終の旅人
秋の終わり、小さな町に一人の旅人がやってきた。
夕暮れの通りには冷たい風が吹き、街路樹から落ちた葉が石畳の上を転がっていた。商店では店じまいの準備が始まり、店先に並べられていた商品が一つずつ片付けられていく。通りを歩く人々も、これから訪れる夜を少しでも早く暖かい家の中で迎えようとするように、足早に帰路へついていた。
そんな町の中を、旅人はゆっくりと歩いていた。
黒い外套を身にまとい、肩には古びた革の鞄を掛けている。何年も使い込まれた鞄には、ところどころ擦れた跡があり、外套の裾も長い旅のせいか少し色褪せていた。それでも、旅人の歩みには疲れた様子がない。急ぐこともなく、立ち止まることもなく、ただその町に自分の居場所があるかのように、静かに通りを進んでいく。
どこから来たのかと尋ねられれば、彼はいつも「遠くから」と答える。
どこへ行くのかと聞かれれば、「呼ばれたところへ」と答える。
それ以上のことを、彼はほとんど話さなかった。
町の入口にある小さな宿へ入ると、暖炉のそばで帳簿をつけていた女主人が顔を上げた。旅人の姿を見ると、彼女は一度だけ外を確認するように窓へ目を向け、それから彼に笑いかけた。
「泊まる場所は決まってるのかい?」
「いいえ」
旅人が答えると、女主人は少し考えてから肩をすくめた。
「じゃあ、うちに泊まっていきな。今日はもう日が暮れるからね」
「ありがとうございます」
旅人は頭を下げ、案内された部屋に荷物を置いた。
夕食を済ませ、部屋へ戻ろうとしたときだった。
「ちょっと待って」
背後から女主人に呼び止められた。
振り返ると、彼女はカウンターの奥から一通の手紙を取り出していた。白い封筒は少し古びていて、何度も握りしめられたように端が柔らかくなっている。
「泊める代わりに一つ頼みたいことがある」
旅人は手紙を受け取った。
宛名には、町外れに住む老人の名前が書かれていた。
「この人に届けてほしいんだけど……」
旅人は封筒を眺めながら尋ねた。
「郵便では?」
「本当ならそうするんだけどね」
女主人は少し困ったように笑った。
「この手紙を書いた人が、今日亡くなったの」
旅人は何も言わなかった。
女主人は手紙の端を指で撫でながら、静かに続けた。
「亡くなる前に、『どうしても本人に渡してほしい』って頼まれたんだ。でも、私が届けに行くには少し遠くてね。それに……」
そこまで言って、彼女は言葉を止めた。
「それに?」
「いや。何でもない」
女主人は首を振った。
「お願いできるかい?」
「分かりました」
旅人は手紙を鞄にしまい、代わりに黒い手帖を取り出しパラパラとめくった。目的のページで手を止め内容を確認すると女主人に言った。
「明日の朝、届けます」
「ありがとう」
女主人は、それ以上何も言わなかった。
その夜、旅人はほとんど眠らなかった。
眠る必要がないわけではない。ただ、長く旅をしているうちに、眠るということ自体が少なくなっていた。眠らなくても朝は来るし、朝が来ればまた歩く。それを何度も繰り返しているうちに、眠れない夜を寂しいと思うこともなくなっていた。
窓の外では、冷たい風が建物の壁を撫でるように吹いている。
旅人は椅子に座り、古い懐中時計を手のひらに乗せた。
蓋を開く。
針は六時十三分を指したまま、止まっている。
何年も前から、ずっと同じ時刻だった。
旅人は時計を見つめ、それから小さく息を吐くように笑った。
「まだ動かないか」
もちろん返事はない。
彼は時計を閉じ、窓の外へ目を向けた。
暗い町の中に、いくつもの明かりが浮かんでいる。あの明かりの一つ一つの向こうに、誰かの暮らしがある。誰かが食事をして、誰かが眠りにつき、誰かが明日の予定を考えている。
そして、その中のほとんどの人は、自分が訪れることをまだ知らない。
旅人は椅子から立ち上がった。
そして、朝を待った。
翌朝、空が白み始めるころ、旅人は宿を出た。
町外れへ向かう道は緩やかな坂になっていて、昨日よりも風が冷たかった。吐いた息が白くなり、道端の草には薄い霜が降りている。
老人の家は、丘の上にあった。
周囲には他の家がほとんどなく、庭には手入れされなくなった草木が伸びている。窓には薄く埃が積もり、玄関脇には枯れた鉢植えがいくつも置かれていた。
旅人は扉の前に立ち、軽く二度、扉を叩いた。
返事はない。
もう一度叩く。
しばらくすると、家の奥からかすかな声が聞こえた。
「誰だ……?」
「手紙を届けに来ました」
「手紙?」
鍵の外れる音がして、扉が少しだけ開いた。
老人が顔を出した。
旅人が封筒を差し出すと、老人は宛名を見た瞬間、まるで時間が止まったかのように動かなくなった。
「……あいつからか」
「はい」
老人は震える手で手紙を受け取った。
けれど、すぐには封を開けなかった。
しばらく封筒を眺めたあと、老人が顔を上げる。
「どこでこれを?」
「昨日、亡くなる前に預かりました」
老人の顔から、ゆっくりと表情が消えていった。
「そうか」
それだけ言うと、老人は背を向けて部屋へ戻った。
旅人も後に続いた。
老人の住む部屋は小さかった。古い家具がいくつか置かれ、壁には色褪せた写真が一枚だけ飾られている。
写真には、若い男が二人並んで写っていた。
老人はその写真をしばらく見つめてから、ゆっくりと手紙を開いた。
読み始めてから、何度も途中で手を止めた。
一行読んでは目を閉じ、また次の行へ進む。そのたびに、老人の表情が少しずつ変わっていく。
やがて手紙を膝の上に置くと、老人は窓の外を見た。
「……五十年だ」
独り言のように呟いた。
