高校教師の俺、教え子の優等生JKが義妹なんだが
黒板の上の無機質な壁掛け時計をちらりと見て、それから錦優希は、さらさらと目の前の黒板にチョークを走らせた。
授業が始まるまであと五分ほど。先週やった予習の範囲は今のうちに黒板に移しておくと効率が良い。くたびれた教科書を片手に、白いチョークで数式を並べる。教壇に立ち始めて半年ほど、ようやくチョークで字を書くのにも慣れてきたところだった。
「錦先生」
かけられた声にびくっとして振り向くと、一人の女子生徒が、プリントの束を持って後ろに立っている。
「プリント、集めておきました」
女子生徒はにこやかにそう言って、腕に抱えたプリントの束をこちらに差し出した。
「あ、ああ。そうか」
女子生徒に気づかれないように軽く深呼吸をして、努めて落ち着いた声を出す。受け取ったプリントを見ると、先週出した課題のものだった。
「授業中に集めようと思っていたんだが。仕事が早くて助かる」
感心してそう言うと、女子生徒は大きな目を細めて、やけに大人びた微笑みをその端正な顔に湛えた。
「いえ、学級委員長ですから。当然のことですよ」
涼やかにそう返し、では、と礼をしてから背を向け、女子生徒は教室の喧騒の中へ溶け込んでいった。
優希はふう、と一度溜息をついてから、チョークを手に、数式の続きを書き始めた。休み時間もあと少しで終わる。BGMと化した生徒のざわめきの中から、友達と談笑でもしているのだろう、先程の女子生徒の控えめな笑い声が、何故か優希の耳には際立って入り込んできた。
***
空は既に濃紺になっていた。優希は凝った肩を手で軽く揉みながら、自宅であるマンションの一室に向かう。先週訪れた台風が残暑もさらっていったようで、ひやりとした懐かしい匂いの風が頬を撫でた。
ドアに手をかけると、予想通り鍵はかかっていないようだった。ただいま、と小さく呟きながらゆっくりと体を部屋に滑り込ませた。
玄関には、木製の写真立てに一枚の写真が飾られている。家族写真だ。有名な観光地の石像の前で、中年の男女が二人と、大学生くらいの若い男、そして。
「お兄ちゃん、おかえり~」
女子高生くらいの、あどけなさの残る女の子。
リビングから顔を出した彼女は、昼間に優希にプリントを渡した、あの女子生徒だった。制服はそのまま、今はチェック柄のエプロンを身につけている。料理をしていたのだろう、長い髪は、きゅっとポニーテールに結んでいた。
「ああ、ただいま」
写真立てから目線を外し、優希はそう返した。
「ご飯、もうすぐできるから!」
「ああ、ありがとう。夕飯作らせて悪いな、舞波」
舞波、と呼ばれた少女は、むぅ、と口をとがらせた。
「謝らなくたっていいんだよ!妹なんだからこれくらい当然のことだよ」
「いや、でも……」
「休日はお兄ちゃんが料理してくれるし、料理以外の家事とかは結構お兄ちゃんがやってくれてるんだからさ、平日の夕飯くらいはあたしに作らせてよ、ね?」
そう言って上目遣いでこちらを見る舞波に、優希は苦笑混じりにため息をついた。
「……ああ、そうだな。助かるよ」
それを聞くと、舞波は、にんまりと満足そうな笑みを浮かべた。学校では、とてもじゃないけれど見ることの出来ない顔だ。
「じゃあ、夕飯できるまでちょっと待っててね!」
舞波は、そう言って台所の方へ消えていった。優希はそれを見届けてから、洗面所へ向かった。
錦舞波、それがプリントを優希に渡した、また、優希をお兄ちゃんと呼んだ彼女の名前だ。しかし、生まれた時からそうだった訳では無い。彼女は少し前……、具体的に言えば一年半前から錦という苗字を使い始めたのだ。
一年半前に、優希の父親と舞波の母親が再婚をした。五歳差である優希と舞波は義理の兄妹となり、家族仲はぎこちないながらも、それなりに良い関係を築き始めていた。
