CHASE:31 嵐の前の静けさ -specuration-
一歩、また一歩。磨き上げた琥珀色の大理石の廊下を、うつむいたままゆっくりと男は歩いていた。顔面は蒼白で、汗が止まらない。
その顔には、はっきりと恐怖の二文字がかいてあるようだ。それほど、この男は怯え切っていた。
近くに寄るだけでも聞こえそうなほど、心臓の鼓動は早く、大きい。
できることならば今すぐ踵を返して逃げ出したい思いを必死に堪え、黙々と歩いている。彼は帝都にある図書館の館長を務めていた。
そんな彼が今いる場所は、総督府。――つまり、皇帝の住まう帝国の心臓部。本来図書館の館長という役職には無縁の場所を、なぜカトラスは歩いているのか。
彼は今、皇帝の勅命でここに来ている。顔に浮かぶ恐怖は、まさにそこに向けられていた。
数日前の事だ。図書館に突然現れた反帝国軍の兵士によって、帝国軍の切り札「オペレーション・ネメシス」の起動キーである月の書が奪われてしまった事件は、記憶に新しい。
その月の書の管理を任されていた人物こそ、この男……帝都大図書館の館長こと、カトラス=サリュッソである。
つまり、今回の事件はカトラスの責任による。ものがものであるだけに、その責任は大きい。それも、軍略の要とも言える月の書を奪われたのだ。
おそらく彼には厳重な処罰が下されるのだろう。それも、考えうる限り重い罰を。
――死。本能的に、カトラスはそれを直感していた。
ややあって、カトラスは皇帝の御前にある大きな扉の前にたどり着いた。その扉の前には、すらりとした女性秘書官が立っている。
「……カトラス=サリュッソだな」
女性の声に、カトラスは静かにはい、と答えると、無言のまま大きな扉が開かれた。扉の向こうに、この帝都の恐怖の象徴でもある、皇帝その人が待っていた。
「陛下、帝都大図書館の館長、カトラス=サリュッソをお連れいたしました」
秘書官がそう告げると、皇帝は椅子から腰をあげ、視線をまっすぐカトラスに向けた。その視線の凄みだけで、半歩、自然とカトラスの足が下がる。
「ご苦労であった、マチルダ」
「勿体なき御言葉。全ては、陛下のために……」
マチルダが一礼し、カトラスの後ろへと下がる。前へ行けと、後ろからカトラスは促され、震える足で皇帝の側へ。
「……では、説明をしてもらいましょう。月の書、並びにそれの解読を任せていたルイス=ヴィクトワールがなぜ反帝国軍の手に渡ってしまったのか」
マチルダが率直に、本題をカトラスに投げかける。
「……そ、それは、その、ですから、」
隠し事をしているわけではない。計り知れないほどの緊張と恐怖が、自然と口を鈍らせる。
「せ、先日報告いたしましたように、反帝国軍の襲撃により……」
「そのようなことを聞いているのではない」
マチルダから、怒りのこもった声が。
「我ら帝国の決戦兵器ネメシスの存在は、ごく一部の者のみが知り得ること。その起動キーである月の書が強奪されたのはなぜだと聞いているのだ」
「な、なぜと言われましても……」
背後からのマチルダの声に気圧され、再び口がふさがる。
帝国の兵士ですら、ネメシスの真相を知る者は少ない。その起動キーが一冊の本であることも、軍関係者の中で機密事項として取り扱われている。
ましてや今回その月の書が狙われて図書館が襲撃されたとなると、その情報はどこから漏れたと考えるのが自然か……想像に難くなかった。
「帝国の人間ですら知る者の少ないこの情報を、反帝国軍が知り得るはずもない」
マチルダの考えはこうだった。
「……もし、帝国内部に内通者がいるとしたら?」
「い、いえ!私は、そんな……っ!」
マチルダの言葉に、慌てて弁論する。もちろん、カトラスは内通者でもなんでもない。だが、そんなカトラスの態度にマチルダは疑惑を募らせる一方だった。
「聞けばルイス=ヴィクトワールの所在は、図書館襲撃それ以前からわからなくなっていたと聞く。彼女を通じ、反帝国軍へ情報を流していた。違うか?」
「馬鹿な!私はただの図書館の館長です。そのようなことは考えてもおりません!」
カトラスの弁論は、更に熱を増していく。
「お願いです、信じてください!あの日以来彼女の顔はみないし、誰も知らない個室があったり、私にも、何が何だかわからないのです!」
