第3話:社長に気づかれた夜
―“秘密の空気”は、静かに漏れ始める。
七瀬ホールディングスの重役会議が終わった午後。
会長の七瀬美咲は、ふと窓の外を見ながら、心の中で気になっていた二人の名前を並べてみた。
千賀真琴と――御上千聖。
社内で噂になっているわけではない。
だが、鋭い経営者の勘が告げていた。「このふたり、何かが始まっている」と。
先日、名古屋への出張報告を真琴から受けたときのこと。
いつもより言葉数が少なく、それでいてどこか穏やかな表情だった。
一方で、御上千聖もまた別の会議室で、資料をまとめる手がやけに丁寧だった。
誰かのために何かを“整えている”ような、そんな所作。
美咲は静かに思った。
――あのふたり、もう交わっているな。
***
その夜、社内の廊下。
真琴と千聖はたまたま、会議室からの帰り道で鉢合わせた。
「……今日、少し長引いたな」
真琴が言い、千聖がうなずく。
「はい。でも、明日の契約書、全部整いました」
「さすがだな。……ありがとう」
「いえ……」
会話はそれだけで終わるはずだった。
けれど、すれ違いざま。
誰もいないことを確認した真琴が、廊下の非常口前で彼女の腕を取った。
「……少しだけ」
そのままカーテンの裏、非常灯の薄暗い場所で、
彼は千聖の腰に手を回し、ゆっくりとキスをした。
短く、でも愛情を込めて。
千聖も目を閉じながら、そのキスにそっと応えた。
そのとき――
エレベーターの反射ガラス越しに、微かに立ち止まった人影があった。
誰にも気づかれなかったつもりのキス。
だが、七瀬美咲は静かに、それを見ていた。
(やっぱり……そうなのね)
微笑みながら、美咲は何も言わず、エレベーターに乗り込んだ。
***
後日、何気ない雑談の中で、会長は千聖に問いかける。
「最近、笑顔が柔らかくなったわね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。とても素敵よ。でも、誰かに見られる場所では気をつけて」
千聖は、その言葉の意味を理解した。
――そして、それが叱責ではなく“応援”だと気づいた時、胸が熱くなった。