プロローグ
―この恋は、まだ誰にも知られてはいけない。
エレベーターのドアが閉まりきる、そのわずかな隙間で彼女の指が触れた。
あの瞬間から、すべてが変わった。
千賀真琴、33歳。大手化粧品会社・七瀬ホールディングスの経営戦略部に所属。仕事一筋、社内でも“冷静な戦略家”と評される存在。
そして、御上千聖、29歳。法務部の若きエース。涼しい目元と凛とした佇まいで、誰もが一目置く女性。
立場も部署も異なるふたり。業務連携の中で、幾度か交わした視線。そのたびに胸の奥で微かに揺れた何かを、ずっと見ないふりをしてきた。
けれど――
ある夜、誤送信されたたった一通のメールが、ふたりの関係を静かに変えていく。
「今度の契約、必ず通したいの。彼と一緒に進めてみたい」
偶然のはずのその言葉に、真琴の心が動いた。
“彼”とは自分のことなのか。
それとも――ただの願望か。
確認するために足を運んだ深夜のフロアで、彼は彼女の背中にそっと声をかける。
「……その言葉、俺に向けられたものだったなら、嬉しい」
振り返った千聖の瞳には、驚きと迷いがあった。
だがその夜、ふたりは社内で初めて唇を重ねた。
まだ恋とも呼べない不確かな関係。
けれどそのキスだけは、誰よりも真実だった。
この恋は、秘密から始まる。
誰にも知られてはいけない恋。
だけど、ふたりだけが知っている。
交わしたキスの数だけ、愛が確かに育っていくことを――。