二人の親が交通事故で亡くなったのは、優希が大学卒業のタイミングでの一人暮らしに向けて、準備を進めていた頃だった。突然の事だった。頼りにできる親戚もおらず、広すぎる家に舞波を一人置いていく訳にもいかない、のでしばらくの間、少なくとも舞波が高校を卒業するまでは優希が保護者として、二人で暮らすことになったのだった。
悲しむ暇もなく、成り行きで始まってしまった二人暮しも、なんだかんだ妙なバランスを保って続いている。しかしまさか、
「赴任した高校が、舞波の通っているところだったとはなあ」
洗った手をタオルで拭きながら、ぼやく。半年たった今も、学校で舞波に接する時の奇妙な居心地の悪さに慣れることは無い。むしろ、日に日に強くなっている気もする。家とは別人のように振る舞う舞波に、違和感と同時にどこか心配も覚えるのだ。
「お兄ちゃーん、ご飯出来たよー!」
リビングから響いた声に、今行く、と返し、優希は洗面所を後にした。
「料理、また上手くなったんじゃないか」
食卓に並んだおかずを見て、優希は感嘆の声を漏らす。優希の言葉に、そうでしょー、と舞波は、自慢げに胸をそらした。
「ハンバーグはね、チーズが入ってるんだよ。きっと成功してるはず。あとサラダにかけるドレッシングも手作りで、ちょっと凝ってみたんだ」
すごいな、と優希が言うと、舞波はえへへ、と溶けたように笑みがこぼれた。
「お兄ちゃんに褒められると嬉しいね……」
頑張って良かった、と小さく呟いた声に優希は曖昧に頷いて、舞波と向かい合った席に腰を下ろした。
食後、リビングでPCを使い作業をしていると、意識しないうちに時間が経っていたようで、大分夜も更けてきたことに、時計を見て気づいた。そろそろ風呂に入ろうかと思いながらも、踏ん切りがつかず取り敢えず手を動かし続ける。
その時、両肩にぽん、と何かが乗ったような感覚がした。ふわりとシャンプーの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「お兄ちゃん、何してんのー?」
優希の背後から、風呂上がりの舞波が床に膝をついてPCを覗き込んでいるようだった。肩に置かれたのは舞波の手だ。
「仕事のことだ。画面を覗くな」
「えー、けちぃ」
舞波はそう言って頬を膨らませた。
舞波は学校では、本心をメッキで固めたような、隙のない優等生キャラを貫いている。家での優希に甘えるような態度はその反動なのだろうか。高校生にして親を失った舞波にとって、優希が数少ない心を許せる相手なのだとしたら、納得せざるを得ない部分もある。けれど、
「ねえ、お兄ちゃーん、まだパソコン触るの?」
背中にずん、とした重みがかかり、二つの柔らかい何かが押し付けられる感覚がした。舞波の腕がゆっくりと首に回され、後ろから抱きつかれている状態なのだと気づく。舞波は薄いTシャツを1枚身につけているだけらしい。風呂上がりの体に帯びた熱が、こちらにも伝わる。二つの豊満な膨らみが当たっている部分だけ、感覚が過敏になっているように思えて、ざわつく心を整えようと唇を噛む。
「離れろ、舞波」
「えー?いいじゃん、これくらい。兄妹でしょ?」
「兄妹って言っても、俺達は、」
その先を咄嗟に飲み込んで、後悔とともに口をつぐんだ。それを悟られないよう、兄妹でもこんな近いのはおかしいだろ、と諭すように舞波に言う。
「そうかな。普通だよ、きっと」
「そんなわけ……」
優希の声を遮るように、舞波がでも、と言葉を続けた。
ぎゅっと、抱きしめる腕を強くして、優希の体に密着してくる。全身が熱くなるのが分かった。優希が強引に振りほどこうとしたとき、
「先生……」
溶けた砂糖菓子のような甘い声が、耳元で聞こえた。一瞬息が止まり、自分の体が意志と関係なくびくりと震える。
「……おい」
優希が振り払うまでもなく、舞波は優希の体から離れ、そしてにやりと笑った。
「これはだめだよね?」
その言葉に、耳を押えたまま思わずきっと舞波を睨む。そんな優希にも意に介さず、舞波は立ち上がって、くしし、と笑った。
「先生、だもんね」
そう言って自室に去っていく舞波の後ろ姿が完全に視界から消えたとき、優希はPCをパタリと閉じて、頭を抱えた。
