者会見を行った。その際に記者達は口々に警察の力不足を批判した。ニュースでも連日事件の情報は流された。国営放送局では市民に夜間外出の自粛を勧告していた。民放各局ではコメンテーターやキャスターが口を揃えて警察を批判した。それも無理もない。証拠が挙がらないとしても被害者を出した責は警察にある。この事件は迷宮入りするのではないかとレオンは感じていた。犯人の顔を目撃したという証言は未だ得られていない。手がかりはダイアナが見たという黒色のコートと身長だ。身長165㎝~170㎝代で痩せた男はいくらでもいる。おまけに覆面で顔を隠していたため年齢は不明だ。黒色のコートは良くあるタイプの物でレオンも似たような物を持っている。暗がりではコートの特徴まで覚えている目撃者は少ないだろう。レオンはファミリーレストランの駐車場に車を停めた。情報提供者とはこの店で待ち合わせをしていた。レオンは車から降り、店のドアを押した。中から食べ物のおいしそうな匂いが漂う店員の若い男性に話しかける。まだ高校生くらいに見える。

「パックさんと待ち合わせをしている者ですが、どちらの席に?」

「ああ、パックさんから承っています。どうぞ、こちらに。」

レオンは店員の礼儀正しい話し方に好感を覚えた。夕方のファミリーレストランにはおしゃべりをする中年女性がちらほらいてテーブルの上にはドリンクバーの飲み物と食べかけのケーキが載っていた。レオンは店員に窓際の二人席に案内された。席には赤い鼻をした白髪の老人が座っていた。顔が赤い。どう見てもしらふではないだろう。

「R市市警のレオンといいます。パックさんですね。」

レオンは席に着いた。

「おお、俺がパックだ。まあ一杯やろうじゃねえか。」

パックは持っていたビールのジョッキを傾けた。

「いやあ、俺も一杯…と言いたいところですが車で来たのでまさか警官が飲酒運転するわけにはいかないんですよ。」

レオンは頭を掻いた。例え車で来てなかったとしても勤務中の飲酒はまずい。

「おお、そうか。兄ちゃんも大変だな。」

パックはそう言うと瓶からまたビールを注いだ。レオンはすみませんねえ、と言った。それから店員を呼んでコーヒーを注文した。別の店員がすぐコーヒーを持ってきた。レオンはそれに少し口を付けた。

「パックさん、連続通り魔事件について何か知っているというお電話でしたよねえ。それを俺に教えていただけませんか?」

「おうよ、俺は毎日連続通り魔事件のニュースを見ていたんだ。犯人は将来のある若者を見境なく殺すんだ。市民は今恐怖で縮み上がっているぜ。」

「まさしくその通りですよ。警察としても事件を早期解決するべく奔走しているのですが、ニュースでご覧になった通り状況は芳しくないんですよ。」

部外者に話してよい情報は報道されている内容のみだ。うかつに捜査情報を漏らしてはならない。

「…そこで俺は事件を推理してみたのさ。これでも俺は若い時は推理小説作家志望だったんだぜ。事件が起きたのは10月13日、11月15日、最後の殺人未遂は12月15日だろう?」

「よく御存じで。」

「じゃあその日の2日前は何の日か判るか?」

いいや、とレオンは首を横に振った。この老人は一体何を言いたいのだろうか。

「…聞いて驚くなよ、10月11日、11月12日、12月11日はマンスリードリームの当選番号の発表日だ!」

「マンスリードリームってあの毎月販売している一等賞1000万の宝くじのことですか?」

マンスリードリームとは一等賞の金額が1000万円であり、一枚100円で買える宝くじだ。レオンも何度か購入したことがある。

「そうだ。だから犯人は毎月マンスリードリームを買っている人間で、宝くじが外れるたびに腹いせで人を殺しているんだよ!間違いねえ!」

パックは腕を組みふん、と鼻を鳴らした。

「ええと、情報提供の内容は以上ですか?」

「ああ、そうだ。まずはマンスリードリームを買った人間をしらみつぶしに当たるしかないな。刑事は足で稼ぐんだよ。」

「…なるほど。」

レオンは考えた例えパックの言ったことが一理あったとしても確固たる根拠もなしにマンスリードリームを買った人間を片っ端から当たることは不可能だ。曲がりなりにも貴重な市民の意見であり、警察官としてくだらないと一蹴するわけにはいかない。それは上司であるリチャード警部の教えでもある。しかし、無駄足だったという気持ちを拭いきれない。

「情報提供ありがとうございました。今後の捜査の参考にさせていただきます。」

レオンは席を立ち、一礼した。

「おう、頑張れよ兄ちゃん。刑事なんてカッコいい仕事じゃねえか。」

カッコいい仕事か、とレオンは思った。警察に批判が集中している中でそう言われると嬉しいような、歯痒いような複雑な気分だ。

「支払は、こっちでしておきますよ。」

レオンは伝票を手に持った。これは経費では落とせない。少ない捜査活動費は厳しく監査されている。情報提供者や事件の関係者と飲食をする場合同僚たちも自腹を切って費用を捻出していた。A国の警察官を含む公務員の給与は財政圧迫と不景気のため年々削減されている。この出費は正直痛い。

「悪いなあ。じゃ、お言葉に甘えて。」

パックはにんまり、と笑った。レオンは会計に向かった。先ほどの若い店員が急いでレジに戻る。高くついたな、と思った。


12月26日

朝礼会議を終え、シズカはリチャード警部に呼び出された。刑事たちは昼間に情報提供者の元に赴き聴取を行っていた。今のところシズカは犯人に繋がる有力な情報を得られていなかった。犯人は手をこまねいている警察を今もどこかで嘲笑っているのだろうか。まだ第四の犠牲者は出ていないもののこのまま犯人を野放しにしていればいつまた次の犠牲者が出るか分からない。シズカはじりじりとした焦りを感じていた。

「シズカ、今日は君に第一の被害者レジーナの友人サリーの元に聴取に行ってほしい。」

第三の事件が報じられてから第一の事件と第二の事件に関する情報提供は絶えていた。事件が起きて二か月経つ。

「二か月後に証言をする、ということは何か思い出したのでしょうか?」

「ああ、通報内容によるとレジーナの取り上げていた卒業論文について気になることがあるそうだ。」

リチャード警部は机に山積みになっているファイルの中から住所を書いたメモを取り出し、シズカに渡した。

「分かりました、行ってきます。」

シズカはサリーの家の住所を確認した。市警と同じA区内にある。そう遠くないだろう。シズカはエレベーターで一階に下り自分の黄色い軽自動車を走らせた。外には昨日の夜に降った雪が泥にまみれ汚れていた。ケーキ屋の店の前には仕舞い忘れたサンタクロースの置物とケーキ30パーセントオフの張り紙が貼られている。昨日はクリスマスだったのだ。シズカはサリーの家に一番近い有料駐車場に車を停め、歩いてマンションに向かった。

道路では冬休みの子どもたちが残ったわずかな雪で雪だるまを作っていた。しばらく歩くと大きなタワーマンションが見えた。グリーンパークマンション、ここがサリーの家だ。シズカはエンタランスに入り、インターフォンで803号室を呼び出した。するとサリーの母親だろうか、少し老けた声の女性が出た。シズカが聴取を行うという用件を伝えると女性は娘なら今家にいます。と言った。するとエンタランスの大きなガラスの自動ドアが開いた。シズカはエレベーターで8階まで上がった。803号室のドアのチャイムを鳴らすと初老の女性が顔を出した。シズカは警察手帳を出した。

「R市市警刑事課のシズカと申します。娘さんから情報提供の通報があったので参りました。」

「…レジーナの事件のことね。あの子の大学に入ってからの一番の友達だから落ち込んでいて、最近様子が変なのよ。だからおかしいことを言ってるの。レジーナが死んだのは呪いのせいだって。だから娘は変な事を話してしまうと思うけれど、それでもお話しを聞く必要がありますか?」

サリーの母親はどうやらシズカをサリーにあまり会わせたくないようだ。それでもサリーはレジーナの事件について何か証言したいから市警に通報したはずだ。もしサリーがレジーナの事件について何か知っているのならば会わないで帰るわけにはいかない。

