最強
七崩県と南風原舞花の沈黙を連れて、宵闇の中に車を停める。入り組んだ道の先に構えていたのは、特になんの特徴も無いような埠頭だった。とうに業務を終えていたようで、人の気配はカケラも感じられなかった。七崩県は助手席から降り、簡素な波の音が反響する方向へと歩き始める。
「舞花、一応後ろの二人頼むわ」
「了解っす」
エンジンを切り、南風原舞花も同じようにして席を立つ。マガリに少し待つように告げ、抹茶色のミニバンを背にして立ち惚けていた。
「っし、やるか」
七崩県の一言。締め切られた車内のマガリには届かなったようだが、それを合図としたかのようにして、波の音が段々と膨れ上がる。閉鎖的な埠頭の入り江から、巨大な丑の頭が姿を表した。波ヶ咲直の腕を飛ばしたあの麽禍より一回りほど小さいかといったその異形に、マガリは何が起こったのかを瞬時に理解した。
七崩県は、この麽禍の存在を感知していたのだろう。丑の頭に人のような身体が海水を滴らせながら立ち上がる様は、まるでクレタ島の迷宮に幽閉されていたのだろうかと思わせるような雰囲気を纏っている。
ふと、眼前の麽禍に集中を向けていたマガリの視界に影が映り込む。特徴的な丑の顔を遮るようにして、闇夜に紛れた一つの姿。その須臾に、丑の頭が根本から消えた。意気揚々と、見下ろした視界に立つ人間に涎を垂らしていた麽禍は死期を悟る時間など与えられぬまま、その命を終わらせたようだ。
吹き飛ばされた頭が、重力のまま海水の飛沫を上げる。続くようにして、司令塔を失った身体も段々と、黒と白の揺らめきに沈み始めた。
あまりにも瞬間的な光景を、マガリはもう一度脳内で再生する。かろうじて見えた黒い影というのは、おそらく七崩県。彼女の一撃によって、丑の命は弾け飛んだのだろう。
「じゃあ、行くか」
荒々しさを一層と際立たせる波の音が反響する背景、塵と化し姿を消してゆく麽禍に目線を送ることなく、七崩県は帰還した。あまりにも早すぎた決着に、マガリの開いた口が閉じることを忘れてしまっていた。
七崩県は先ほどと同じように、助手席へ戻ろうと歩みを進める。しかし、その道を阻むようにして、南風原舞花が立ち塞がっていた。両手を広げ、全力で進行を阻もうとしている。
「悪いけど、県さん歩いて帰ってもらってええですか?」
「えぇ、なんでぇ」
マガリは、南風原舞花の行動になんとなく同情の念を抱いていた。あまりにも一瞬の戦闘といえど、七崩県は先ほどの麽禍の首を飛ばし亡き者にした。故に現在の彼女は、悪臭と言って差し支えのない、麽禍の血液なのか体液なのかも分からないようなドロドロとしたものを身に纏っているのだ。
「流石に今の県さん乗せるのはキツいっすわ……」
南風原舞花は助手席の戸を開け、グローブボックスを開いた。中からバスタオル二枚と消臭スプレーを取り出して、立ち惚ける七崩県へと差し出す。
「戻ったらすぐ風呂入ってくださいね」
「はいはい」
そんな光景を後部座席にて苦笑と共に見つめていた頃、車内にまで侵入を始めた鉄錆の香りに、突如マガリの脳が揺れた。少しばかり収まっていた冥螺の瘴気による頭痛が、蒸し返される。
「いっッ……」
粗末な悲鳴に、七崩県と南風原舞花はマガリの座る後部座席へと視線を向ける。一時的なものといえど、久しく襲いかかった頭痛にマガリは息を荒くしていた。
「んじゃ、頼んだわ」
「了解です」
南風原舞花が運転席へと戻り、ハンドルを握る。車窓の向こう側に佇む、汚く濡れた七崩県を置き去りにして、一行は街の光を求めて走り出した。
「どうや、波ヶ咲ちゃん。まだ頭痛い?」
「いえ、随分とマシになりました」
南風原舞花は公道の光を浴びて、眼前の赤丸にブレーキを踏む。後部座席で落ち着きを取り戻したマガリの安寧を問うように、優しげな声をかけた。依然垂れ流されるラジオからは、アイドルユニットのポップな曲調が細々とスピーカーから漏れ出している。
「……七崩さんって、ものすごく強いんですね。さっきも何が起こったのか全然わかりませんでした」
南風原舞花も阿弥陀と同じくして、七崩県に敬慕の念を抱いているというのは、マガリにもなんとなくわかる。彼女が七崩県に向けていた信頼、そして、出鱈目な力に対する苦笑のようなものを、薄々感じていたからである。
「まぁ、せやな。県さんは『玖座』最強言われとるくらいやし」
「玖座……?」
今日において、七崩県は多くの情報を提供してくれていた。しかし、彼女の身の上の話は、思い返すとカケラも見当たらなかったのだ。
「玖座は、祓ん中でバケモンみたいに強い人らの称号や。同時に階級玖になれるのは九人までって決まってんねんけど、その九人が『玖座』って呼ばれとる。まあつまり、県さんは今生きとる祓ん中で一番強いって事やな」
七崩県に匹敵する存在が、まだ八人居る、と。想像を絶する。
ただ、マガリが祓となり求めるものは波ヶ咲直の捜索であり、玖座を目指すという名目ではない。故に、マガリの選んだ道に立ち塞がる壁というわけではない。