2章 2話 エロおやじの交わし方 ①
結城が車を運転しながら、紗世に訊ねる。
「マニュアルでわからなかったことはあるか?」
紗世は口に人差し指を当て、マニュアルの文章を思い出す。
「ん……とぉ、エロおやじさんは字が汚いって書いてありましたよね」
「ああ、パソコン使えない人だからな。手書き原稿だ」
「読めないくらい酷い汚文字なんですか?」
「ハイテンションになると汚文字になる……!? ちゃんと読んだのか?」
結城の声が冷たくなる。
「読みましたよ~」
「読んだだけで、頭に入ってないだろう?」
「1回読んだだけで覚えられませんよ……」
「たったあれっぽっち、頭に入れられないのか?」
「あれっぽっちって、B5のルーズリーフにイラスト抜きで、3ページはありましたよ~」
「……信じられない読解力と記憶力だ。脳ミソの皺、バーコード程度しかないんじゃないか?」
「酷い!!」
「それはこっちの台詞だ」
結城は溜め息をついて「実践でいくしかないな」と呟く。
紗世は「実践で」と聞いて顔をひきつらせる。
「心配するな、エロおやじは65Aカップの幼児体型には興味がない」
「セクハラで訴えますよ」
「図星だったか?」
「結城さん!!」
紗世が頬をぷくり膨らませる。
「口述筆記をする日もある。パソコンとボイスレコーダーは必需品だ」
結城は真顔で、さらり大事なことを言う。
端整な住宅街。
重厚な石門をパスワード入力で施錠解除し、車を数百メートル走らせる。
平屋建ての厳かな純日本家屋と和風庭園。
紗世はマニュアル「エロおやじの交わし方」冒頭の文章を、思い出す。
『皇居が見えると嘯く』と書いてあった通り、平屋建ての日本家屋から、皇居は見えるはずがない。
ミステリー作家「西村嘉行」は、35歳で江戸山万歩賞を受賞し、文壇デビューした。
デビュー当初から40歳までは、スピード感のある推理で読者を惹き付けファンを増やした。
40代半ばから50代半ばまでは、小京都を舞台に旅行雑誌記者が、難事件解決に挑む作品で読者層を広げる。
50代半ばからは灰汁の強いキャラクターを起用し、片田舎の旧家に起こる殺人事件の謎を解く作品シリーズを書いている。
紗世は結城のマニュアルに描かれた通りの間取り図や、西村嘉行の風貌に感激もひとしおなのか、目を輝かせている。
「ルーキーかい?」
「ええ、まあ」
結城は紗世に挨拶をするよう促し、自らも紗世と共に頭を下げる。
「紗世ちゃんか~、君の部下?」
「はい」
「結城くんは厳しいだろう?」
西村が笑うたび、三段腹が揺れる。
「西村先生、前回は村役場の課長が酒蔵を案内する所まででしたが、今回は?」
「そうだな~、酒樽から凶器のナイフが発見され、酒蔵長男の遺体が、屋敷の母屋で発見され奇妙な細工がなされている所までってどうだい!?」
「では、始めてください」
結城がノートパソコンを立ち上げる。
「結城さん、口述筆記ですか?」
「ああ、そうだ」
「結城くん、いいかね?」
「いつでもどうぞ」
西村が腕組みをし、目を閉じて文章を語り始める。
紗世が予想していた以上に話す速度が速い。
ボイスレコーダーはONにしたものの、この速度でパソコンを打ち込むのは大丈夫なのかと思う。
が、紗世の心配は無用だった。
結城は涼しい顔で、西村の語る文章を打ち込んでいく。
少しも慌てることなく。
――ブラインドタッチ……手元を、キーボードを全く見てない。
それに……何この速さ!? 指が見えない
紗世はポカンと口を開け、結城のタイピングを見つめる。
15分経過ごとに、結城のスマホがアラームを鳴らす。
「先生、休憩しましょう」
結城は1時間経過のアラームが鳴った所で、パソコン画面から目を外す。
「麻生……おい、麻生」
結城は紗世の頬を軽くつねる。
「!! 痛いっ。痛いじゃないですか、頬っぺたつねるなんて!?」
紗世は泣きそうな顔で、頬に手をあてる。
「いい度胸だな、ミステリー作家の大御所『西村嘉行』先生の前で居眠りなんて……信じられない」
「結城さんの方が信じられませんよ~。レディの頬っぺたつねるなんて」
紗世はぷくり風船みたいに、頬を膨らませる。