「報道でご存じだと思いますが捜査状況はあまり良いとはいえません。今は一つでも多くの情報が欲しいんです。娘さんが事件について何かご存じならば、ぜひお話しを伺いたいです。」

「分かりました。どうぞ、上がって行ってください。」

サリーの母親はシズカを玄関に入れた。廊下を通り、リビングルームに入ると緑色のソファーに黒髪の女性が座っていた。サリーの母親はお茶を淹れるわね、と言うと台所に向かった。シズカはソファーの前にあるテーブルを挟んだ位置にあるクッションの上に座った。

「R市市警刑事課のシズカといいます。あなたがサリーさん?」

「…そうよ。」

サリーの長い前髪の隙間から瞳が見える。サリーはどこか暗い雰囲気だった。

「レジーナさんの事件について情報提供をしたいと通報したのはサリーさんですね。ぜひお話しを伺いたいです。」

サリーの母親がトレイから紅茶のカップと器に乗ったクッキ―をテーブルにおいた。クッキーは星やクリスマスツリー、サンタクロースの形をしている。シズカはありがとうございます、とお礼を言った。サリーは口を開いた。

「レジーナの卒業論文のテーマ、知ってる?」

「いえ、存じ上げません。…ごめんなさい。」

一体サリーは何を言いたいのだろ。それはまだ分かりかねる。

「…人狼よ。」

「人狼って狼男のことですか?」

「ええ、そう。レジーナは人狼についての卒業論文を書いていたの。」

実際に存在しない架空の伝承の存在についてどうやって論文を書くのだろうか。

「…私は学部が違ったから詳しいことは知らないわ。レジーナが人狼は昔の風習や文化、概念が生み出した怪物だと言っていた。要するにレジーナは人狼が実在するとは思っていない。ただ、人狼と文化の関連性について扱っていたの。…三年生の秋にレジーナが人狼についての卒業テーマを扱うと言った時、私は反対したわ。だって、呪われると思ったのよ。」

サリーは紅茶に口をつけた。前髪の一本がカップに入った。

「呪われる?」

呪われる、とはどういうことだろうか。

「考古学の発掘で墓を荒らした学者が急死するとか、いわくつきの宝物ってあるでしょう。古いものには長い時代を生きた…なんて言うんだろう、時間とか、人の気持ちとかが蓄積しているのよ。私は昔から博物館とか美術館が苦手なの。そういう気に当てられてしまう。」

サリーの言うことは、なんとなく分かる。

「だから、人狼なんてカビの生えた過去の化け物なんてテーマで扱ったら、良くないって思った。レジーナはそんなの考えすぎよ、って言っていたけど。一年が経って何も悪いことが起きなかったけど、レジーナは殺された。…そして、レジーナが殺されてから、もう一人の人が殺された。次にまた別の人が傷つけられた。」

「…それが、人狼の呪い?」

「私はそう思ったの。レジーナが触れたから、長い間眠っていた人狼、忘れ去られた過去の遺物が目を醒ましてしまった。犯人は人狼に呪われているのよ。夜に狼が目を醒まし、人を殺す。」

サリーはふう、と息を吐いた。サリーの言ったことはあくまでもサリーの主観だ。ただ、レジーナが亡くなって心を壊されてしまったサリーはレジーナのことを思うあまり人狼の符号が事件を繋いでしまった。それを話さずにはいれなかったのだろう。

「…クッキー、食べて。ママの手作りなの。去年はレジーナと一緒に家でクリスマスパーティーを、した…今年も、したかったんだけど…」

サリーの目から涙があふれた。嗚咽がもれる。親友のレジーナを失ったサリーは深く傷ついている。レジーナが亡くなってからサリーの心は壊されてしまった。おそらく精神を少し病んでいるのだろう。シズカはサリーの横に座り、サリーの背をさすった。しばらくするとサリーの息は整った。

「…私は人狼の仕業だって、思うの。そうに決まっている…」

それからシズカはクリスマスツリー型のクッキーをかじった。手作りの、混じり気のない優しい味がした。もし事件が起きなければ、サリーとレジーナはこの家でクリスマスを楽しんでいたのだろう。人狼の仕業。確かに犯人は人狼のような狡猾で血も涙もない人間なのだろう。


12月31日

R市市警、刑事課の第二会議室には捜査官たちが集められていた。会議の開始まではあと10分ほどある。長机が並べれられた会議室の一番前の机にシズカが座っていた。レオンはその隣に座った。

「あと5時間で年越しだな。」

「今年は素直に新年を祝えませんね…」

シズカはうつむいていた。

「どんなことがあっても次の年はやってくるんだ。実家に電話してHAPPY NEW YEARは言わなきゃな。大事なのは切り替えだよ。」

「それもそうですね。」

廊下からはスパイクが自宅に電話している声が聞こえてきた。おそらく奥さんと口論をしているのだろう。娘が熱を出したときや家族との約束を守れなかったときスパイクはよく電話で声を荒げて話していた。

「…だから、今日は捜査会議があるから、帰りは遅くなる。…いや、悪いとは思う。だから、仕事だから分かってくれと言っているだろう。リズには先に寝るように言っておいてくれ。…わかった。ああ、分かってるって。」

スパイクはレオンが刑事課に配属された時には既に結婚していて今年4歳になる娘がいた。いかついスパイクだが妻には弱く、レオンが聞く限り尻に敷かれている。スパイクは娘のリズを大変かわいがっていて娘の事を話すときはにこやかだ。スパイクは遅くなる時は休憩時間にまめに家に電話を掛けている。そんなスパイクの様子がレオンにとっては面白くてしょうがない。スパイクは会議室に入り、ため息をついた。

「スパイク先輩、奥さん怒ってますか?」

レオンはわざと少し面白がるように言った。隣のシズカは黙っている。

「ああ、かんかんに怒っているよ。今年は娘の誕生日会の時も仕事だったからな。」

スパイクはシズカとレオンの後ろの席に座った。するとリチャード警部が資料の入ったファイルを抱えて入ってきた。リチャード警部の撫でつけている金髪は少し乱れていた。連日捜査本部に泊まり込んで他部署が行っているパトロールやおとり捜査の指揮を執っている警部は人一倍疲れているのだろう。人一倍責任感の強いリチャード警部は事件を解決できない責を取るために、自分を苛めるように捜査に取り組んでいた。事件に入り込むな、上手く切り替えろと言う警部だが本人が一番事件に入り込んでしまう性格なのだ。その点はシズカにも通じる部分があるとレオンはふと気づいた。

「皆、情報提供の聴取ご苦労だった。今から情報の整理を行う。スパイクから報告を頼む。」

それから刑事たちは聴取の結果をそれぞれ発表した。聴取で得られたのは黒いコートを着た男の目撃証言が数件だった。証言によるといずれの男も顔かたちが違うため、単なる黒いコートを着ていただけだという可能性もあるため5人の似顔絵を描いて指名手配にかけることは不可能だ。この時期に黒いコートを着た若い男はどこでも見かける。はたしてこの5人の中に犯人はいるのだろうか。

「分かった。今のところ犯人に繋がる有力な情報は残念ながら得られていないと言えるだろう。…皆、これを見て欲しい。」

リチャード警部はホワイトボードにファイルに畳んでいた地図を広げ、マグネットで貼りつけた。A区、B区、C区の境目を中心にしたR市の地図だった。リチャード警部は何をするつもりなのだろうか。

「第一の事件が起きたのは、A区のこの場所、第二の事件が起きたのはB区のここ、第三の事件はC区のここだ。」

リチャード警部は赤いサインペンで事件が起きた場所に丸を付けていった。そしてその丸を線でつないだ。すると、三つの点は均等な距離を取り、正三角形に近似した形となった。レオンは驚いた。みごとな三角形が地図上に浮かび上がった。これは、あまりに不気味だ。背筋が寒くなる。レオンは今までこの一連の事件の犯人は衝動的に犯行を重ねていると信じて捜査を行ってきた。しかし、この浮かび上がった三角形は犯人が計画的に犯行に及んでいたことを示唆している。犯人は、一体どういう人間なのだろうか。