あの日とは、帝都での反帝国軍による進攻があった日のことを指す。ルイスが呪われた日のことだ。
図書館にとっても、ルイスは謎の多い存在だった。若くして天才な賢者であること以外、彼女の素性を知る者は少ない。彼女自身が他人と馴れ合うことを良しとしない性格もあるだろうが……。
よりにもよって彼女が、呪われて子供の姿になっていようとは考えられるはずもなかった。
「お願いです!せめて、妻と子供だけは許してください……っ!」
その目に涙を浮かべ、カトラスはとうとう地面に手をつき頭を擦り付けた。…なぜ自分がこんな目に。半ば諦め、半ば恨みを募らせ、カトラスは深々と頭を下げた。
「……どちらにせよ、貴様の管理の不手際に非があるのは変わらない。帝国の遺産である月の書を奪われた罪は重いぞ」
マチルダはあくまで冷静だった。情に流されることなどない。
「陛下、この者の処分はいかがなさいますか」
その言葉を聞いたカトラスは、不意に、全身の力が抜けるのを感じた。もう、どうにでもなれと、そんな諦めの境地。そしてマチルダの問いに、皇帝は静かに告げた。
「……よかろう。許す」
「……はっ?」
告げられた皇帝の言葉に、カトラスは耳を疑った。だが、それはマチルダも同じだった。
「こ、皇帝陛下、い、いま、なんと……?」
半信半疑のカトラスは、恐れ多くも皇帝に再び聞き直す。
「聞こえなかったのか?許す、と言ったのだ」
確かに。確かに皇帝はそういった。とても信じられなかった。
ここに足を踏み入れたその時、死を覚悟していた数分前が嘘のようだった。先程まで蒼白だった顔面は輝きを取り戻し、涙と共に笑みがこぼれた。
「あ、あ、ありがとうございますっ!皇帝陛下っ!!」
許しを乞いた時よりも更に深く、深く頭を下げるカトラス。
「ならばよい。下がれ……」
何度も、何度も感謝の言葉を口にしながら、カトラスは総督府を後にした。ほんの一瞬の出来事だった。
「……よろしかったのですか?」
カトラスが去ったあとで、マチルダは皇帝に申し出た。
「我々は作戦の要を失ったのです。その責任は計り知れないほど重い。罰を与えるならまだしも、不問に処してしまうのはいかがなものかと……」
「構わぬ。ネメシスとて完全ではない……。多少の不手際には目をつむれ」
多少の、というにはあまりにも大きな不手際ではないのか。マチルダはそう思わざるをえなかった。
「そう、ネメシスが完全でないように、この世界に完全などありはしない。ありはしないのだ……」
「ですが、それでは……」
呑気とも言える皇帝のその態度に、マチルダは苛立ちをつのらせてしまった。抑えきれず、もう一度噛み付こうとしたその時、皇帝の視線とマチルダの視線があってしまう。
「……二度は言わぬぞ?」
その瞳に、溢れんばかりの殺気を込めて、マチルダに告げる。
「も、申し訳ございません!秘書官の身でありながら、陛下に意見などと…」
一歩下がり、マチルダも深く頭を下げた。
「……マチルダよ」
静かにマチルダの名前を呼び、彼女の側に。すると皇帝は、彼女を抱き寄せた。突然の出来事に戸惑うマチルダは、ただ頬をほのかに赤く染める。
「我はお前を信じている。お前なら、我の期待通りに事を実現化してくれよう。ならばこそ、なにも恐れる事はない……」
「……も、勿体なきお言葉…」
頬を染めながら、マチルダはもう少し、もう少しだけと、この時間が長く続く事を願った。
(私は……貴方様のお傍に居られるなら、これ以上望むことはございません。この心も体も、私の全てを、未来永劫貴方に捧げましょう……)
ネメシス作戦当日。アクシデントの発生により兵の編成も大きく変わってしまうものの、予定を狂わす事なく事をこなす。
マチルダは優秀な文官であり、そして指揮官でもある。今回は彼女の指揮の下、作戦が進行する事となった。
兵が集められ、いよいよ出兵の時。帝国軍の皆の前に、皇帝が姿を表した。それにより、自然と静まる大観衆。そして皇帝は、高らかに告げた。
「進撃せよ!躊躇う事は許さぬ!敵を根絶やしにするのだ!」
***
ネメシス作戦当日より三日前のこと。
