『風切』の試練③
半身が浸された黒い水から這い上がる。どうやらマガリは、何の前触れもなく冥蜾へと落ちてしまったようだ。恐らくマガリは、逆須磨明治とボラを撮影している最中に、水中に埋もれていた何らかの箱を踏んだのだろう。それが運悪く、冥蜾と現界の橋になってしまったという訳だ。
「あー、どうしよっかな……割とヤバいよねこれ……」
マガリは咄嗟に装札を使ったことで、冥蜾の瘴気から身体を保護した。それは良いのだが、どうしようもないような障壁が存在していた。己の力では何の進展も得られないと、マガリは項垂れる。
七崩県は、冥蜾の瘴気による影響を考慮した結果、マガリに冥札を渡すことを渋った。故にマガリが一人で冥蜾に入った場合、脱出する術を持たない。七崩県はそもそもそのような事態が起こり得るはずがないと踏んでいただろうが、イレギュラーというものは唐突に現れるのだ。
しかし、事態に気付いた逆須磨明治と阿弥陀はきっと冥蜾へ来るだろう。マガリは何としても、それまで生き延びなければならない。戦闘は最低限に抑え、できる限り逃げに徹すると決めた。
「なるべく麽禍と会いませんように……って言ってんのにぃ……」
マガリは屈伸、伸脚を経て、準備万端と意気込む。虚しい願掛けを呟くも、眼前の岩陰からは漆黒の異形がひょっこりと顔を出していた。幾重にも重なる唇が口角を吊り上げ、標的を捉えたようだ。
マガリがはじめて麽禍を目撃した、あの日の旧校舎に現れたモノと同じ姿。恐らく麽禍の中でも一番の低ランクと語られる寧獄だろうか。しかし、マガリの心象に戦う意思は湧いていない。頭の中は、ただ逃げるという選択肢のみである。
「うぅん、無理ぃぃぃ‼︎」
命懸けの鬼ごっこが始まった。マガリの身長の二倍は裕に超える図体が迫る恐怖は、穏便な逃亡を可能にできるようなものではない。一歩を踏み出す動作のたびに、マガリは近隣の麽禍に存在を知らしめていく。もうここまで来れば、戦闘は避けられない。
「あーッ、もういいッ」
マガリは右脚をブレーキとして、身体の前進を止める。瞬間にその身を捻り、重厚な拳の装備で顎と鳩尾を守った。淡々と近付く寧獄は標的の停止を好機と見たか、より一層浮かべた笑みに下品さを増している。
タプタプと揺れる寧獄の顎だかなんだかよく分からない部位、その一点へと、マガリは照準を合わせた。
「……っるぁ‼︎」
一撃、寧獄の全身が衝撃に揺さぶられる。右の拳がめり込んだ漆黒の肉塊は、無様にも吹き飛び土埃に塗れた。
「よし……って感じでも無いかな……」
マガリは盛大な発狂を連れて冥蜾を走り回ったのだ。当然、この一匹の寧獄だけで済む問題では無いだろう。振り向いた先、五か六か以上は数えるのも面倒な量の異形たちが佇んでいた。それは動物や巨大化した虫を模倣したような姿をしているが、明らかに現界のそれとは異なる。増殖した目や、人間に似た手足を生やしたものと、麽禍の種というのも多種多様なようだ。
「流石にちょっと……いや、かなりキツイかな……」
休息を与えてくれる筈もなく、複数の麽禍はマガリという馳走を我先にと走り出す。マガリは一呼吸を置いて、逃走のため脚を構えた。
と、一歩を踏み出そうと試みたマガリの背景から、強烈な風が吹く。まるで家を揺らすほどの台風の日を彷彿とさせる風圧に、マガリの身体はよろけてその場にしゃがみ込む。地に手をつき、かろうじて耐え凌げる体勢となった。
「ちょっ……何⁉︎」
突風の正体を探るため、マガリは首を回す。すると、先程まで飢えを露わにしていた麽禍が姿を消していた。
いや、正しくは、その土に覆い被さるよう落ちていた「何か」がそれだろう。細切れにされた肉片が、面影なく佇むばかりだった。未だ吹き続ける風に乾燥するマガリの眼は、その景色に固唾を呑む。
「よぉー、マガリ。元気?」
地を覆う肉片の合間を縫って、逆須磨明治が気さくに手を振る。傍の阿弥陀はマガリの無事を目撃した事に、胸を撫で下ろしていた。となると、先ほどたった零点数秒で行われた麽禍の殲滅は、逆須磨明治によるものだったのだろうか。
「明治さん……‼︎ありがとうございます‼︎」
「おーおー気にすんな。しっかし県もちゃんと冥札渡しとけよって話だわ、帰って文句言ってやろうぜ」
逆須磨明治は適当に笑う。マガリは内心、正直ふざけた人だなと思っていたのだが、その実力はやはり玖座という立場故に計り知れないものらしい。
「マガリちゃん、大丈夫⁉︎怪我とかしてない⁉︎」
「大丈夫だよー、危なかったけどね」
どうであれ、逆須磨明治が現れなければ何かしらを負っていたかもしれない。マガリの安否に敏感になっている今の阿弥陀に、素直に安心してくれというのは、少し酷なのかもしれない。
「あ、そうだマガリ。スマホ返して」
「あぁ、そういえば」
逆須磨明治に撮影のためと渡されたスマートフォンは、マガリの装札ケースに収納されていた。最新型は防水性能も高いようで、特に破損している様子もなかった。マガリはスマートフォンを、逆須磨明治に手渡す。
「よし、じゃあ始めるか」
「……はい?」
逆須磨明治は、スマートフォンのカメラアプリを開いて動画撮影開始のランプを点灯させる。マガリと阿弥陀を写し込んで、その場にあった岩へと腰を下ろした。
「お前ら二人で、アレ倒せ」
逆須磨明治の指差した先。
マガリと阿弥陀は振り返り、絶句した。