***
「先生、これから部活ですか」
鈴の音のようなすっと響く声が聞こえ、振り向いた。見ると、舞波が微笑を浮かべながら首を傾げている。
ホームルームが終わり、職員室に向かう途中の事だった。
「ああ、そうだが。えっと、錦は……」
「これから、委員会があるんです」
そうか、と返し、少し迷ってから、
「今日はちょっと、遅くなるかもしれない」
とつけ加えた。
舞波は、表情ひとつ変えず、
「そうですか」
と、まるで業務連絡であるかのように、冷たさすら覚える表情で答えた。
仕事を終え、すっかり暗くなった空を背に自宅の扉と向かい合ったとき、先程の舞波とのそんなやりとりが脳裏に浮かんだ。感情の見えない、探ることも許されないような印象、声色を反芻する。意を決してドアノブに手をかけた。
「ただい……」
ま、と言い切る前に、ぼふ、と舞波が胸に飛び込んできた。
「お、おま、玄関で待機してたのか?」
舞波はそれには答えず、猫のように優希の胸に頭を擦り付けた。
「お兄ちゃあん、さみしかったよう」
学校との態度の差に半ば呆れつつも、舞波の肩を持って胸から引き剥がし、靴を脱いだ。
「えっと、その、夕飯は……」
「もっちろん作ってあるよ!お兄ちゃんが帰ってくるの待ってたんだから!」
「そ、そっか。ありがとう」
舞波はダイニングテーブルまで優希の手を引いて、出来上がった料理を見せるように、パーに広げた手を掲げた。じゃんっ、という効果音付きだ。
「今日はなんと、オムライスだよ。レストランで食べるようなふわふわの卵を再現してみました!ふわふわ、とろとろだよ。あ、でもごめん。残念だけど、ソースはデミグラスです。特製デミグラスソースをもうオムライスにかけちゃったから!」
優希は首を傾げる。
「何が残念なんだ?デミグラス、美味しいと思うが……」
「だってほら、それじゃケチャップで文字を書いてあげることが出来ないじゃん。名前とか、ハートとかね?でも、今日はデミグラスにこだわりたい気分だったの。だからだよ」
「そうか。別になんだって嬉しいよ」
呆れ混じりに言った言葉だったが、舞波の心には響いたらしい。頬に手を当てて、嬉しさを噛み締めるように体をぐにっと斜めに傾けた。
「さあさ、早く手を洗ってきて!一緒に食べよ」
そう急かされて、優希は早急に手洗いを済ませて食卓についた。
「美味いな、こんなの家で作れるのか」
卵のとろけるオムライスを頬張って、感想を口にした優希に、舞波は待ってましたとばかりに、ガッツポーズをした。
「頑張りました!」
「俺はどうも、卵をこういう風にしてオムライスを作ることが出来ないんだが、コツとかはあるのか?」
優希がそう聞くと、舞波はスプーンを一度置いて、指でハートマークを作って優希に見せた。
「愛情です!」
「俺はコツを聞いてるんだが……」
「いいじゃん、こういうオムライス作れるのはあたしの特権ってことでさ。食べたい時はあたしに頼んでよ。愛情たっぷりのオムライス作ったげるよ?」
「うーん……」
「それに、あたしはお兄ちゃんが作る、昔ながらの洋食店みたいなつるんとしたオムライスも大好きだよ?また今度作ってよ。ね?」
我ながら単純だが、料理のことについて褒められると、顔が緩んでしまう。分かったよ、と返してオムライスを口に運んだ。やはり美味しい。
食べ終わり、食器を片付けたあと、自室に戻ろうとした優希の腕を、舞波が両腕で抱くように胸に押付けて掴んだ。
「ねえ、お兄ちゃん、また作業あるの?あたしと一緒にゲームとか、しようよ」
いつものように適当にあしらおうと口を開いたが、舞波の顔を見て、思わず口をつぐんでしまった。見下ろした潤んだ瞳の中に、寂しさのようなものを見てしまったからだった。わざとなのか、素なのかは分からないが、ただ、断る言葉はもう優希の口からは出せなかった。
「……ああ、少しだけならな」
やったあ、とバンザイをした舞波を目の前に、優希は軽くため息をついた。