「見ての通り、今までの事件が起きた場所を点で繋ぐとどういうわけか点と点を結ぶ距離は等しく正三角形になる。」

シズカが立ち上がった。

「…それでは、犯人は通り魔的で衝動的な犯行ではなく、計画的の三人の女性を殺傷していた、ということですか?」

「ああ、これは単なる偶然ではないように私には思える。」

「実に、気味が悪いな…」

スパイクが唸った。犯人がリチャード警部の言う通りに地図上に正三角形を作るために三人の女性を殺傷していたとすればレオンはこの事件が刑事になってから経験してきた事件と質が異なると感じた。

「皆の意見を聞きたい。何か気付いたことがあれば話してほしい。」

ジャックが手を挙げ、立ち上がった。

「今までの被害者は地図の地点にいたため、選ばれて殺されたとのだと私は思います。」

確かにその可能性はあるとレオンは思った。トムが挙手した。

「だとすれば、犯人は通り魔的に被害者を殺傷したのではなく前々から被害者の行動を調べ、犯行を行っていた。…そう言えませんか?」

スパイクが手を挙げる。

「そして犯人は一か月ごとに一人ずつ殺傷していった。」

「ああ、本当に犯人が意図的に犯行現場を選んでいたとすれば犯人は地図上で犯行現場の地点が正三角形の図形を描くように被害者の行動等を調べ犯行に及んでいたといえる。そうなるとこれは通り魔事件ではない。…計画的犯行である可能性がある。」

皆が固唾を飲んでリチャード警部の言葉に耳を傾けていた。

「…それでは、次の犯行はどこで起きるのでしょう?」

シズカが言った。確かに次の犯行地点が問題だ。犯人は三角形を描いた時点で満足し、犯行を止めるのだろうか。それともこの三角形は犯人が描く図形の途中なのだろうか。犯人が描いた図が一筆書きの星だったとすれば後何人の人間が殺されるのだろうか。いや、それは考えすぎか?

「今はまだ断定できない。これで犯人の犯行は終わるかもしれない。…とにかくこの三角形のエリアの近辺で犯人は犯行に及んでいる。このエリアの周囲は警戒が必要だ。」

「…犯人は一体何を考えているのでしょう。」

フィリップが呟いた。

「犯人は淡々と自分の目的を達成し、満足している。そういうことかもしれないな。」

スパイクがそう言った。いくら考えても犯人が何のために人を殺すのかが、レオンには分からない。

「…第二の事件のファックス用紙、あれが何かを意味しているのかもしれません。犯人が犯行現場を意図的に演出していたのは第二の事件だけですよね?」

シズカが真っ直ぐ前を向いて話した。今まで忘れがちだったが確かに犯人が現場に痕跡を残したのは散りばめられたファックス用紙だ。レオンは夢で見た血に染まるファックス用紙を思い出した。

リチャード警部が顎に手を当て考え、口を開いた。

「ああ、あれは犯人が何らかの意図があって行った可能性もある。何を意図しているのか、それがまだ分からないが。」

会議室の窓の外は暗く、白い壁に掛けられた味気ないデザインの時計は10時30分を回っていた。

「今後はA区、B区、C区の3エリアの境界付近のパトロールの強化を行うと各部署に通達をしておく。おとり捜査は1月の10日から重点的に同じエリア内で行おう。これから各人交代制で一日休みを取ってもらう。」

レオンから見ても刑事たちの顔には疲労の色が見える。特にシズカは強がって弱さを見せないように振る舞っているが疲弊しているように見えた。化粧気のないシズカの眼の下の隈は目立っていた。やはり体力の面だけで見れば女性は男性よりも弱い。正しい判断を鈍らせないためにもいい加減休養が必要だとリチャード警部は決定したのだろう。それからリチャード警部は交替で休みに入るシフトを発表した。レオンは1月9日が休みだった。その日は一日中泥のように、貪るように眠りたいとレオンは思った。リチャード警部が今日は解散だ、というと刑事たちは皆会議室から出た。廊下でスパイクが電話を掛けている。

「ああリン、今帰る。え、リズがまだ起きている?分かった、今すぐ帰るから待ってくれ。」

スパイクは電話を切った。

「スパイク先輩、リズちゃんパパが帰って来るの待ってたんですか?」

「ああ、そうなんだ。今から帰るよ。」

スパイクは歩いて行った。その背はどこか浮かれている。やはり、面白いとレオンは思った。シズカが会議室に残り、メモをまとめている。立ち上がり、電気を消して出てきた。

「シズカ、悪いけど乗せてってくれないか?もう地下鉄に乗る元気も残ってないんだよ。」

レオンは頭を掻いた。地下鉄に乗るのも面倒だというのは本当だ。それに加えてここ最近暗い様子のシズカが少し心配になった。

「ええ、いいですよ。」

シズカは了承した。


シズカは車を発進させた。隣にはレオンが座っている。

「どこで下せばいいですか?」

「××通りでいいよ。」

それならば15分ほどで着くだろう。大晦日の夜は車が少ない。街灯の明かりが点在している。今はあまり話す気分になれなかった。シズカの中で事件の情報が渦を巻いて混在していた。黒いコートを着た5人の男。リチャード警部が発見した事件現場を結ぶ正三角形。ひと月ごとに殺傷される被害者。第二の犯行現場に意図的に散りばめられたファックス用紙。そこから浮かび上がる犯人は通り魔ではなく計画的に犯行に及んでいるという仮説。

「…さっきのスパイク先輩見たか?」

シズカは思考を止めた。

「いえ、すみません。少しぼんやりしていて。」

「スパイク先輩は完全に奥さんの尻に敷かれてるぜ。親バカだしな。ペットの犬には赤ちゃん言葉で話しかけるのかな?」

「そうなんですか、意外ですね。」

シズカはスパイクが厳しい先輩だと思っていたので少し笑ってしまった。笑ったのは久しぶりのように思えた。

「ジャックは年下の恋人にぞっこんだ。保育士だってさ。いいねえ、保母さんは。トム先輩は二年前に離婚したよ。いまでも未練たらたらだけどな。半年前飲みに行って泥酔して寝ると元奥さんの名前を呼ぶんだぜ。」

「へえ、初耳です。」

刑事課に配属されてから9か月ほどしか経っていないシズカは新しい仕事に慣れるために必死で同僚たちの私生活についてほとんど知らない。隣に座っている一緒に行動することが多いレオンのことさえ詳しくは知らないのだ。そしてシズカも自分の事について多くを語っていないことに気付いた。夜の闇は静かに死んだように冷たかだ。レオンは少し黙っていた。

「お、0時だ。今年もよろしく頼むわ。」

レオンはにやり、と笑った。

「ええ、こちらこそよろしくお願いします。」

それからレオンはここでいい、と言ってシズカに礼を言うと歩いて行った。レオンはおそらく自分を気遣ってくれたのだろうとシズカは思った。シズカは車のラジオを付けた。新年を祝うイベントが行われている音声が聞こえる。アナウンサーだろうか、若い女性の華やいだ声が聞こえてきた。今はR市中の人々が新年を祝っているのだろう。そんな市民の安全な生活を守りたい。シズカはそう願って警察官になった。その信念を果たすためには、明日に向かって歩み続けるだけだ。


1月11日

シズカは家で小さなテレビを点け、ベッドの上でまどろんでいた。何日ぶりの休日だろうか。時刻は19時を回ったころだ。先ほどまで昼寝をしていてさっき目を醒ました。昼食は久々に自炊をしてナポリタンを料理した。大学を出て警察官になってから一人暮らしを始めたせいかシズカの生活は乱れ気味だ。料理の腕もあまり良くない。テレビでは国営放送の教育番組を流していた。タイトルは「みんなの名月集」だ。視聴者が自分の撮った月の写真を投稿し、それを流しながら月の満ち欠けについて大学教授が説明していた。若い男性アナウンサーがぎこちない笑みを浮かべていた。まだ新人なのだろう。かわいらしい雰囲気の男性だ。エリーが好きそうなタイプだと思い、シズカは少し笑ってしまった。大学教授の女性は白髪と金縁の眼鏡を掛けた上品な雰囲気だ。満月について、月の満ち欠けは29.5日で循環する。ちょうど月経と一致しているとシズカは気付いた。窓の外はもう暗くなっている。少し眩しい。今年の満月の日を教授は説明していった。10月15日、11月13日、12月13日、次は1月11日、なるほど今日が満月なのだろう…シズカは凍りついた。10月15日、11月13日、12月13日、いずれも連続女性殺傷事件の第一の事件、第二の事件、第三の事件に完全に一致している。シズカは跳ね起きた。間違いない。番組は再び視聴者の写真投稿コーナーに戻った。シズカの手が微かに震えた。今まで感じたことのない戦慄が走る。犯行の日が満月の日と一致している。これは単なる偶然ではないはずだ。犯人は意図的に満月の日に犯行に及んでいる。そして犯行時刻はいずれも夜だ。犯行時の天気はいずれも晴れだった。空には満月が浮かんでいたはずだろう。犯人は人狼、狼男に決まっているわ。サリーの言葉が頭をよぎった。満月に狂気のままに人を殺す狼男。サリーの言っていたことは間違いではなかったのだ。して犯行地点を結ぶと正三角形が浮かび上がる。その仮説が正しいならば、次の犯行は明日である可能性が高い。シズカはコートを着て身支度を整えると家を出た。一刻も早く同僚の刑事たちにこの仮説を伝えなければならない。


