淵源①
「おひゅっ……」
マガリの喉元を、訳のわからない単語が通り抜けた。見据えた先から真下へと、八本足の顔面が眼球を回している。まるで、今日の昼飯を決めたぞと言わんばかりの形相だった。
寧獄と呼ばれた、麽禍の中で最も弱い部類に入るらしい存在。しかしマガリの目に映るのは、底なしの恐怖を携えた異形でしかない。
寧獄は歯を擦り合わせる。ただひたすらに、軋む音が天井を中心に反響していた。緊張感に苛まれたまま三人の首が吊り革の向こう側を捉え、数秒。七崩県は気怠そうな顔に唇を尖らせ、黒柴阿弥陀は緊張感に眉を顰める。
次の瞬間、寧獄はマガリの姿へ向けて落下を始める。背面に浮かぶ形相では、けたけたと気色の悪い笑みと共に口角を吊り上げ歯を光らせていた。
マガリの中に佇む、一般的な防衛本能。それに従うまま席を立ち、落下する寧獄の行動を避けた。既にこの状況で、満身創痍に近い事は言うまでもない。
「マガリちゃん、下がって……」
懐から装札を取り出し、臨戦態勢と構える阿弥陀。しかしその行動を抑制するように、寧獄と阿弥陀の間を七崩県の華奢な脚が遮った。靴のまま、ふかふかとしたロングシートに振り下ろされたその一本はまるで、行動範囲を制限する踏切の様だった。
「ちょ、お姉ちゃん何して——」
「ここはお前の出る幕じゃねえよ。見守ってやれ」
七崩県はシートから脚を下ろし、右側へ視線を向ける。寧獄はじりじりと目標へ迫り、この車両に逃げ場はないと悟ったマガリは貫通扉に手を掛けて隣の車両を目指していた。そんな頼りげのないマガリへ、七崩県は声を上げた。
「マガリちゃん、さっき渡したやつ使ってみな」
「さっき……ふぃあっ⁉︎」
七崩県の言葉の意図を探るも、マガリは混乱した状況下でそれが何を示すかすらまともに思考できなくなっていた。冷静になればすぐに分かるような問いですらも、極限では意味を持たない。寧獄と距離を取ろうと、直ぐに詰められる。マガリの逃走劇は随分とチープな舞台で行われているようだ。そんな最中のふとした視界の端、七崩県に抑圧された阿弥陀の手に、一枚の紙が姿を見せていた。
「あっ、装札……‼︎」
土壇場で、乱雑にポケットへ避難させられた一枚の紙。グシャリと曲がり、手遅れかと思われたその一枚は、マガリの指によってポケットから発掘された途端に、シワひとつない綺麗な一枚となる。最も、どういった原理かなど、この状況においては全く意味を為さないようだ。
「……で、どうやって使うんですか⁉︎」
当然の如く、投げかけられる。機構の様に、電源スイッチがある訳でもない。唐突に渡された一枚の、側から見ればなんの変哲もない紙の使用方法など分かるはずもない。
「念じてみな。マガリちゃんが今どうしたいか、なんで装札を使いたいか」
七崩県は、笑みの中に真面目な顔を浮かべて語る。
マガリが装札を今ここで使いたい理由。そんなもの、当然の如く「死にたくないから」だろう。恐らく、もしここで本当の危機がマガリを襲ったとて、七崩県の手にかかればこの寧獄を屠る事など容易いはずなのだ。故に七崩県は、マガリの信念を汲み、そのスタートラインとなる機会を今ここに作ってくれている。
ならば、マガリがこの窮地を脱するために念じる事は、それではない。
「私は……直姉を探すために、祓にならなきゃいけない‼︎」
マガリの中に宿った、信念に似た何か。昨日から、守られてばかりの自分に嫌気が差していたのだろうか。
遥か遠く、実現し難いと己の中で納得した上で、マガリは「何故装札を使いたいか」を念じた。波ヶ咲直が生きていると信じ、その末で彼女と再開するために必要な力を求める、と。
昨日、旧校舎で見た黒柴阿弥陀の姿。それと全く同じ異装に身を包んだマガリが、ただそこに佇んでいた。装札が作り上げた、冥蜾での活動や麽禍との戦闘に必須となる装備である。
「いいねぇ、初々しい。似合ってるよ」
お前なら出来ると思ってた。そう言いたげな、七崩県がにやにやと見つめる。阿弥陀もどこか、少しの興奮を隠せずに笑みを溢していた。
「本当にこれで合ってます⁉︎ていうか、武器とか……」
いざ身体を装札に覆われたマガリは、先程までの信念を掲げた真面目な顔から一変し、戸惑いを再び顔に浮かべる。その隙にも寧獄は目標へと飛び掛かるが、幸いにもスピードがなかったので、マガリは容易くその猛攻を避けながら、七崩県との会話を試みていた。
「うん、コレだね」
七崩県は、握り拳を持ち上げて顔の横に並べる。マガリの両肘から先はがっしりとした装甲に覆われており、その様はあまりにも打打擲してくださいと言わんばかりの姿をしていた。
「えぇ……」
しかし、与えられたものは仕方がない。思い返せば、冥蜾での波ヶ咲直は何かしらの武器を携えていなかった。恐らく、アメノウズメもその拳で戦っていたのではないだろうか。
ひとまずと考え事を他所にして、マガリは全く詳しくない格闘技の見様見真似を雑に構える。今にも迫る寧獄が、次に飛びかかってきた時が勝負の時である。