全てのことを繋げて考えるのは良くないかもしれないが、舞波の境遇を考えると、寂しがり屋な面も説明がついてしまう、ような気がする。少なくとも、優希が舞波を甘やかしてしまう理由には十分だ。けれどまあ、ゲームを一緒にするくらい別にいいだろう。切羽詰まっている状況でもないのだから。
優希は、舞波とテレビゲームを始めた。
「うわあ、負けちゃう、負けちゃう、どうしよう!」
コントローラーを持って悲痛な声で叫ぶ舞波を横目に、優希は涼しい顔で指を巧みに動かして舞波のアバターをボコしている。高速でパンチ。次は蹴り。回し蹴り。謎のビームをびびびと出して感電させる。
「ひどいよ!お兄ちゃんひどい!」
舞波は、自分のアバターの無惨な姿に悲鳴をあげた。優希は、ごめんなー、と平坦な声で薄っぺらく謝罪を返す。
「があぁーー!負けちゃったあ……!」
舞波はそう叫んでコントローラーを放り出すと、あぐらをかいている優希の膝に、力なく倒れ込んできた。膝にずしりと重みがかかる。文句を言おうと舞波の顔を見下ろすと、真下にある舞波の瞳と一瞬直線で結ばれ、逃げるようにこちらが目を逸らしてしまった。
舞波はそんな優希を見て、ずり、と頭を動かしてより優希へ距離を縮めた。本格的に膝枕をしているような体勢になり、優希はこれはまずい、と頭の中でブザーを鳴らす。
「こら、離れなさい」
舞波は、優希の棘の入った声に、不満そうに唇を尖らした。
「離れないよ。お兄ちゃんの膝、好きだもん」
「またそんなこと言うのか。あのなぁ……。最近ちょっと、距離が近すぎるんじゃないのか」
「それの何がだめなの。兄妹だもん。これくらい、当然だよね」
「当然な訳あるか……」
優希はため息をつく。学校で溜まったストレスのせいで、家で義兄に対してストッパーが外れてしまうのであればそれは健全な状態とは言えないはずだ。優希の我慢の限界に容赦なく迫る舞波の態度には、こちらとしてもこれ以上好きにやらせる訳にはいかない。
「……お前が学校で色々我慢して、その、本当に頑張っているのは知っている。見てて、分かる」
「先生あたしのこと見ててくれてるんだー?」
からかうようにそう言った、膝の上の舞波を、きっと睨む。舞波は誤魔化すようにへへ、とはにかんだ。ふっ、と息を吐いて優希は言葉を続ける。
「けど、その反動が家での態度に、……今みたいな態度に来てしまうっていうのは、どうなんだ」
「……反動?」
舞波は、困惑したように瞳を揺らした。
「ああ、そうだろう。ストレス解消、的な感じなんだろう。もちろん頼ってくれるのはその、兄として嬉しいが、兄妹だとはいえこんな風に男女でくっついたりするのはあまり褒められたことでは無い。お前に、……舞波にそんな気がないのは分かっている。だから、何かもう少し、心の拠り所を増やすとか……」
「ちょっと、待ってよ!」
舞波は、優希の言葉を遮るように声を吐き出した。がばりと優希の膝から起き上がり、右手で優希の着ているスウェットを縋るようにぎゅっと掴む。行き場の無い感情を押し付けるように強い力で引かれたスウェットに、舞波の力んだ指を中心に深いシワができていた。
「反動って何、どういうこと。お兄ちゃんは、何が言いたいの」
「何がって……。不安定な状態は良くないってことを言いたいんだ。だから例えば、その、もっと、本音を話せる友達を作るとか、頼りにできる彼氏を作るとか、」
「……彼氏?」
「ああ、そうだ。別に彼氏に限った話ではないけど、ただ、同級生とか、別にそれ以外でもいい、本心を預けられる相手をもう少し……」
ふと舞波の顔を見て、思わず言葉を飲んだ。舞波は酷く傷ついたように顔をひきつらせ、ありえないものを見たかのように大きな目を見開いて、なにかに耐えるように唇を強く噛んでいた。
「ねえ、お兄ちゃん、それ、本気で……本気で、あたしは」
舞波はうわ言のように、また噛み締めるように本気で、と口の中で転がし続け、その鈴のような声はいつの間にか湿り始めていた。
「お兄ちゃんは、あたしに、……あんなサルみたいなやつらと付き合えっていうの?」