R市市警刑事課のフロアでは刑事たちが待機していた。8時からは刑事たちもパトロールに参加する予定だった。次の犯行が起こるとしたら1月10日からの5日だ。レオンは自分の机に座り、コーヒーを飲んだ。口の中に苦みが広がる。斜め向かいの席ではスパイクが貧乏ゆすりをしている。捜査状況は煮詰まっていた。証拠は残されていない、目撃情報は少ない。犯人が別の犯罪で偶然逮捕され、現場に残されたDNAを照合し、一致しない限り事件の解決は難しいのではないか。また、誰かが殺されるのか。視線を宙に漂わせた。その時エレベーターから人影が見えた。シズカだ。今日は休日のはずだ。一体どうしたのだろうか。シズカは大股で勢いよく歩いた。短い黒髪が乱れている。様子がおかしい。そしてリチャード警部の机の近くに立った。リチャード警部は訝しげな表情を浮かべている。シズカは軽く息を吸い、口を開いた。

「皆さん、聞いてほしいことがあります。犯人は、満月の日に犯行に及んでいます。」

「シズカ、どういうことだ。詳しく話してくれ。」

リチャード警部が体を乗り出した。

「はい、去年の満月の日は10月15日、11月13日、12月13日です。」

刑事たちがどよめいた。レオンも驚いた。確かに満月の日と犯行の日が一日も違うことなく一致している。

「そして、1月の満月は1月11日、今日なんです。」

リチャード警部は顎に当てていた手を放した。

「その説が正しいとすれば、犯人は満月の日ごとに3人の人間を殺傷したことになる。するとこれまでの被害者にも何らかの符号が存在する可能性がある。特に、月に関する何かがあるのかもしれない。」

皆が黙り、考え込んだ。

「特に、二番目の現場に残されたファックス用紙に関連する何かがあるかもしれませんね。」

スパイクが唸り、角刈りの頭を抑えた。ジャックが銀縁の眼鏡の鼻当てを押さえた。

「…あ!」

ジャックが顔を上げた。皆がジャックの方を見た。

「ファックス用紙等のコピー機用の感光材料として、セレンが含まれています。セレンの語源は古代ギリシャの月の女神、セレネに由来すると聞いたことがあります。」

工学部出身のジャックだからこそ分かったのだろう。シズカが声を上げた。

「第一の被害者、レジーナは卒業論文で人狼について扱っていました。人狼は狼男です。月と関連があります!」

月の符号が二つ、揃った。最後の一つの符号をレオンは考えた。

「…ダイアナの名前だ。ダイアナは確か月の女神の名前だ。娘に読んだ絵本に載っていました。」

スパイクが言った。これで第一の事件、第二の事件、第三の事件が月という共通項で繋がった。リチャード警部が机の上の物を避け、地図を広げた。3つの犯行現場を正三角形で結んでいる。皆が固唾を飲んで地図を見つめている。

「あのー、三角だとすれば、次は正方形じゃないですかね…?」

フィリップがおずおずと手を挙げた。

リチャード警部が二つの点から定規で2本の線を書き加えた。二本の線が交わり正方形を描いた。その四番目の交点はB区の空き地だった。

「…今日の犯行は、この場所で起きるんでしょうか。」

シズカが言った。

「いや、犯人は正三角形を描いた時点で満足したのかもしれない」

レオンは思わず口に出した。

リチャード警部は交点を指さした。

「犯人は今夜、この場所で犯行に及ぶだろう。」

「この場所は、20年前に廃院になった精神病院だ。今は廃墟となり、そのまま残っている。」

リチャード警部は顔を上げた。

「Loony binだ。おそらくここが犯人の犯行の最後の場所だ。」

Loony binは精神病院を呼ぶときに使う古い言い方だ。その言葉のつづりには確かにLoon、月が隠れていた。

皆がリチャード警部の方を見た。皆が犯人の散りばめた月の符号を読み取ってしまった。この計画的な犯行に、レオンは計り知れない狂気を感じた。犯人は一体何が目的なのだろうか。

「今からこの場所にこの近辺で捜査を行っているおとりの婦警を行かせる。我々も現場に向かう。念のため銃を携帯すること。皆、犯人に気付かれないように慎重に行動するように。以上!」

「了解!」

刑事たちは皆リチャード警部に敬礼した。それぞれが鞄から自分の銃を取り出しエレベーターで駐車場に下り、捜査用のワゴン車とセダンに乗り込んだ。レオンが空を見上げると晴れた雲一つない漆黒の空に、黄色い丸い月が浮かんでいた。


刑事たちが乗ったワゴン車とセダンは1時間ほどでB区に向かい、精神病院の廃墟より500メートルほど離れた道の路肩に止められた。ワゴン車の中でリチャード警部は携帯電話で電話を掛けた。

「おとり捜査のエリー巡査とハムレット巡査がいまこちらに急行しているそうだ。」

近くにいたのはどうやらシズカの友人、エリーらしい。

「私とスパイク、ジャック、フィリップ、シズカ、レオンで先に廃墟に潜伏し、犯人が現れるのを待つ。トム、ラッセル、オリバーはここで待機してくれ。」

リチャード警部がワゴン車の中で指示を出した。

「分かりました。連絡次第で動きます。後ろに乗っている連中には俺が連絡します。」

トムが返事をした。リチャード警部を先頭に、スパイク、ジャック、フィリップ、シズカ、レオンが続いた。シズカは少し自分が緊張していることに気付いた。夜空には不気味なほどに輝き、黒い空に映える黄色い満月が昇っていた。落ち着け、冷静になれ。シズカは腰のホルスターに納められている銃を撫でた。この銃はシズカが銃使用免許を取得した17歳の時から使っている拳銃だ。シズカはこの銃で半年前に、初めて人間を撃った。病院の裏口に着いた。薄暗く、街灯の無い道路で月明かりに照らされた病院の姿が見えた。病院はマンションほどの大きさで、4階建てだ。門には関係者以外立ち入り禁止と書かれたプラスチックの立札があった。リチャード警部は門から病院の敷地に入った。刑事たちも警部に続く。病院の駐車場を抜けると鉄の扉が見えた。リチャード警部が扉を引くと開き、その先には廊下が広がっていた。リチャード警部は扉の下を見て南京錠を拾った。南京錠はニッパーのようなもので切断され、断面は飴細工を切った時のような状態だ。

「…鍵が壊されている。」

スパイクが呟いた。

「犯人が鍵を壊し、既に建物の中にいる可能性がある。」

リチャード警部が言った。

「…だったら、急がないとまた誰かが殺されてしまいます。」

シズカは焦る気持ちが胸の中から上がってくるのを感じた。

「ああ、中に進もう。」

リチャード警部はためらうことなく病院の中に入った。廊下の窓から漏れる月明かりが薄暗い病院を照らしている。白い床にはほこりが溜まっている。刑事たちが廊下を抜けると三方向に通路が枝分かれしていた。

