2章 1話 お局様へ
沢山江梨子のマンションから、相田が結城を抱きかかえ、車に乗せて紗世の運転で帰社する。
会社の駐車場から、紗世は編集長に電話を入れて、なんとか編集部へ戻ってきた。
結城はまだ、ソファーに伸びたまま目を覚まさない。
確かに沢山江梨子のマンションは香水の匂いが、どぎつかった。
噎せ返るような香水の匂い。
紗世も、あんな凄い匂いの香水は初めてだった。
それにしても……と紗世は思う。
「麻生くん、どうなった? 沢山先生は」
編集長「渡部篤史」が期待を込めたように訊ねる。
「はい、猛然とパソコンのキーを叩いていらっしゃいました」
「ほお! さすが由樹だな。沢山江梨子は大嫌いだって言っていたから、どうなることかと思っていたが……」
渡部が「間に合いそうだな」と満足気にほくそえむ。
「嫌いな作家の、作品の登場人物の仕草を再現できるほどなんて」
「……マニュアル、22ページ『敵を落とすには敵を知るべし』を読め」
「結城……さん!?」
薄目を開けた結城が、紗世に言う。
「窒息しそうな香水の匂いだったな……更に沢山江梨子が嫌いになった」
結城は細く頼りない声で呟く。
「結城さん、どうしてあんなことしたんですか!?」
紗世は結城が、沢山の頬に顔を寄せたシーンを思い出す。
「あんなこと!?」
「沢山先生に……ゆ、結城さんが、か……顔を」
「あ~、あれか。間一髪免れたな。端から、その気はなかった」
「もし、先生が遮らなかったら先生に、そ、その、キ、キ」
「麻生、あんな厚化粧ババアにキスなんかするわけないだろう、気持ち悪い」
「えっ? でも~」
「ちゃんとリサーチ済みだ。沢山江梨子はキスコンプレックスなんだよ」
「キスコンプレックス!?」
紗世の甲高い声が編集部に響き渡る。
「結城さんは沢山先生の作品を熟読してるんですか?」
「んなわけないだろ、あんなクソ面白くない小説」
「へ!?」
「キャラ設定がパターン化してる。『空を読む』の冴子、亮司のキャラ設定は『エターナルグレイス』『ローズマリーは微笑まない』のキャラ設定と酷似している。3作を比較分析してみろよ」
結城はソファーに横たえたまま、紗世の目を見て話す。
「違うのは容姿描写と僅なコンプレックスの違いだけ、安っぽい恋愛小説だ。官能小説の方がまだマシだな」
紗世は手厳しいなと思う。
結城はゆっくりと体を起こし、こめかみを親指と薬指でギュッ押す。
「まだ頭痛がする。何時?」
「12時です」
「マニュアル3ページ『エロおやじの交わし方』を読め。1時半に出掛ける。1時に起こせ」
「はい」
紗世はスマホのアラームを設定し、席につく。
鞄から結城特製マニュアルを取り出し、結城に指定されたページを開く。
結城は席につくなり、鞄から青汁スティックと、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
机の引き出しを開け、紙コップを手に取り青汁スティックとミネラルウォーターを同時に注ぐ。
結城はそれをグイッと一気に飲み干し、「麻生、昼ご飯はちゃんと食っとけよ」ポツリ言い、机にうつ伏せる。
「ったく、由樹は……麻生くん、食べないか? 四越のカツサンド」
「わあーっ、編集長ありがとうございます。珈琲淹れて来ますね」
紗世は給湯室で3人分の珈琲を淹れて、戻ってくる。
「編集長、どうぞ」
「ありがとう、ん? 麻生くん。由樹は珈琲、飲まないよ」
「そうなんですか?」
「カフェインが苦手らしいんだ」
「だから、青汁なんですね」
「ん……どうだろう」
紗世は珈琲を乗せたお盆を手に、席に戻る。
「モタモタしてるとマニュアル読む時間なくなるぞ」
結城がうつ伏せたまま呟く。
紗世は「わかってますよ」と言いたいのを我慢して、マニュアルを読み始める。
「『エロおやじの交わし方』
皇居が見えるんだよと嘯く三段腹のおやじは、毎回舐めるような視線を送る。
彼はやたらと、俺の体をなで回す――気色悪い……」
「わぁーーっあ!!」
結城はガバッと体を起こし、素早くマニュアルを閉じて取り上げる。
「バカか? 声出して読むな」
「な、何するんですか? 読み始めたばかりなのに……」
「声に出して読めとは言ってないからっ」
「返して下さいよ~」
「嫌だ。お前に渡したのは間違いだった」
結城はマニュアルを胸に抱きかかえる。
「もう、声に出して読みませんから。イラスト付き、色付きで、面白かったのでつい……」
「取説みたいだと、箪笥の……いや、引き出しの肥やしになるだろうからな」
――なるほど
紗世は結城なりの工夫を感じて、嬉しくなる。
結城がマニュアルを手渡し「声に出して読むなよ」と、釘を刺す。
「は~い」
「ったく、ゆっくり寝かせろよ」
紗世は再びマニュアルを読み始める。
パソコンの文字でなく、わざわざ手書きで書いたのも、結城の配慮だろうと思う。
ペン習字の手本のように丁寧な文字と、イラストには部屋の間取り図まで細かく描かれている。
大事な部分には色分けし、花丸までつけた、引き込まれるような文章の「エロおやじの交わし方」のページ。
紗世は一気に読み終えた。
――このマニュアルって全部、こんなに?