「お前、それ同級生のことを言ってるのか?……そんな言い方はないだろう。サルなんて、そんな」
「サルだよ!」
それまで何かを抑えるように不気味なほど平坦だった声が、爆発した。
「サルだよ、あんなやつら。同級生のやつらに……、お兄ちゃん以外にあたしのこと分かってくれる人なんか誰もいないよ!」
「そんなことはない」
「あるよ!」
舞波は、滲んだ声で体をよじらせ叫んだ。
「あたしのこと分かってくれるのはお兄ちゃんだけなんだよ!」
優希は舞波を落ち着かせるように声を張上げる。
「そんなことはない。舞波のことを分かってくれる奴はきっと、いや必ずいる。探せば近くにだっているはずだ。ちゃんと向き合えば分かることだ。舞波の境遇とか、学校では猫を被っていることとか、そんなことも理解して寄り添ってくれる奴がきっと……」
「そんなのどうだっていいんだよ!」
舞波はぐしゃ、と顔を歪めてそう叫ぶと、逃げるように足早に部屋を去っていった。バタン、とドアの閉まる攻撃的な音が響いた。
残された優希は、しばらく唖然として動くことが出来なかった。シワのついたスウェットには涙が残した体温がじわりと広がっていた。
***
翌日の晩、優希はざわつく感情を引きずったまま、帰路についていた。結局あのあと、舞波とは一度も顔を合わせることなく朝を迎えた。学校での舞波はやはりいつも通り。昨日の感情的な声が頭にこびりついているからこそ、腹の底で何を考えているのかはいつにも増して読み取れなかった。
優希の感情と連動するように空模様はだんだん怪しさを増している。ぽつりと鼻の先に水滴が落ちたと思うと、みるみるうちにアスファルトを叩く土砂降りへと変わった。
優希は小走りで自宅へと向かった。部屋の前へ着き、濡れた髪を払いながらドアノブに手をかけると、優希の予想とは外れ、ドアノブは何か硬いものとぶつかるような音を立てた後、ビクリともしなかった。雨の音が急に遠くなる。何度力を入れても同じことだ。鍵が掛かっているのだと気づいた時、優希は自分の体が冷たくなるのが分かった。
舞波はどうした。なぜ鍵が掛かっている。まだ学校にいるのか?いや、そんな訳は無い。もう生徒は全員帰ったはずだ。じゃあなぜ。友達の家?舞波が気を許すような友人はいなかったはずだ。舞波がこんな時間に家を空けることなど、今まで。
優希を冷たく拒絶した扉の前で、泡沫のように湧き上がってくる取り留めもない言葉を浮かべては消して、浮かべては消して。昨日の一件が鮮明に頭によぎった時、自分が今繰り返している思考になんの意味もないことに気づき、優希は震える指で自分の鍵を取りだした。
鍵を取り落としそうになる自分にいらつきながらもなんとか施錠をとき、半ば転がり込むように部屋へ入ると、案の定、いつもなら温かく照らされているはずのそこは寂しい伽藍堂になっていた。
写真立ての写真も鮮明に見えない、薄ぼんやりとした暗闇に、どうしようもない孤独が広がっていた。心の中で身を潜めていた危うい何かが、膜を破って溢れ出す。荒くなった呼吸を抑えて視線をずらすと、傘立てに入った舞波の桃色の傘が目に入った。開け放たれたドアの外から轟くような雨の音が響く。靴は、ない。舞波は、どこに。
優希は、自分の黒い傘を傘立てからむしり取って、部屋を飛び出した。マンションのエントランスを抜け、あてもなく走る。さっきよりも強さを増した土砂降りの雨の中、傘はあまり意味を成さないようだった。日が落ちるのが早くなって、辺りは既に暗闇だった。視界がぼやけるほど冷たい雨が全身を濡らし、けれど体はどうしようもなく熱かった。
とにかく、走った。自分がどこに向かっているのかも分からなかった。探しているのか追いかけているのか追われているのか分からなくなって、けれど立ち止まっていると叫び出しそうだった。自分の中に欠けた穴が、その中から溢れ出す孤独が、もう、耐えられなかった。