ルイスとエレナが志願したという事態に一番戸惑ったのはオリバーだった。
彼女を危険から遠ざけたいという彼の必死の説得も、エレナの硬い意志の前にはどこ吹く風だ。
ともあれ人材不足なのは明らかなリバティムーンにしてみれば、猫の手を借りてまでというところである。結局、オリバーが折れるまで三日かかった。
ルイスの子供じみた理屈をエレナから聞かされた時は、カイムもそれで大丈夫かとおもったが、やはりルイスらしいとも思った。
ジュディスは相変わらず風呂上りに服を着ようとせず、やはりそれでいろいろ騒動が起こったりもした。
カイムは懲りずに何度もシミュレーターでマグナに挑戦しては返り討ちに遭った。
エヴァンの大盛り10人分という無茶なオーダーに困り果てた食堂のコックが気の毒だと思いながらも、自分にはどうにもならないと見ぬふりもした。
この一週間は、カイムにとって本当に平和だった。そして、笑いが絶えなかった。両親を亡くして以来独りだったカイムは、リバティムーンに入隊して自分でも驚くくらい笑っている自分にらしくないと思いつつ、それでもこっちの方が居心地がいいと、そう思えるようになっていた。
だが、それでもゆっくりと、確実に、オペレーションネメシスは近づいていた。
「報告は間違いないのか?」
「はい。帝都に潜伏していた仲間からの情報です。先程午後8時に、帝都から発進する大規模の部隊を確認しました。予測遭遇時刻は、三日後の正午」
帝都に潜伏していた観測隊が、帝国の侵攻を確認した。
「オペレーション・ネメシスか……。いよいよおっぱじめる気だな」
マグナが静かに呟く。
負け戦が続くリバティムーンに、これ以上の退却は深刻だ。ましてや今回は帝国も総力をあげての出兵。小さな駐屯所とでは、戦力の差は歴然である。
しかし、この報告にジュディスは違和感を覚えていた。
「変だな。准将の言う通りなら、これほどの兵力を結集させる必要があるのか……」
どうやらエヴァンも、彼女と同じ事を考えていたらしい。帝国への潜伏ならずっと前から行っていたが、過去二回のネメシス作戦では、このような報告はなかった。空からの攻撃なら、兵をあげる必要がないからだ。
「確かに妙だな……。あえて戦略を変える必要はない。こいつはそういう作戦だからな」
「ってことは……」
マグナが期待を言葉に込める。この展開に、三人が見いだしたのは絶望ではなく――
「どうやら、こっちには相手にとって不都合なカードがあるらしいな」
そう言ってエヴァンは、不敵な笑みを浮かべた。微かに見えた、その希望に全てを託して。
「本当に良かったのか?」
出撃当日、二人はロッカの外地で遊軍として、出撃を控えていた。
見渡す限り何もない平地。乾いた風が二人の頬を撫でる。
カイムが、側にいるルイスに問いかけた。
「何度も同じ事を言わせるな。私は私の意志で選択したんだ」
くどいと言いたそうに顔をしかめながら、ルイスが言う。
「……たくさん、人が死ぬぞ」
静かに、重くその言葉を発した。
「……わかってる」
その問いかけに、ルイスも静かに答えた。しばらく重い空気が流れ、沈黙が続く。
「カイム」
不意に、ルイスが言葉を投げかける。
「――お前がこの戦争に勝ったとして、その時どうするつもりだ?」
「どうって、いきなり言われても……」
突然の問いかけに、カイムは戸惑ってしまう。それを察したのか、ルイスが慌てて取り繕う。
「……いや、何でもない。余計な事を考えさせたな。今のは忘れてくれ……」
そんなルイスを見て、何故か申し訳なさが増してしまう。だが、
「確かに、何も考えてなかったな……」
ふと思い、カイムは呟くと、クスッと笑った。
「悪い、この答えはもう少し待ってくれないか。考えておくからさ」
そう言うカイムの顔は、自然とほころんでいた。そんなカイムを見てルイスは、
「変なの」
率直な感想を述べた。
「わ、悪かったな。大きなお世話だ……」
少しむくれてカイムが返す。そんなやり取りに、自然と二人は笑ってしまった。
そんな中、作戦開始のアナウンスが二人のインカムに流れる。
『作戦開始です。カイムさん、ルイスちゃん、ご健闘を!』
シャーリーから告げられた開戦の合図。奇妙な二人は、再び戦火の中へと飛び込んだ。