紗世はパラパラと中身を確かめる。
――うわぁ、結城さんって凄いマメだな~
紗世は自分の為にだけのマニュアルに、じわり胸が暖かくなる。
ニコニコしながら、マニュアルを鞄に仕舞い、昼食に食べたカツサンドの空箱等を片付ける。
13時。
アラームセットしたスマホが、点滅しながら機械音を鳴らす。
紗世は、もう少し感激の余韻に浸っていたかったと思う。
「結城さん……結城さん」
紗世が結城の肩を揺さぶる。
カツカツとヒール音が近づく。
紗世がハッと、音のした方へ目を上げると、黒田が手を腰に当てモデル立ちし、鋭い視線を向けている。
「麻生さん、由樹を揺さぶり起こさないで」
「えっ?」
「胃の中の内容物が上がってしまうから」
「はあ!? 胃の中の?」
「鈍いわね、吐き気を誘うのよ」
――何、この過保護な発言は……
紗世は黒田をスルーして、「結城さん」結城の肩を揺さぶる。
「揺さぶらないでって言ってるでしょ!!」
「たかが揺さぶったくらいで吐き気なんて……」
「たかが揺さぶったくらいで、ですって!?」
黒田が顔をひきつらせて喚く。
紗世の手首にピタリ冷たいものが、そっと触れギュッと握る。
紗世は「冷たい」と思い手元に、視線を落とす。
白くて細い手が、紗世の手首をしっかり握っている。相手にするなと言うように――。
「……人が気持ちよく寝てるのに、ギャーギャーうるせぇな~」
結城は2人の声に起こされた風を装い、目を擦りながら気だるそうに言う。
「麻生、すまないがお茶淹れてきて……緑茶」
「はい」
紗世は不安そうに立ち上がり、結城と黒田を交互に見て、給湯室に向かう。
「由樹、起こしちゃったわね」
黒田がつり上がっていた目を下げて、猫なで声を出す。
結城はゆっくりと背伸びして、紗世が給湯室に入ったのを確認し、黒田を見る。
「いえ、13時には起きる予定でしたから」
「アラームで起きないからって、揺さぶり起こすなんて」
「アハ……気を遣わせちゃいましたね」
結城は目尻に手を当て、顔を半分隠し、すまなさそうに言う。
そして……スクッと立ち上がる。
「黒田さん、俺……頼りないかもしれないけど、麻生は俺の部下なんで、俺がちゃんと育てますから。黒田さんにはそっと見守っててもらいたいんです」
「由樹……」
「黒田さんのお気持ちは凄く、嬉しいです。生意気言ってすみません。お願いします」
結城は深々と、頭を下げる。
給湯室に聞こえてくる結城の細いけれど、凛とした声。
紗世は給湯室から編集室の様子をそっと、覗く。
――あの俺様な結城さんが頭を下げている。
黒田さんのことをお局と言っていた……結城さんが
紗世の目頭が熱くなり、唇が震える。
「……由樹が私に頭を下げるなんて初めてね」
結城は頭を下げたままだ。
「入社以来3年。貴方がそんなふうに、何かをお願いして、私に頭を下げたことなんて……1度だってなかった」
寂しそうな黒田の声を聞きながら、結城は頭を下げ続ける。
「仕事のノウハウ、貴方は口で説明する隙さえ与えず、見よう見まねで1度見ただけで完璧に覚えて、僅か1年で……私を追い抜いてた。『原稿取り立ての鬼』と唱われた黒田芽以沙を……」
結城は不動のまま、黒田の呟きを聞いている。
「『結城由樹は担当した作家の原稿を絶対落とさせない』とまで噂されてる、その『結城由樹』が……私に頭を下げるのね。あんな小娘のために……」
結城が頭を下げたまま、再び「お願いします」と言う。
「わかったわ」
「ありがとうございます」
結城は、やっと頭を上げ黒田に微笑む。
「でも、もし貴方が私とあの子の前で倒れるようなことがあったら、私は容赦しないから」
結城は「はい」とこたえて黒田から視線を外す。
カツカツと響くヒール音。
給湯室から、様子を見ていた紗世の目から大粒の涙が、頬を伝った。
結城は鞄にペットボトルのミネラルウォーターを押し込み、机の引き出しを開け、ファイルを取り出す。
パラパラとファイルを確認し「良し」と、頷き鞄に入れる。
「麻生、モタモタしてると置いていくぞ」
給湯室を覗いて結城が紗世に声をかける。
黒田が結城を一瞥し、フッと小さく溜め息をつく。
「えーっ!! お茶淹れて来いって言ったじゃないですか~?」
紗世は間の抜けた様子で、ぼやく。
結城は紗世の顔をチラと見て「化粧直してこい、10分だけ待ってやる」と冷たく言う。
――涙の跡。あんなことで……
結城は紗世の後ろ姿を見つめチッと、舌打ちをする。
――もう、部下を辞めさせない、俺のせいで
結城は拳を握りしめる。
掌に爪の痕が残るほど強く。
――もう、あんな思いは……したくない
結城はデスクの上、伏せた写真立てに、目を落とす。
そして……手の甲に刻まれた、まだ変色している傷を見つめる。
――もう、……あんな思いはしない。もう、2度と……