結城がクスッと、小さく声を漏らす。
「威勢のいいお嬢さんだな、結城くん。前のお嬢さんとは、まるでタイプが違う」
結城は胸を抉るような痛みに、顔を強張らせる。
結城の手が震え、結城は手を組み握りしめ、震えを隠す。
「……そうですね」
こたえた声は、震え気味で自棄に掠れている。
「結城くん、大丈夫かね? 顔色が悪いようだが」
「……犯行偽装の映像が浮かんで……けっこうエグいですね」
結城は震えるままの声で言い、笑顔を作る。
「そんなに恐いんですか?」
紗世が恐る恐る訊ねながら、パソコン画面を覗き込む。
「先生、打ち出してみますか?」
「ああ、そうしよう」
「麻生、プリンターセットしろ」
「はい」
紗世が素早く動く。
結城特製マニュアル「エロおやじの交わし方」には、部屋の詳細が描かれている。
調度品の場所から、コンセントの位置まで、細かく丁寧に。
紗世は迷うことなく行動できた。
「結城くん、君は仕事が速いし丁寧で助かるよ」
西村はA4用紙に印刷された文章を目で追いながら、ニコチンフィルターを付けた煙草を吸う。
「やれ字が汚い、やれもっとゆっくり話せだのと、一切愚痴を言わないし、君のタイピングは誤字脱字の心配もない。君が担当になってからは、ストレスが溜まらないんだ」
「ありがとうございます」
西村は奥歯が見えるほど口を開け、だらしなく脂肪のついた体を揺さぶり豪快に笑う。
「あんなに高速打ちして、ノーミスなんですか?」
紗世は目を丸くし、口を無駄にパクパクさせる。
「紗世ちゃんと言ったかね、読んでみたまえ」
紗世は、西村の差し出した原稿を両手で、受け取ろうと手を伸ばす。
ふくよかな分厚い手、節まで脂肪のついた手が、紗世の手を握る。
「あっ」と思い、紗世はマニュアルの花丸色つき項目を思い出す。
「先生の手は暖かいですね、お父さんみたいです」
「お父さんか」
西村はガッカリしたように手の力を緩める。
結城はやはり下手に抵抗するより「お父さん」は、効果があったなと思う。
紗世は、ソファーに座り大人しく読んでいたかと思うと、急に「ひぃぃー」とか「うっ」とか「きゃあー」とか声を漏らす。
「麻生、静かに読めないのか」
「だって……お台所用品が犯行現場偽装に使われてるなんて、めちゃくちゃ恐いじゃないですか~。お料理するたび、映像が浮かんできそうじゃないですか~」
紗世の声も顔もひきつっている。
「夜中に目が覚めたら、恐くて眠れないかも……」
「紗世ちゃんはかわいいな~。なあ、結城くん」
西村の目が、紗世を上から下まで舐めるように見つめ、鼻の下が伸びきっている。
にへらっと歪めた口からは、よだれが垂れてきそうだ。
結城はあまりの気持ち悪さに胃液が逆流し、吐き気を感じ、胃を擦る。
「銀縁眼鏡に黒いパンツスーツで、ハイヒールを鳴らす理系女みたいに小生意気ではなくて」
結城は誰のことを言ったかわかるだけに、素直に頷けない。
「俺はどっちかって言うと、ぶりっ子よりも知的な女性が好みです」
「ほお~」
「かわいい、綺麗だけの女性は面白味に欠けます。
恐いものをただ、恐いとしか表現できない……恐いものに作家が秘めたメッセージを受け取る感性、そういったものを、俺は麻生に磨いてほしいと思います」
結城は紗世の目から目をはなさず、毅然と言い放つ。
「紗世ちゃん、大丈夫かい? 結城くんのスパルタ式に耐えられるかい!?」
紗世は給湯室から見た、結城が黒田に頭を下げる光景と言葉を思い出す。
凛とした真剣な姿が紗世の脳裏に焼き付いている。
先ほど西村の何気ない言葉に、結城の見せた強張った顔と震えていた手。
結城特製のマニュアルは手書きで丁寧に、詳細なイラストまで描き、色分けまでして、紗世を退屈させなかった。
――取説みたいだと、引き出しの肥やしになるだろう
紗世は結城の言葉を思い出し、あんな気配りをする人が厳しいだけとは思えない。
「先生、結城さんはスパルタ式なんかではないです。結城さんは優しいです」
紗世はキュッと胸に、マニュアルを抱き締める。
「麻生――何言ってるんだか、意味がわからない」
西村は「いいコンビになりそうだ」ニンマリと笑う。