第2話:朝のキス、昼の距離
―「おはよう」のキスも、「いってらっしゃい」のキスも、君だけに。
朝7時過ぎ。
キッチンに立つ千賀真琴は、出来上がったトーストにバターを塗りながら、振り返る。
「……まだ眠そうだな」
「うん……でも、昨日よりは緊張してないよ」
御上千聖は、ふわふわの部屋着のままコーヒーを片手に微笑んでいた。
前夜、ふたりは取締役に就任して初の夜を過ごした。
プレッシャーは大きかったが、いまは目の前の温もりに癒されていた。
「出社前に、キスしないと元気出ないんだけど……」
「……そう来ると思ってた」
真琴が椅子を引き寄せ、千聖の顎にそっと手を添える。
「……いってらっしゃいのキス、習慣にしよう」
そう言って唇を重ねた。
優しいだけじゃない。ふたりの関係を確かめるような、少し深い口づけ。
「……これで、がんばれそう」
「あとで帰ったら、もっとがんばらせるけどな」
「……ちょっと、真面目な顔してそういうこと言うの反則」
笑いながら、千聖はジャケットを羽織った。
***
出社後、社内の空気は以前と違っていた。
ふたりが同時に取締役に就任したことで、視線も声も増えた。
挨拶の仕方、歩く距離、会議中の目配せ――すべてに細心の注意を払う。
昼休み。
偶然同じエレベーターに乗り合わせたふたりは、一言も言葉を交わさなかった。
他の社員がいる中では、“上司と部下以上”の空気は出せない。
けれど――
ビルの一角にある小さな休憩スペース。
人の気配がないことを確認した千聖が、真琴の袖をそっと引いた。
「……たまには、名前で呼んでほしい」
「今ここで?」
「声に出さなくてもいいの。
……“目”で呼んでくれたら、それでいいから」
真琴は一瞬だけ彼女を見つめて、優しく微笑んだ。
その視線に込められたのは、確かな“愛”だった。
(ああ、この人に恋してよかった)
そう思った瞬間、千聖の頬がほんのり赤く染まった。
***
夜。
帰宅後、ふたりは何も言わずに自然とハグを交わす。
スーツのまま、唇を重ねる。
「おかえりなさい」
「ただいま、千聖。……目、足りなかったから補充してもいい?」
「ん……うん」
そのまま、キッチンの壁際で甘くて、少し長めのキスが始まる。
昼は距離を保っていた分、夜はどうしても近づきたくなる。
言葉より、唇で気持ちを交わし合う――それがふたりの“ルール”だった。