「私とジャックが右の通路、スパイクとフィリップが中央の通路、シズカとレオンが左の通路だ。」

刑事たちは三手に分かれたシズカはレオンに続き、左の通路へ向かった。レオンは足音を立てないが速足で歩いていた。しばらく真っ直ぐ続く路を歩くとその先には透明なガラス製の扉が破られていて、奥に階段が続いていた。精神科の病棟は入院患者の出入りが制限されていて、扉には鍵が付けられていると精神科に入院している叔母がいる昔の友人が言っていたのをシズカは思い出した。ガラス戸は完全に粉砕されていた。ガラスの細かい破片があたりを埋めている。レオンは下に散らばっているガラスの破片を見渡した。

「シズカ、ここを見ろ。」

レオンがガラスの破片を指さした。するとそこには僅かな赤い液体が付着していた。おそらく血液だろう。

「…これは、新しいものです。」

「ああ、今この病院には、間違いなく何かが、いる。」

犯人はもしかしたら気絶させた女性を連れてガラス戸の向こうに行ったのではないかとシズカは思った。女性に意識があり、まだ生きているかは現時点では分からない。もし生きているならば一刻も早く助け出さなければならない。シズカは拳を強く握った。レオンは階段を上り始めた。シズカも後に続く。青色の階段は幅が狭い。脚元をネズミだろうか、小動物の影が走って行った。階段を上ると二階の病棟の入り口に出た。レオンが扉の取っ手を何回か引き、押したがびくともしない。二階の病棟の鉄の扉の鍵は掛けられたままだ。レオンはまた階段を上った。三階の病棟の鉄の扉もびくともしなかった。犯人がこの病院にいるとしたら、今、どこに居るのだろうか。病院の内部の構造は鉄の扉やガラス戸で遮断され、複雑だ。犯人は裏口の鍵を壊していた。鍵を開けられない、ということは犯人はこの病院の関係者ではないはずだ。犯人が扉の先に進むためには扉を破壊しなければならない。だからレオンも壊された扉を探しているのだろう。四階に上がるとレオンは四階の扉を押した。四階の扉は開かない。さらに階段を上ると、屋上と黒い文字で書かれた灰色の小さな扉があった。この先は行き止まりだ。犯人がいるとすれば、この先しかない。

「シズカ、銃を用意しておけ。」

レオンは懐から銃を取り出した。シズカもホルスターから銃を抜き、下に構えた。

「3、2、1で俺が扉を開ける。俺の後ろに続くんだ。」

レオンが小声でささやいた。

「はい!」

シズカは返事をした。銃を握る。できることなら引き金を引かずに済ませたい。シズカの頬に汗が伝った。

「3、2、1!」

レオンが扉を開け、外に出た。シズカもレオンの後に続いた。外の冷たい風が扉に吹いた。シズカは外をめがけて走った。


コンクリ―トの上に白いペンキを塗った屋上は、黒い空に浮かぶ月が照らしていた。屋上の中央に白い眩しいワンピースを纏った10代後半くらいのブロンドの長い髪の女性が横たわっていた。女性の周辺には白い百合の花が2、3本飾られていた。女性は死んだように目を開かない。第一の被害者、第二の被害者のように刺された痕は見受けられない。おそらくまだ生きているだろう。風が吹き、女性のワンピースが広がり、ブロンドの細い髪が揺れた。その横に、黒いコートを着た痩身の男が立っていた。髪形は短い黒髪だ。男の顔はこちらからは見えない。男の頭上には不気味な黄色い満月が浮かんでいる。満月に血に飢え人を襲う人狼。サリーの言葉がシズカの頭をよぎる。ダイアナの証言と現場に残された鑑識が被服の繊維から特定した黒いコートを思い出した。その写真のコートとこの男が着ているものは、非常に良く似ている。男の手には光るものが見える。ナイフだ。このままでは女性が殺されてしまう。シズカは反射的に銃を構えた。この男がR市中の人間を戦慄させた狂気的な計画殺人を企てたのだ。四か月間追いかけても捕まえることのできなかった犯人に、今、シズカとレオンは直面している。

レオンが男に銃口を向けた。

「警察だ。ナイフを置け。お前を傷害未遂で現行犯逮捕する。」

男が振り返る。シズカは驚いた。この男が本当に今までのおぞましい計画殺人を企てた犯人なのか?

男は目だけがぎらりと光っていたが顔の稜線が未熟で、まだ20代にも満たない高校生くらいの年齢に見えた。男は頬の下を切っていた。ガラスを割ったときの傷なのだろう。先ほど病院の一階で発見した血痕はこの男のものだとシズカは思った。

「…遅かったな。」

気が付くのが遅かった、ということだろう。この男の言葉でシズカはこの男が犯人であることを確信した。間違いなくこの男は月の符号を共通点とした殺人計画を企てたのだろう。男の握っているナイフは月明かりに反射し、鋭い光を放っている。この狂気がレジーナとジェニーの命を奪い、ダイアナを傷つけたのだ。

「…遅い、それはどういうことだ?」

レオンの口調は穏やかだった。

「…おかげで最後までゲームができた。」

男は独り言のように言った。卒業を控えていたレジーナ。仕事が軌道に乗ってきたジェニー。傷つけられて恐怖に震えていたダイアナ。一人娘を殺されて生きる希望を失ったジェニーの両親やその友人たち。親友を失って心を壊されて、涙を流していたサリー。この事件で生を奪われ、人生を狂わされた被害者とその遺族たちの顔がシズカの脳裏に次々と浮かんだ。その全員がシズカの目の前に立っている男のせいで幸せな生活を奪われたのだ。その深い悲しみを、男はゲームだと言った。男はゲームを楽しむ感覚で、殺人計画を考え、実行したのだ。シズカの胸の奥に怒りが黒い染みとなって広がる感覚を覚えた。何があっても、この男を逮捕しなければならない。そのためには決して怒りを露わにしてはいけない。シズカは歯を食いしばった。

「その女性は誰だ?」

レオンが尋ねる。女性はまだ目を閉じていた。

「…近くの通りで会った。金を見せたらついてきた。白いワンピースを着ていて、ちょうどいいと思った。」

「なぜ、2人の人間を殺し、1人の人を傷つけた?」

「…俺は死ぬ前に、大きなことをしたかった。他人ができないようなことだ。自分で考えた計画を実行して、この4か月間だけが俺の人生の中で、生きていると実感できた。自分はここに存在していると感じることができた。」

男は表情を変えない。

シズカの背筋が寒くなった。男の短い言葉では全てを推し量ることはできない。しかし、男にとって残虐な犯行を行った4か月が最も充実していたということだ。この男には被害者の感情などは関係ないのだ。

「…この女が最後だ。」

男が女性の横にしゃがみ込み、女性の頭を撫でた。女性は目を醒ます気配がない。シズカは銃口を向け、撃鉄を下した。男が女性に危害を加えようとしたら、男を射殺しなければならない。

男は立ち上がった。

「これで最後なんだ、邪魔をしないでくれ。」

男は横を向いた。女性を刺殺すつもりなのだろうか。シズカは銃口を男に向け、叫んだ。

「動かないで!その人を傷つけるなら、撃つ!」

男は欲求を満たされずに、いらだちや不満などの自分の感情を整理できなくなってしまった小さな子どものような表情を浮かべた。それからナイフを自分の頸に当てた。自殺する気だ。レオンが叫んだ。

「シズカ、撃て!」

ここで男に死なれたら、事件の全容を解明することはできない。シズカは銃の標準を定め、男の足首を狙い、引き金を引いた。一発の銃声は20年前から時が止まった精神病院の静寂を突き破った。銃弾は男の足首に命中し、足首から血が流れ、男は足を押さえ、うずくまった。男の手からナイフが落ち、白い屋上の床に落ちた。白い床に男の血液の飛沫が飛んでいた。レオンは駆け寄り、男が落としたナイフを拾った。男は呻いている。屋上の扉が開き、リチャード警部とジャックが駆け寄った。レオンは消防署に電話し、救急車と応援のパトカーを要請している。

「この男が犯人なのだな。」

リチャード警部は男の横に立った。

「はい、この間違いありません。この女性に危害を加えようとしていました。そして自殺を図ったので、止むを得ず足首を射撃しました。」

シズカはリチャード警部の質問に答えた。男は足を押さえ、体を曲げ、苦しんでいる。銃を使わずに済むなら、撃ちたくはなかった。自分の選択は本当に正しかったのかとシズカは自分に問うた。だが、結論はやはり射撃し

