1章 2話 鞄の中には除菌スプレーと……etc.
「キャアーーッ由樹!?」
「由樹!! おい!?」
「あなた、何てことしてくれるの? 由樹の顔に傷でもついたらどうするのよ」
紗世は目の前で倒れているイケメンと、騒ぎ立てる面々を見つめて、何が起きたのかを認識する。
「あの……たかが鼻血で倒れただけでしょう? そんなに騒がなくても……」
「たかが鼻血ですって」
言いかけた紗世の言葉を奪うように遮って、ショートボブで眼鏡をかけた女性が、紗世を睨みつける。
「まあまあ。君、えーと……麻生紗世くん。 悪いがおしぼりを給湯室から持ってきて」
「……はい」
紗世は渋々、給湯室に向かう。
とんだ部署に配属されてしまったと凹む。
紗世が給湯室から、おしぼりを持って出てくると、イケメンは革製のソファーに寝かされている。
「あの、おしぼり持って来ましたけど……」
紗世はイケメンの傍らに寄り添うショートボブの、眼鏡をかけた女性に、おしぼりを差し出す。
ショートボブの女性は憮然とした表情で、おしぼりを受け取ると、素早く広げてイケメンの顔を拭き始める。
「麻生くん、ありがとう。異動早々すまないね、編集長の渡部篤史だ。宜しくな」
渡部は穏やかに微笑んで、紗世の手を取り軽く握手する。
「麻生紗世です。宜しくお願いします」
「ん、出払って居ない人間も多いから、今はそこの黒田芽以沙くんと私。それから、そこに寝ている結城由樹しかいないけれど」
――結城由樹!?
紗世はソファーに寝ているイケメン「結城由樹」を見つめる。
同期で総務部所属の愛里が、いつだったか「うちの会社には超有名人がいるんだって」と話していたのを思い出す。
更に、紗世は愛里が「『結城由樹』って名前で、ハーバード大学を飛び級で卒業してるんだって。仕事も凄く捌けるんだって」と、いつになく目を輝かせ話していたことを思い出した。
――か、彼が「結城由樹」!?
紗世は口を金魚みたいにパクパクさせて、言葉を忘れたみたいに立ち尽くす。
「麻生くん。君には由樹が仕事を教えるから、仲良くね」
「はい……えーーーっ!?」
紗世は編集長の渡部と、ソファーに伸びているイケメン「結城由樹」を交互に見つめる。
「この人にですか?」
ショートボブの黒田芽以沙が、苦虫を噛み潰したような顔で、紗世を睨んでいる。
「嫌かい? 由樹はここに配属以来、担当作家先生の原稿を1度も落とさせたことがないんだよ」
紗世は結城由樹が編集長「渡部篤史」に、全幅の信頼を得ているのかと思う。
エレベーターに関する、あの発言をした訳のわからないイケメン。
紗世にとって、「結城由樹」の第一印象は最悪だった。
なのに、とても嫌とは言えない状況なのが、紗世にもハッキリとわかる。
今、ここで紗世が「嫌です」と、一言でも言おうものなら、苦虫を噛み潰したような顔で紗世を睨んでいる黒田芽以沙が、豹変し金切り声を上げ、ヒステリックに喚き散らすに違いないと……妄想する。
紗世は、それだけは勘弁してほしいと思う。
「凄いですね。頑張ります」
紗世は泣きたい気持ちを抑えて、笑顔を作る。
黒田芽以沙が「当たり前でしょ」みたいな顔で、鼻血のついた結城の手と顔を拭き「はい、これ洗っておいて」と、紗世に汚れたおしぼりを差し出した。
それにしても……と、紗世は給湯室へ向かいながら思う。
――たかが鼻血を出したくらいで、いつまで伸びているのかしら
紗世は大きく長い溜め息をつく。
このまま、給湯室から出て回れ右して元の部署「広報部」へ戻りたいと、紗世は思う。
感傷に浸る紗世だったが、「麻生紗世さん」細い声が紗世の上に降ってきた。
「驚かせてすまなかったな」
目を白黒させ、動揺する紗世。
「この結城由樹がみっちり仕事を叩きこんでやる、宜しくな」
結城は薄く笑みを浮かべ、不安そうにしている紗世の頭を、軽くポンと撫でた。
そして、結城は細く長い指を上着のポケットに入れ、中から何かを取り出し、紗世の手をそっと取る。
掌を上向きに広げて、その上に数個何かを乗せる。
紗世は小さなハートの絵が描かれた包みを見つめ、首を傾げる。
――キャンディ!?