「五十年も、こいつを憎んでいた」
旅人は何も言わず、老人の向かいに座っていた。
「馬鹿みたいだろう」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
老人は苦笑した。
「五十年あれば、人間なんて何度でもやり直せる。それなのに、俺はずっと昔のことを引きずっていた」
旅人は壁に掛かった写真へ目を向けた。
「何があったんですか?」
老人はしばらく黙っていた。
「喧嘩したんだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
老人は自嘲するように笑った。
「それだけのことで、二人とも意地を張った。そして、いつの間にか会えなくなった。最初は明日にでも仲直りできると思っていたんだ。でも、明日になったら今度でいいと思って、その次の日にはまた別の日でいいと思って……そうしているうちに、五十年だ」
旅人は何も言わなかった。
老人は手紙を握りしめた。
「最後に一度だけ会いたかった」
その声は、さっきまでよりもずっと小さかった。
「でも、もう遅い」
窓の隙間から冷たい風が吹き込み、机の上に置かれていた紙がかすかに揺れた。
旅人は老人を見た。
彼には分かっていた。
もう時間は残されていない。
それは、この町へ来る前から分かっていた。
老人も、どこかで気づいているのだろう。
だからこそ、手紙を何度も読み返している。
「なあ」
老人が顔を上げた。
「人は死んだら、どうなると思う?」
旅人は少し考えた。
「さあ」
「分からないのか?」
「私にも分かりません」
それは嘘ではなかった。
彼自身も、その先に何があるのかを見たことはない。ただ、人が最後の扉をくぐる瞬間に立ち会い、その人が歩いていくのを見届ける。それが彼の旅だった。
老人は少し笑った。
「お前も変な旅人だな」
「よく言われます」
それから二人は、しばらく話をした。
昔の町のこと。
若かった頃のこと。
写真に写っているもう一人の男のこと。
老人は、何十年も胸の奥にしまっていた記憶を、一つずつ取り出すように話した。話しているうちに、いつしか怒りよりも懐かしさのほうが強くなっていた。
「あいつ、馬鹿だったんだ」
老人は笑った。
「でも、俺も同じくらい馬鹿だった」
旅人は黙って聞いていた。
やがて窓の外が赤く染まり始めた。
夕暮れだった。
老人の声が少しずつ小さくなっていく。
旅人は椅子に座ったまま、その時間を静かに見届けていた。
老人の呼吸が、ゆっくりと浅くなる。
そして、最後の息が静かに消えた。
部屋が、急に広くなったように感じられた。
旅人はしばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、窓を開ける。
冷たい風が部屋の中を通り抜け、カーテンを大きく揺らした。
そのときだった。
背後から声がした。
「……そうか」
旅人が振り返る。
老人が立っていた。
先ほどまでベッドに横たわっていたはずなのに、今は何事もなかったかのように、その場に立っている。
老人自身も、自分の手を不思議そうに見つめていた。
「どうすればいい……?」
旅人は答えなかった。
ただ、部屋の隅にある扉へ目を向けた。
そこには、さっきまで存在しなかったはずの扉があった。
古びた木製の扉だった。
老人もそれに気づいた。
「向こうへ行けばいいのか?」
「ええ」
「お前も向こう側へ行くのか?」
旅人は少し考えてから頷いた。
「きっと」
老人は扉の前まで歩いた。
そして、最後に一度だけ振り返る。
「手紙……読んでよかった」
「そうですか」
「ありがとう」
旅人は何も答えなかった。
老人は静かに扉を開け、その向こうへ歩いていく。
扉が閉じる。
部屋には旅人だけが残った。
机の上には、老人が最後まで握っていた手紙が置かれていた。
旅人はそれを手に取り、丁寧に折り直して元の場所へ戻した。
そして家を出る。
丘を下り、町へ戻る。
宿の前では、女主人が待っていた。
彼女は旅人の顔を見ると、何も言わずに尋ねた。
「渡せた?」
「はい」
「そう」
女主人も、それ以上は聞かなかった。
旅人も何も言わなかった。
しばらくして、女主人が一枚の紙を差し出した。
「次の場所?」
「ああ」
紙には、海沿いの小さな村の名前が書かれていた。
旅人は紙を受け取り、古い鞄の中へしまった。
「もう行くのね」
「はい」
女主人は少し寂しそうに笑った。
「いつまで旅をするんだい?」
旅人はすぐには答えなかった。
夕暮れの空を見上げる。
赤かった空は少しずつ暗くなり、遠くの山々が黒い影へ変わっていく。
「まだ、終わりそうにありません」
そう答えて、旅人は町を出た。
夕暮れの道を一人で歩いていく。
黒い外套が風になびき、背中に掛けた古い鞄が歩くたびに小さく揺れる。
遠ざかっていくその背中を、誰も追いかけなかった。
ただ、鞄の中では、古い懐中時計が小さな音を立てていた。
カチッ。
カチッ。
止まっていたはずの針が、ほんの少しだけ動いている。
六時十三分から、
六時十四分へ。
旅人は、そのことに気づいていなかった。
いや――。
もしかすると、気づいていたのかもしれない。
それでも彼は振り返らなかった。
次に呼ばれる場所が、もう決まっているからだ。
海沿いの小さな村。
そこには、まだ彼を待っている誰かがいる。
旅人は何も語らず、夜へ向かって歩き続けた。
長い旅の先に何があるのかを知ることもなく。
あるいは――知っていながら、知らないふりをして。