た選択は間違っていない。あと少しレオンの指示に自分の行動が遅れていれば、男は自分の頸を掻ききって死んでいただろう。しかし、例えこの男が三人を殺傷した殺人犯だとしても、自分が銃弾で男を傷つけたことは事実だ。

「分かった。よくやった。」

男が絞り出すような声で悲鳴のように叫んだ。

「…一生刑務所に入るぐらいなら、死んだ方がましだ…心臓を撃てば、よかったのに…!」

死刑制度が数十年前に廃止されたA国の最高刑は終身刑だ。この男はまだ若い。三人もの人間を殺傷したのだ。男は一生を刑務所で終えるだろう。この男は人を殺しておいて、自分の身は守りたいのだ。あまりに未熟で、身勝手な言動だとシズカは思った。隣にいるスパイクは顔を真っ赤にした。

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!?お前は三人の人間を殺傷したんだ!この後に及んで自分の身を案じるのか?我がままを言うのもいい加減にしろ!」

スパイクは今にも男に殴りかかりそうだ。

「スパイク先輩、落ち着いて」

フィリップがスパイクをなだめる。リチャード警部は身に付けていたこげ茶色のコートのポケットから手袋を取り出し、手にはめた。大きめの紺色のハンドタオルを取り出し、男に歩み寄り、男の傷口をきつく縛った。男が呻いた。

「もうすぐ救急隊が来て君の傷を治療するだろう。痛むか?」

リチャード警部は穏やかに犯人の男に話しかけた。男が黙って頷く。

「君は生きていても足首の傷が痛むだろう。だが、君が命を奪ったレジーナとジェ二―は君の何倍も強い痛みに苦しんだ。そして死んだ。二人はもう二度と目覚めることはない。君が傷つけたダイアナは何針も縫う大けがをして、今も恐怖に震えている。君がやったことは、そういうことだ。それだけは覚えていなさい。」

男は黙っていた。病院の屋上を月光が照らして白い床に反射し、輝いている。男は何を思って月にちなんだ殺人を計画したのだろう。月の光は静かに男の上に降り注いでいる。この男が逮捕され、法で裁かれたとしても命を奪われることはない。男はまだ若い。これから一生罪を償わなければならない。シズカは女性の傍に屈み、女性の肩を揺らした。

「大丈夫ですか、意識がありますか?」

女性の目がゆっくり見開かれた。女性は怯えた表情を浮かべた。女性の黒い瞳に月の光が映る。女性はまだ若く、学生のように見えた。

「…さっきの人は?」

シズカは女性の手を握った。さっきの人、という言葉にシズカは僅かな違和感を覚えた。

「もう大丈夫です。犯人は逮捕しました。安心してください。私たちはR市市警の刑事です。」

「…犯人?…そう。」

この女性は犯人に強制的に連れ出された訳ではないのだろうか。

「お名前を教えてください。」

「…ナミよ。」

並は上体を起こした。シズカは犯人の方に目を遣った。すると犯人の男を同僚の刑事たちが囲んでいるため、こちらからは男の姿はよく見えない。男の言葉からは判断できないが、おそらくナミは裏通りに立ち、客を待っていた所男に声を掛けられここまで連れてこられたのちに男になんらかの方法で気絶させられていたのだろう。ナミが10メートルほど離れた場所にいる犯人と鉢合わせしてはまずい。早く応援で呼んだパトカーに移動させた方が良いだろう。

「立てますか?」

「ええ、多分。」

ナミはゆっくり立ち上がり、少しよろめいた。レオンが歩み寄った。

「俺がおぶって下まで降りる。四階分の階段を下るのは無理だろ。」

レオンはしゃがみ、ナミはレオンの背中におぶさった。そしてレオンが歩きはじめた。シズカも二人に付き添った。ナミは三階を過ぎたころで眠ってしまったようだ。ナミの息遣いが傍を歩くシズカにも微かに伝わる。ナミは、確かに生きている。あと少し遅れていれば、ナミは死んでいただろう。生きていてくれて、本当に良かった。シズカの胸から想いがこみ上げ、目頭が熱くなった。レオンは階段を踏み外さないように慎重に階段を下っていた。

「終わった、な。」

レオンが呟いた。

「ええ、これで本当に終わりました。」

パトカーのサイレンの音が鳴り響いた。


1月16日

シズカに射撃された足の傷の治療を終えた犯人の男が聴取室の椅子に座っている。向かい側にはリチャード警部が座っている。後ろではトムが記録係として入っていた。レオンはリチャード警部の横に立っている。これからこの男の聴取を開始する。

「君の名はノワール、個人ナンバーT29234で年齢は17歳。私立××高校二年生で間違いないか?」

ノワールは黙って頷いた。シャツとズボンを着たノワールは廃墟で逮捕した時よりも、ずっと幼くあどけなく見えた。こんな子どもが3人の人間を殺傷したことは信じがたい。だが、まぎれもなくノワールは連続婦女殺害事件の犯人なのだ。マスメディアは競って容疑者確保を報道した。ノワールが月から連想した計画殺人を企てたという真実を警察はマスメディアには伏せてある。初めは事件の内容を冷静に報道していたマスコミやテレビ局だったが、今ではこの猟奇的犯行を面白がるようにコメンテーターや心理学者を呼んで事件の解説をしたりノワールの同級生や家族に執拗にインタビューしたりするようになっていた。ノワールの罪は重い。そして決して許されるべきものではない。しかし、このように興味本位の報道はレジーナ、ジェニーの遺族やダイアナにとっては苦痛のはずだとレオンは感じた。リチャード警部は机の上で両手を組んだ。

「君は10月15日の23時頃に帰宅途中の大学生レジーナをA区の××公園で刺殺した。」

リチャード警部はレジーナの生前の顔写真をノワールに見せた。

「…はい。」

ノワールはうつむいた。

「11月13日の22時頃にB区のオフィスに侵入し、会社員ジェニーを刺殺した。」

リチャード警部はジェニーの顔写真を掲げる。

「…はい。」

ノワールの表情は暗い。

「12月13日の22時30分にC区のアパートに侵入し、接客業のダイアナを傷害した。」

リチャード警部はダイアナの写真を見せた。

「…そうです。」

「1月11日にB区の××病院の廃墟で娼婦のナナを睡眠薬で眠らせ、殺そうとした。」

「…間違いありません。」

ノワールは黙った。リチャード警部は頷いた。

「…君は、なぜ2人の人間を殺し、2人の人間を傷つけようと思ったのか、教えてほしい。」

「…今さら何を言っても、言い訳です。」

ノワールは頭を抱えた。

「その言い訳を、私たちに聞かせてほしい。」

リチャード警部は言葉を乱すことなく、ノワールに語りかける。

「…俺は、17年間生きてきて、俺はゼリーの中にいました。」

ゼリーとは、どういう意味なのだろうか。レオンには分かりかねた。

「それは、どういう意味なのか?」

リチャード警部はノワールに問うた。

「何をしていても、生きているという実感がありませんでした。その状態は、半透明のゼリーの中にいたとしか言い表せないんです…。俺の両親は国立大学卒業のエリートです。俺は一人息子です。俺は、小さなころから勉強が上手くできませんでした。上手くできない、といってもクラスで40人中30番目くらいです。でも、その成績は母親と父親を満足させるものじゃなかった。俺が小学生だった頃、両親は俺を医者にすることが夢でした。これは、他の家でも同じだと思います。でも、俺はいくら頑張っても両親の満足する結果を残せなかった。中学受験でも国立の中高一貫校に落ちました。そして、第二志望の今の中高一貫の私立学校に入ったんです。」

ノワールの通っている××高校は偏差値だけで見ればあまり高い位置にいるとはいえない。

「13歳、14歳、15歳に上がるにつれて、親は俺に失望しました。毎晩俺のことで激しい口論をしていました。俺はだんだん生きるのが、いやになりました。去年の5月から、学校にも行かなくなりました。そして、死のうと思いました。でも、死ぬ前に、何か大きいことをしたいと思いました。俺が歴史に名前を残す方法、忘れられない方法、それは大きな犯罪をすることしかないとその時、思いました。」