昨日の一件が原因なのだろうか。だから舞波は居なくなったのだろうか。舞波はどうも、精神的に不安定なとこがあるように思うから、だから。……精神的に不安定なところがある?嘲るように笑う自分がいる。不安定なのはどちらだ。自分の方ではないのか。舞波というピースが欠けただけでぐらぐらして、がらがらで、保っていたはずの体裁も音を立てて見事に崩れる。
身体中が震えていた。優希は壊れた人形のようにぎこちなく走り続けた。息が苦しくなって、けれどその時、雨のヴェールがかかった見通しの悪い世界の中、視界の隅に温かくて寂しくて、狂うほど愛おしいものが見えた気がした。
優希は公園の前にいた。近所の、小さな公園だった。真ん中に設置されている、いくつもの穴がくり抜かれたドーム状の遊具の中に体を縮こませて座り込む女子高生の姿を認めた時、今まで全身を支配していた乱暴な感情が蒸発するように抜ける感覚を覚えた。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に踏みとどまり、よろめきながら彼女へと近づく。膝を折り曲げて遊具の中を覗き込むと、彼女もやっとこちらに気づいたようだった。
「……舞波」
そう呼びかけると、舞波はぱっと顔を明るくさせた。濡れた長い髪が、頬に張り付いていた。湿った制服のブラウスには、白い肌が浮き出ていた。
見慣れたその幼い表情を目の前にして、優希は目の奥が熱くなり、言葉にならない感情を飲み込むことも出来ずに、思わずその濡れた小さな体を力いっぱい抱きしめた。柔らかい体と肉薄し、舞波を生かす確かな体温が如実に伝わるようだった。お互いの荒い息遣いが重なっていた。
「お、お兄ちゃん、苦しいよ」
戸惑ったような舞波の声に、慌てて体を離す。
「ご、ごめん」
舞波は頬を赤らめたままはにかんで、首を横に振った。
「お兄ちゃんなら、迎えに来てくれると思ってたよ」
波打つような安定しない感情に、微かに苛立ちが混じる。
「なんでお前、家出なんか……!」
岩礁に砕けた波のように、言葉は最後まで続かなかった。優希の責めるような口調に、舞波はきょとんとしている。
「家出?どういうこと、お兄ちゃん」
「いや、だって家に居なくて……。そう、じゃないのか?」
舞波は、ぷっと吹き出した。笑いをかみ殺してにやついた口元を隠すように、くくく、と右手で口を覆って喉を鳴らす。
「お兄ちゃん、あたし買い物に行ってただけだよ。雨が降ってきて帰れなくなってたの。携帯、充電切れてて、電話できなかったんだ。ごめんね」
舞波の隣に、いつも使っているエコバックが置かれていることに、その時気づいた。
力が抜けて、思わずその場に座り込んだ。体の主導権が理性の手に戻り、ずん、と重くなる。
「そうだったのか。俺は、てっきり……」
「てっきり、なに?」
そう聞き返した舞波の顔を見ると、疑問に思っている様子など何一つない。からかうように口角を上げてこちらを覗き込んでいる。
「ねえ、お兄ちゃん。なんで家出だと思ったの?ねえなんで?」
にやーっとして執拗に聞いてくる舞波に、苛立ちやら恥ずかしさやらなんやらで顔が熱くなってくる。こいつ、分かっててやったんじゃないのか?遊ばれているようで居心地が悪い。
「あれ?お兄ちゃん、傘一つなんだ」
「……ああ、悪い。失念していた。舞波の分も持ってきた方が良かったな」
舞波はゆっくりと首を横に振った。
「二人で、入ればいいよ。どうせ二人とも、もうびしょ濡れなんだから」
「……そうだな」
優希は遊具から出て傘を開いた。ばたばた、と大粒の雨がビニールを激しく叩く。傍らに、舞波が立った。優希の肩を雨が濡らした。舞波の水気を含んだ髪が優希の鼻先に一瞬近づき、何かを掻き立てられるような甘く湿った匂いが、意識をぼやかした。
二人で部屋に戻り、優希はいの一番に舞波をバスルームに放り込むと、重たい体をソファに委ねた。ソファが濡れてしまっていたけれど、どうにかする気力も湧かないのだった。あれほど荒波だった感情は、今は嵐が去ったように凪いでいる。けれど、自己嫌悪の黒い雲はこうしている間にも厚さを増して、海面を暗く染めるばかりである。
