第0話:それは、まだ知らないあなたへ
―この気持ちが、恋になる前に。
春先、まだ社内にも新年度の空気が残るある午後。
企画会議に向かう千賀真琴は、ふと通路で見慣れない女性とすれ違った。
端正な顔立ち。タブレットを片手に速足で歩くその姿は、どこか“研ぎ澄まされている”印象だった。
誰だろう。――法務の人間か?
目が合ったわけでも、声を交わしたわけでもない。
ただ、そのすれ違いに、真琴はなぜか妙に心がざわついた。
***
一方、御上千聖もまた同じ午後、経営戦略部の前を通り過ぎながら一人の男性の後ろ姿に目をとめていた。
背が高く、姿勢がいい。書類を手に歩くその歩幅も、堂々としていて――
「…誰かに似てる」
そう呟いた自分の声に、千聖は少しだけ戸惑った。
知り合いではない。でも、見たことがある気がする。
きっと社内の誰か。けれどその“誰か”に心を引かれる自分がいた。
***
同じ建物の、別々のフロア。
何百人もいる従業員の中で、たった一瞬の交差。
気づかないふりをして、でも記憶のどこかには残っていた。
――それが、ふたりの出会いの「前日譚」だった。
そして、数日後。
千賀真琴の元に一通の誤送信メールが届く。
それが、彼と彼女の“名前を知るきっかけ”になるとも知らずに――
「本日14:30、法務部にて確認。御上千聖」
受信者は、自分ではなかった。
でもその名前が、どこかで引っかかっていた。
千賀真琴は、静かに画面を見つめながら呟いた。
「――この人、誰だっけ?」
まだ始まっていない。けれど、もう引き返せない。