ノワールの境遇はノワールにとっては悲劇だが、ありふれた話だ。ノワールの身勝手な犯罪は決してノワールの家庭環境のせいだけではないとレオンは感じた。目の前のノワールは事件を後悔しているように見える。半透明の揺りかごのようなゼリーの中で夢うつつのように人を殺した青年は、ゼリーから引きずり出され、自分の犯した罪の前で懺悔しているのだとレオンは思った。リチャード警部はノワールの自己中心的な言い分を黙って聞いていた。

「そして、連続殺人を、考えました。」

ノワールは黙った。もう思い出したくないのだろうか。

「…そして、月に共通する人間を選び出し、最終目標をB区の精神病院の廃墟に決定し殺人を行った。この犯行を行うためには周到な準備を行う必要がある事は君が良く判っているはずだ。被害者の行動パターンを調査し、満月の夜に誰にも気づかれずに殺す必要があるだろう。どうやって被害者の行動パターンを調べた?」

「…始めの人は、SNSで人狼の研究をしていると言っていました。顔写真も載っていたし、どの辺に住んでいるかも発言を見れば大体分かりました。…だから、9月にC区の公園の前でその人を待った。そしたら、本当に、その人は現れた。それから一週間俺は毎日公園でその人の行動を調べた。」

実に周到な計画だ。ノワールは自分の行動をリチャード警部に懺悔するように吐き出した。リチャード警部はノワールを非難することも、怒ることもなく、懺悔を受け入れる司祭のようにノワールの言葉に耳を傾け、時おり頷いた。

「…そして、10月15日に、その人を殺しました。…ナイフで、後ろから、刺しました。」

ノワールの声が震えた。ノワールが殺人に利用したナイフはノワールの父が海外旅行からノワールへの土産で買った民芸品だった。だから、A国内の刃物のデータと全く一致しなかったのだ。それをノワールが計算して行ったのかはまだ分からない。だが、凶器を特定できなかったため、捜査は難航したのだ。

「道で、刺して、…こ、公園に置きました。」

「…それから11月にB区の会社が、たくさんある所の中で、正方形の第二の点の範囲内で一番警備が薄そうな会社を探しました。そこの会社に夜に行くと、女の人が出てきました。また一週間にその会社を夜に見張っていると、水曜日と土曜日にその人が夜中に会社から出てきました。だから、その人にしようと思いました。」

ノワールは絞り出すように話した。レオンは確信した。やはり、オフィスの監視カメラの故障は不幸な偶然だったのだろう。

「そして、11月13日の満月の日に、会社のドアからその人が立ち上がるのを待って、立ち上がったところを、後ろから、刺しました。そして、会社の備品から、ファックス用紙を、ばらまきました。」

ノワールの手が震えはじめた。今になって事の重大さが身に染みているのだろう。ゼリーの膜に包まれ、夢を見るように殺人を行ったノワールは、今ゼリーの外に引きずり出されたのだ。

「そして、12月にインターネットC区のキャバレーのホームページを見ました。その中に、ダイアナという名前の人がいました。そして、その人のSNSを探したら、住んでいると場所がなんとなく分かりました。そこは、ちょうど正方形の第三の点の範囲に入っていた。だから、その人に決めた。」

「それから、12月13日に、その人のアパートに行きました。そして、前から刺して殺そうとしました。」

ノワールの口から懺悔の言葉は次々と溢れた。

「1月11日を、最後だと決めていました。まさか、ここまで簡単に、人を殺せるのか、最後まで計画を終わらせることができるとは思っていませんでした。それから、B区に行って、裏通りに立っていた売春婦に声を掛けました、金をやると言ったら着いてきました。そして、精神病院の廃墟の屋上に上り、睡眠薬を入れたワインを飲ませて、眠らせて、殺して、自分も死のうと思っていました。」

「…そこで、私たち警察が現れた。」

「…そうです。今になって気付きました。俺は、2人を殺して、2人を傷つけた。恐ろしいことをしました。初めは妄想だった計画も、一人目の人を殺したとき、自分を止められなかった。何かに、突き動かされるみたいに、やめられなくて、次々と、人を、俺は、俺は…」

ノワールは泣き、頭を机に打ち付けた。感情が高ぶったのだろう。レオンは後ろからノワールを羽交い絞めにした。17歳の青年の力は強かった。トムも助けに入り、二人がかりでノワールを押さえつけた。

「…俺を、殺してください、俺は2人を殺した、だから、俺も死ぬべきだ…死ぬべきなんだ…いや、死ぬつもりだったのに…」

リチャード警部は立ち上がり、ノワールの横に屈んだ。

「君の犯した罪は、決して許されはしない。二人の被害者は死に、もう二人の被害者は一生事件の影を引きずるだろう。そして遺族は今も嘆き、悲しんでいる。君はその人たちの大切な人たちの命を奪った。この国の司法に死刑は存在しない。死ぬことはできない以上君ができる償いは、なんだと思う?」

「…分からない。…分からない。」

「罪を償い、自分の犯した行為を一生忘れずに、生き続けることだ。刑務所で毎日労働し、罪を償う。刑務所はそのために君に用意された場所だ。」

ノワールは顔を上げた。

「君が生きている内に出所できるかは裁判が始まっていない以上私が断定することはできない。だが君の刑務所での生活は何十年にも及ぶだろう。どう過ごすかは、君次第だ。」

ノワールはリチャード警部の背広に顔を埋めて泣いた。リチャード警部は黙ってノワールに寄り添っていた。

ノワールの連続殺人が完遂されたことは類まれなる偶然だ。ノワールの計画はあまりにずさんで、穴だらけだ。仮にレジーナが10月15日に公園の前を通らなければ、11月13日にジェニーが残業をしていなければ、監視カメラが故障していなければ、12月13日にダイアナが家にいなければ、犯罪は終わっていた。だからこそ、遺族はその日の行動を一生悔やみ続けるのだろう。4人の人間を殺傷した青年は、ただ自分の犯した罪を悔い、ただ、ただ、涙を流していた。時間を戻すことは不可能だ。時の流れは、遺族たちにも、ノワールにも不可逆的に訪れる。


ノワールの聴取が終わり、ノワールの身柄は拘置所に移されることになった。ノワールは聴取室を出る前に、振り返った。

「…あなたに会えて、良かった、そう思います。」

リチャード警部は黙って頷いた。ノワールの姿は二人の警官に引き立てられ、廊下の角を曲がったきり見えなくなった。

「これでこの事件は終わりだ。」

レオンは口に出した。

「…あんな子どもが、4人の人間を殺傷したとは、今でも信じられないな。」

後ろの机で記録をしていたトムが呟いた。

リチャード警部は黙って目を瞑っていた。リチャード警部は誰にも私生活を明かしたことがない。一番付き合いの長いスパイクでさえ警部の家族構成も知らないのだ。相手の感情を乱さず、冷静に情報を聞き出すのはリチャード警部が最も得意とする方法だ。その手腕を買われ、リチャード警部は異例のスピードで警部まで昇進したという噂をレオンはトムから聞いたことがある。なぜ、こんな少年が人を殺したのか。そのやりきれない気持ちでリチャード警部も参っているようだ。おそらく全員の刑事が同じ思いだろう。


1月18日

シズカはラッセルと共にノワールの母親の聴取を終えた。ノワールの母親は落ち込んだ表情でシズカの前に座っている。さっきまで母親は混乱した状態だったが、今は落ち着いていた。母親の話によると、ノワールは二年生に進級してから休みがちになり、5月から全く学校に行っていなかったそうだ。そして、引きこもりの状態が続き、9月頃から急に夜中に外出するようになった。共働きのノワールの両親は、仕事に忙しくノワールの行動を気に留めていなかったため、ノワールの犯罪に全く気付いていなかった。ノワールは返り血の付着したコートを家のクローゼットの奥にしまい込み、同じコートを買っていたそうだ。母親はノワールが逮捕されたのち、家宅捜索に訪れた警官がノワールの部屋のクローゼットを開けたときに丸められた血の付いたコートを見て初めて自分の息子が殺人を犯したと理解したと話していた。

