第1話:社内メールのすれ違い
―はじまりは、誤送信された一通のメール。
千賀真琴は、いつものように朝一番でPCを立ち上げ、未読メールの山を処理していた。
「社外対応」「取引先確認」「進捗管理」――ルーチンの確認項目を終え、ふと件名のない1通のメールに目が留まった。
本文は短かった。
「今度の契約、必ず通したいの。
千賀さんとなら、一緒に進めてみたい。」
送り主は“御上千聖”――法務部。
……明らかに、自分宛の文面ではない。
おそらく宛先を間違えたのだろう。だが、自分の名前がはっきりと書かれていた。
「これって……偶然、なのか?」
胸の奥で、妙な緊張が走る。
以前、社内会議で数回ほど顔を合わせただけの彼女。
一言二言、業務上のやりとりはしたことがあったが、それだけの関係だ。
だがあのメールには、明らかに“私信”のような温度があった。
***
その夜。
オフィスに残ったのは数人の社員だけ。真琴はあえてその時間を選んで、法務部のフロアに足を運んだ。
コピー機の音だけが響く静かな空間で、彼女はそこにいた。
御上千聖。タブレット片手に何かを確認している。
「御上さん」
声をかけると、彼女がはっと振り向いた。
「……千賀さん? どうしてこちらに?」
「いや……」
何と説明するべきか。誤送信の件を言うべきか。
迷っていると、千聖の目がわずかに揺れた。
そして、静かに歩み寄ってきた彼女が言った。
「……送ったんです。わざと。」
「……え?」
「誤送信ってことにしておけば、逃げられると思ったから。
でも、見てしまったなら……ちゃんと伝えます」
少しの間。
ふたりの間に流れる空気が止まったように感じた。
その時だった。
千聖が一歩、近づいた。真琴の胸元に触れそうな距離で、そっと見上げる。
「本当は……ずっと前から気づいてました。
あなたの名前を聞いた時から、心が騒いでるって」
「……俺も、だ」
気づけば、真琴の手が千聖の頬に触れていた。
そして――
初めてのキス。
緊張と高鳴りを含んだ、それでも穏やかな時間が、ふたりのあいだに流れた。
***
まだ誰にも知られていない、ふたりだけの関係。
それは始まりと同時に、「秘密」になった。
だがこの夜、ふたりの運命は確かに動き出した。