1章 3話 香水の匂いに……酔ったみたいだ
満員電車には乗れない体質だという結城。
結城が車を運転し、沢山江梨子の超高級マンションに着いたのは、会社を出て約30分後弱だった。
予め、沢山江梨子の担当者「相田匡輝」に部屋のパスワードを聞いていた結城。
ロック解除のためにパスワードを入力し、インターホン越しに沢山江梨子と話す。
沢山江梨子の声は猫なで声のようで、結城は震え上がった。
沢山江梨子の部屋の前。
結城は結城を待っていた相田に、事情を聞く。
「相田さん、顔色悪いですよ。ちゃんと寝てます?」
「明後日が締め切りなのに、眠れるわけないだろ!?」
「相田さん、貴方が原稿を書くわけではないんですよ。相田さんがバテたら、誰が先生の担当するんです? 俺は嫌ですよ。相田さんの代わりは」
「結城……」
「俺、沢山江梨子って大嫌いだし」
「結城!?」
「俺は沢山先生のご指名だったとしても、先生の担当者にはなりませんからね」
沢山江梨子はベストセラー作家だ。
10年前、恋愛小説でユーカリ社主催のユーカリ賞を受賞し、文壇に華々しくデビューした。
以来ずっと、書けば当たるヒットメーカーとして売れに売れている。
高飛車、自己中、我が儘、ヒステリックでも有名だ。
「俺は編集長命令で来ただけです。今日は不本意ながら1ファンとして沢山江梨子を観察させてもらいます」
結城は凛として言い放つ。
相田に案内され、部屋の奥に進む途中。
「麻生。お前は、ただ頷いてるだけでいい」
結城は紗世に耳打ちする。
噎せ返るキツイ香水の匂いに結城は、手で鼻を覆う。
「吐きそうなくらい香水キツイな」
結城はポツリ呟く。
相田を介し、沢山江梨子に対面し、結城は丁寧に挨拶する。
「噂以上のイケメンね」
沢山江梨子の視線が、結城を上から下まで舐めるように移動する。
頭がクラクラしてきそうな香水の匂い。
「素敵な香りですね、先生のお宅は」
紗世は心にもない言葉を吐き出す結城の真意が見えず、結城の顔を見上げる。
「そうでしょう? フランスから取り寄せた香水なの」
「高貴な香りです……でも、僕みたいな青二才には刺激的過ぎて、玄関から此所までくるだけでクラクラして」
「あらっ、そんなに刺激的だったかしら」
厚化粧をした顔、テカテカしたグロスを塗った唇、どれをとっても好感度ゼロだと、結城は思う。
「沢山江梨子先生、連載中の『空を読む』読ませて頂いてます」
「ありがとう」
「冴子の切なさ、儚さ、だけど内に秘めた妖艶さが、まるで先生のようで……」
結城は沢山江梨子のデスクに歩み寄り、連載を絶賛する。
「なあ、麻生。良いよな、『空を読む』」
「はい、とっても」
沢山江梨子が頬杖をつき、うっとりしたような目を結城から離さない。
「結城くん、お掛けなさいな。ゆっくり話が聞きたいわ」
相田は沢山がそう言ったと同時に、結城が微かに笑ったような気がした。
「遠慮なく」
ゴブラン織のソファーに腰を下ろし、結城はサッと右足を下にして、足を組む。
沢山の目の輝きが増す。
「相田くん、お茶を淹れてちょうだい」
「はい、先生」
結城はソファーに腰掛け、鞄を下ろした紗世に、「相田さんを手伝って来い」と促す。
窓から射し込む光に、結城は目をすがめる。
沢山が「あっ」と声を漏らす。
「『空を読む』の冴子が煙草を吸う仕草、俺すごく好きなんです」
結城は言いながら、小説のヒロイン冴子がライターで煙草に火を点け、煙草を吸う仕草をジェスチャーで真似る。
「そう、冴子はそういう仕草で煙草を吸うの」
沢山が喜びに、胸の前で手を叩く。
「それから……」
結城は沢山の連載に登場するヒロイン「冴子」と、その彼「亮司」の仕草を次々に再現していく。
「先生、どうぞ」
相田が沢山のデスクに、珈琲をコトリ置き、結城の向かいに座る。
紗世が相田と結城に、「どうぞ」と珈琲を置いて、自らもソファーに座る。
珈琲カップを手に取り珈琲を啜る結城の仕草は、連載中の小説に登場するヒロインの彼「亮司」そのものだ。
「結城!?」
相田の目が驚きに見開かれ、沢山が「凄いわ」満面の笑みを浮かべている。
「結城くん、本当に凄いわ。冴子も亮司も仕草がそっくりよ~」
「光栄です」
結城は言うと、スッと立ち上がり沢山の側に寄る。
「では先生、こんなのはどうです?」
結城が沢山の座っている椅子をくるり、回転させる。
「結城さん!?」
紗世はゴクリ喉を鳴らす。
相田も結城から目を離せない。
結城の細く長い指が沢山の頬にそっと触れ、滑るように沢山の顎をクイッと上げる。
「冴子……」
前回連載のラスト、亮司が冴子に接吻する緊迫した場面だ。
「……亮司」
結城が沢山の頬に顔を近づける。
紗世と相田の胸の鼓動が、半端ないほど脈打っている。
紗世は緊張に耐えきれず、目を閉じる。
「あ……」
結城の唇が沢山の唇に触れる寸前、沢山の手が遮る。
椅子を回転させパソコンの正面に向かい、猛然とキーを叩き始める。
「書けるわ、イメージが湧いたの」
軽快に鳴るキーの音、沢山の生き生きした顔。
悲愴感を漂わせていた相田の顔が明るくなる。
相田が立ち上がり「結城、助かったよ」言いながら、軽く結城の肩に手を置いた瞬間、結城の体がグラリと揺れる。
「!!……結城!?」
相田が沈みこむ結城の体を支える。
「……すみません……」
「おい!! 結城!?」
全身の力が脱落したように、結城が相田に凭れ掛かる。
「結城! おい!!」
沢山は我関せず、一心不乱に、パソコンに向かっている。
「すみません……香水の匂いに……酔ったみたいだ……」
相田の肩に回した結城の腕がずるりと外れ、結城の体が毛足の長い絨毯の床に沈む。
「結城!!」
――結城……さん!?
駆け寄る紗世の声は喉につまり、声にならなかった。