「…なぜ、もっと息子と向き合わなかったのか、後悔しています。…ご遺族の方に、どう謝ればいいのか…いいえ、謝ったところで娘さんたちは戻ってこないんです…」

母親は嗚咽をもらし、泣いた。母親は連日マスコミの取材に追い回され、家にも非難の手紙や電話が殺到していた。

「…お母さん、時間を戻すことはできません。ただ、ノワール君の家族は、この世にたった二人のお母さんとお父さんだけなんです。そして、例え犯罪を犯したとしても、ノワール君はあなたたちご夫婦のたった一人のお子さんなんです。…ノワール君はこれからとても長い間、刑務所で過ごすでしょう。離れ離れだとしても、ノワール君に本当に寄り添うことができるのは、ご両親だけだと私は思います。」

シズカは母親に語りかけた。自分がノワールの母親の気持ちが分かる、とは簡単に言えない。当事者にしかその気持ちは分からないだろう。それでもシズカの気持ちに嘘は無かった。シズカは4人の人間を殺傷したノワールを許すことはできないし、ノワールの行動は肯定できない。今でも被害者とその遺族や友人たちの顔を思い出すと、悲しい気持ちになる。ただ、ノワールを憎む気持ちにはなれなかった。母親は顔を上げた。

「…そうですね、あの子にとっては、私たち夫婦だけが、唯一の肉親ですものね…どうしてもっと、もっとあの子に気を配っていれば、あの子の犯罪を止められたのかもしれないのに…」

母親は顔を両手で覆い、慟哭した。メディアでは連日ノワールの同級生から聞いた話を基に、両親がノワールを育児放棄していた、ノワールを無視していた、鬼のような両親だった、親にも責任があると槍玉に上げて報じていた。しかし、シズカの目の前にいるノワールの母親は逮捕された息子を思い、涙を流す一人の無力な母親だった。母親の泣き声だけが、聴取室に静かに響いていた。


1月××日

聴取が終了し、ノワールの身柄は拘置所に移されていた。リチャード警部が率いる刑事課の班は聴取の結果や現場に残された被服の繊維、逮捕時の所持していたナイフ、家宅捜索で押収したコート、現場に残されたDNAとノワールのDNAが一致したという鑑定書を検察に提出した。シズカはR市市警本部の屋上のベンチに座っていた。事件が収束したため、16時に捜査本部は解散し、刑事たちには当直の者を除いて一日の休みが与えられた。

この場所からはA区の端の海が見える。今日は天気が良い。冬の冷たい澄んだ空気と夕焼けのオレンジ色が混ざっている。警察に就職するまえは、刑事だった祖父の姿に憧れて、試験を受けたことを思い出した。街の明かりが見える。街の家やマンションの窓に明かりが灯っていると、シズカは安心する。きっとそれぞれの家で夕飯の準備をしたり、親子や夫婦が会話をしたりしているだろう。今はただ、そんな市民の安全な生活を守りたいと願う。だからこそ、刑事として働きたいとシズカは思った。今回の事件は2人の人間の命を奪い、2人の人間を傷つけた凄惨なものだった。事件がひと段落した数日前にシズカは病院に入院していたダイアナに電話を掛けた。電話越しに伝わるダイアナの声が病院で聴取した時よりもほんの少し明るかった。今ダイアナは住んでいたアパートを離れ、友人のシルビアと一緒に引っ越してルームシェアを始めたようだ。あんな事件があった後に、ダイアナが一人で生活することが少し気がかりだったのでシズカは安心した。ノワールを逮捕した時に保護したナミは住所を言いたがらないため、不審に思った婦警が捜索願いのデータと照合すると1か月前に家族から捜索願が出されていると発覚した。ナミは19歳で高校を出てから定職につかず、一か月前に父親と口論になり、家出してしまったそうだ。そしてナミが家族の元に帰る前にシズカはナミと話す機会があった。シズカはなぜナミがノワールに着いて行ったのかが気になっていたのだ。ナミの言葉を反芻する。

「犯人はあなたを娼婦だと思ってお金を渡したそうだけれど、あなたは売春をしていなかったのね。」

「…ええ、そうよ。あの人が勘違いしていたみたい。暗い裏通りでふらふらしてたから体を売る人だと間違われたみたい。」

ナミはうつむいた。

「…こんなこと言うの、ヘンだと思うし、自分でもおかしいって思うけど、聞いてくれる?」

ナミは口を開いた。

「ええ、笑ったりしないわ。」

シズカは答えた。

「あの人が私にお金を渡したとき、私、あの人、いや、犯人がどこか自分に似ている人だと思ったの。暗い顔してて、一人ぼっちの人なんだろうって思ったの。だから、ついて行ってしまったの…何か、変わるんじゃないか、って思ったの。…バカだよね。私、頭、良くないから…本当は殺されそうだったんだよね。だから婦警さんが助けてくれなかったら、私、死んでた。病院の屋上に上って、ワインを飲んで話そうって言われてから、気を失って、あの時のこと、よく覚えていないせいなのかな、犯人は憎いよ。私と同い年くらいの女の子も殺した。だけど、あの時、犯人は、とても悲しそうな…顔…してた気がして…」

話しているうちにナミの大きな黒い瞳から大粒の涙が流れた。

「…あなたはとても優しいね。変じゃないよ、おかしいことじゃない。」

シズカはそう言ってナミを抱きしめた。ナミはシズカの胸に顔を埋め、涙を流した。ナミの恐ろしく、悲しい体験と犯人のノワールと一瞬でも心を通わせてしまったという事実が混ざり合い、ナミは自分の気持ちを整理できていなかったのだろう。シズカはナミが泣き止むまで、ナミを抱きしめていた。


ノワールの罪は重い。ノワールも鬱屈な思いを抱き、生きていた。それでも他者の命を奪い、人を傷つける犯罪は決して許されない。シズカだけでなく、刑事課全員がこの事件が終わり、皆やりきれない事実に打ちひしがれていた。

シズカは空を見上げた。もうすぐ太陽が沈み、月が昇るだろう。後ろから声を掛けられ、シズカは振り向いた。

するとレオンが立っていた。レオンはシズカの隣に座り、ポケットから煙草を出してライターで火を点けた。

「…お手柄だったな。正直お前が被害者に月の共通点があると気付かなければ、逮捕できたか怪しい。」

「…いえ、きっと偶然です。それか、神様が教えてくれたのかもしれません。」

レオンは煙草の煙を吐き出した。

「神様、ねえ。神様なんて本当にいるのかね。」

「そうですね…神様が本当にいたとすれば、気まぐれで適当な神様です。」

それでも、あのテレビ番組をシズカが見ることができたのは全くの偶然だと思えなかった。まるで啓示のようだった。レオンは笑った。

「私は警察官になるまで、犯罪者は皆凶悪で、ドラマに出てくるみたいな悪者だと思っていました。確かに常軌を逸した異常な犯罪者もいます。だけど、実際は犯人も犯人の家族も皆一人の人間だって気付いたんです。他人を傷つけ、命を奪う犯罪を私は絶対に許せません。それでも何かのはずみで犯罪の境界線を越えることは、誰にでもあり得るんだって…気付きました。」

「…そうだよ。俺達はそういう人間を相手にするんだ。湿っぽい仕事だよ。」

レオンは空を見上げている。

「先輩は、押しつぶされそうになったり、気持ちの整理がつかなくなることはないんですか?」

「一晩寝たら忘れることにしてるよ。寝れば必ず明日が来て、次の日になってるんだ。」

シズカはなるほど、と返事をした。同僚の刑事たちは皆上手く自分の気持ちをコントロールしているのだ。自分はまだまだ未熟だとシズカは思った。

「そういやエリーは元気か?」

「はい、ちょうど明日休みが重なったので会います。」

「それにしてもあの子は相当な美人だな。警察官やってるのが不思議だ。」

「エリーはパトカーに乗るのが憧れだったって言ってました。」

シズカは笑った。エリーはいつもそう言っていた。

「今度紹介してくれよ。」

「いいですけど、エリーは警察官の男性は嫌みたいです。年下が好きみたい。」

「そりゃあ残念だ。それじゃあ、俺はこれで。」

シズカはお疲れ様でした、と言った。レオンはポケットから携帯用の灰皿に吸い殻をしまい、屋上から去った。

シズカはまた空を見上げた。もうすぐ太陽が沈み、夜が訪れる。今日は雲が少ない。月が見えるだろう。シズカはこの場所で月が昇るのを、待とう。そう思った。


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