紗世が不思議そうに結城を見上げる。
「1粒で100メートル走れるブリッコのキャラメル」
さりげなく、あまりにも穏やかな優しい笑みを残して、結城は給湯室を出る。
――可笑しな人
紗世の胸がキュンと熱くなる。
「ありがとう」
慌てて給湯室から顔を出し、結城の後ろ姿に声をかける。
結城は後ろ姿のまま、サッと手を振った。
「由樹、すまんが沢山江梨子先生の所に行ってくれないか?」
「何で俺が。担当いるじゃん?」
「明後日締切の連載、沢山先生がまだ1行も書いてないらしい」
――相田さん、何やってるんだ?
結城はチッと舌打ちをする。
「由樹、相田が1週間粘ってるんだがダメらしい。先生が『結城由樹くんを呼んで』ってきかないんだと」
「はあ? 俺、沢山江梨子って超嫌いなんだけど……」
結城は思い切り嫌そうに、顔をむくれて見せる。
「穴を開けられたら大損害になっちまう」
「わかりましたよ~」
結城はむくれた顔のまま、出かける準備を始める。
紗世は結城の側で、結城が鞄の中に筆記用具、ノートパソコンなど確認しながら入れていくのを観察している。
「あっ、麻生」
結城は紗世の顔を見るなり、机の引出しからB5サイズのルーズリーフ型ノートを取り出す。
「これ、マニュアルな。大概のことは、それに詳しく解説してある。後は、自分で見やすいように工夫して書き込みするなり、線引くなりシール貼っつけるなりしろ。解らないことは、後伸ばしにするな。
小さなことでも、バカみたいな質問でも、しつこくても、面倒でも、ちゃんと答えてやる」
真剣な眼差しが、紗世を射抜くように見つめている。
「返事は?」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい!!」
「ん、よろしい。――麻生、来るか? 沢山江梨子の所」
「いいの……いいんですか?」
紗世は慌てて言い直す。
「……ふーん、敬語使えるんだ。沢山江梨子は手強いぞ~」
結城は悪戯っぽく微笑む。
結城はその間も手を休めない。
紗世は結城が鞄に入れていくものを、マジマジと見ている。
――明らかに何かがおかしい。
紗世は思う。
ノートパソコン、筆記用具、ファイル、ハンカチ、タオル、靴下、財布、名刺入れ――までは、まともだった。
500mlのミネラルウォーター、携帯ティッシュ、除菌スプレー、次々と鞄に入れていく。
更に携帯用カイロ、携帯酸素ボンベ缶、熱冷まし用冷却シート、青汁スティック。
「えっ」
――おかしい。絶対変、何かが変
紗世の目は皿を通り越し、点になっている。
「何か?」
結城は異様な視線を感じて、ゆっくり訊ねる。
「あの……結城さんて年、はお幾つですか?」
「俺!? 22だけど……」
「えーーっ!? 22歳? 22歳で青汁スティック!?」
「そこ、ずれてるだろ。疑問が」
「ずれてないです! 22歳で青汁スティックに、酸素ボンベなんて……」
「仕方ないだろ……体弱いんだから」
「もしかして、その若さで慢性成人病?」
「違う!! 断じて違うから……」
結城の顔が能面のように凍り付き、紗世は「ごめんなさい」と呟く。
「麻生、行くぞ」
貼り付けたように冷たい顔が、紗世を一瞥する。
「はい」
紗世が恐々と、結城の後に続く。
「麻生さん、ちょっと」
不意の呼び掛けに振り返った紗世。
黒田芽以沙が険しい顔で紗世を見下ろしている。
「由樹にあんな酷いこと言わないでちょうだい」
「あの……どういう意味でしょう?」
「由樹が成人病なわけないでしょ」
黒田は眼鏡の柄を上げ、「ホントむかつく」ポツリ呟く。
――何なの。
黒田さんが怒ることではないでしょ
室を出ながら、紗世は頬を膨らませる。
「麻生、遅ーい」
通路の曲がり角で、マスクを着けた結城が、紗世を呼ぶ。
紗世は小走りで駆け寄り「すみません」と頭を下げる。
「黒田さんに何か言われた?」
紗世に肩を並べた由樹が訊ねる。
「いえ……」
「嘘はつくな。『由樹に酷い口を利くなって言われました』と顔に書いてる」
「……どうして?」
結城はフッと儚げに微笑む。
「お局様の言葉は聞き流せ。いちいち気にしてたら、胃に孔が開くぞ」
「はい」
紗世は短くこたえて、結城を見る。
結城は、もう澄まし顔に戻っている。
「お局様って言ったこと、黒田さんに言うなよ」
「言いませんよ」
紗世はフフッと微笑む。