「お兄ちゃん、シャワー済んだよ。次、どうぞ」
タオルで髪を拭きながら舞波が言った。
「ああ、ありがとう」
優希はソファから立ち上がり、バスルームへ向かった。バスルームの前で舞波とすれ違う瞬間、舞波は優希を引き止めるように、優希の濡れたシャツを指で掴んだ。
「……なんだ?」
優希は自分のシャツを掴む白い指を、不思議に思って見つめた。舞波は硬い表情を数秒続けた後、優希と向かい合って口を開いた。
「ねえ、お兄ちゃん。家出じゃないけど、でも、怒ってるのは本当だよ。あたし、怒ってる。……誰だって、大切なこと勘違いされたら、怒るよ」
「は、え……?」
意図が、読めなかった。
「お兄ちゃん。あたしにはお兄ちゃんしかいないし、お兄ちゃん以外どうだっていいよ」
部屋は、暗かった。バスルーム以外電気をつけていなくて、ぼんやりとした光が舞波の端正な顔に影を作っていた。
「え、それは……」
シャツの首元をがっと掴まれた。潤んだ瞳がこちらを確かにとらえ、狂おしいほど甘い香りが鼻腔をくすぐり、淡い桃色の小さな唇が疑いようもなく近づいてくるのが分かった時、優希は目の前の少女が何をしようとしているのかをやっと理解し、それが触れ合うすんでのところで舞波の唇を手のひらで覆った。
舞波は一瞬何が起きたのか分からなかったらしい。優希と至近距離のまま目を見開き、そして嘘でしょ、という風に優希を睨みつけた。
舞波の唇を抑える、というより、舞波の顔の下半分を引っ掴んだような状態だった。優希の角張った手に、やけに柔らかくて、熱いものが触れていた。止めるのが一秒でも遅かったら、唇に押し付けられていたであろうものだった。
舞波がもご、と何かを口にした。優希はゆっくりと覆っていた手のひらを緩める。くぐもった声で舞波は呟いた。
「さっきは抱きしめたくせに」
舞波は口を覆っていた優希の手を無理やり剥がしたかと思うと、引っ掴んだ手をもう一度口に近付け、薬指をがぶりと噛んだ。
「痛ああっ!?」
舞波は顔を歪める優希の姿に、べー、と舌を出して足早にその場を去っていった。
左手の、薬指。どこの漫画の真似事だ。あまりにも子供じみている。すべてが、すべてが子供じみている。
***
廊下には、授業から解放された生徒の笑い声が響いていた。滝のように降っていた雨は朝になると呆気なく止んで、今、窓の外には澄んだ青空が広がっている。
授業を終えて教室から出た優希は、職員室に向かいながら、左手の薬指に巻かれた絆創膏をぼんやりと見つめていた。とっくに体は乾いたはずなのに、未だ全身がふやけたような不思議な感覚に包まれている。窓から差し込む白い光が視界をぼやかして、白昼夢にいるみたいだった。
聞きなれた声が耳に入り顔を上げると、進行方向に、クラスメイトとなにやら談笑しながらこちらに向かってくる舞波が見えた。鋼鉄の作り笑顔は今日も健在だ。
優希は左手から視線を外して、無表情を作り、舞波に一瞥もくれず歩き続けた。舞波も優希に目を向けることは無い。お手本のような愛想笑いを顔に貼り付けて、相手に相槌を打っている。
舞波とすれ違う瞬間、甘い香りと共に、絆創膏を貼った薬指に柔らかいものがまとわりつくような感覚を覚えた。優希と舞波が隣合ったほんの数秒、舞波の細い指は優希の薬指を緩く掴んで愛撫し、絆創膏を優しくなぞると、余韻を残すようにゆっくりと指を離した。
優希が我に返って、反射的に舞波の指を追いかけようとするも既に優希の左手は空を切るのみであり、何事も無かったかのように笑う舞波の、他人のような声が背中に聞こえるのだった。
なんだったんだと、脈打つ心臓の音を聴きながら振り返っても、遠くなっていく舞波の伸びた背中と揺れる長い髪がみえるだけだ。夢かなにかだったのかと言い聞かせ歩みを進めようとした時、ほんの一瞬舞波がこちらを一瞥し、してやったりという風に目を細めたのが見えた。優希は慌てて顔を逸らし、職員室へ足を急がせた。