最終話 秘密の部屋
「君と会うのは、これで何度目かな」
透明なアクリル板を挟み、対面している男が静かな声でそう言った。
刑務所の面会室は、いつ来ても陰気な場所だ。
九年前に西大路姉妹をさらった誘拐犯――八瀬義光が不気味なほど凪いだ瞳をこちらに据える。
彼はいつも激することがない。
表面上の雰囲気は泰然としているのに、それでいて人並みの良識など、微塵も持ちあわせていない彼。
眉ひとつ動かさずに、人を殺しそうな男だと思った。
そんな危険人物を相手に、夏樹もまた静かな声で告げる。
「おそらくこれが最後の面会になるでしょう」
「そう上手くいくかな? 私は彼女を追うことを、やめはしない」
ふたりはしばし見つめ合った。
何度も何度も繰り返す、本件にまつわる不毛なやり取り。
けれど夏樹は知っていた。この停滞を打破する方法を。
「彼女とは――綾乃の母親のことでしょうか」
ふたりを取り巻く空気が、ねっとりと粘度を増したような気がした。
狡猾な八瀬はすぐに気づいたようだ――目の前の少年が、色々と知りすぎていることに。
「……なぜ分かった?」
男がアクリル板に右手をつく。親指以外の四指がほぼ均一の長さに並んだ、特徴的な長い指。
夏樹はずっと不思議だった。
なぜこの特異な遺伝的特徴に、誰も気づかなかったのだろうか。
確かに綾乃の外見は母親に似ている。けれど、明らかに――……
「彼女の指には、何度も触れていますから」
綾乃の華奢で長い指。特に思い出すのは最近のことだ。あれはピンキーリングをはめた時。
数年前から気づいてはいたけれど、薬指とほぼ同じ長さの小指を眺めて、なんともいえぬ感慨を覚えた。
大多数の人間は、薬指よりも小指のほうがかなり短い。
だからほぼ同じ長さという手の作りは、かなり珍しいだろう。
何万人にひとりか、あるいはもっと少ないか。
男が初めて愉快そうな顔つきになった。
「ああ、なるほど、君は勘が鋭いな。普通はね、他人の指の長さなど、気にしないものだよ。現に誰も気づいていない。僕とあの子の類似点には」
……そうだろうか。
小指の特徴には気づかなくても、不貞については気づいていたかも。
だから綾乃の父は、綾乃を愛さなかった――愛せなかった。
長女である桜子のことは、あんなに大切に想っているのに。
おそらく西大路氏は妻を愛しすぎたのだ。だから妻によく似た綾乃を見るたび、苦しんだ。
妻の裏切り、そしてその結果を、いつまでもいつまでも――綾乃が目の前に存在する限り、突きつけられるから。
「なぜそのことをずっと隠していたんですか」
不思議だった。それを公表すれば、減刑されたかもしれない。
男が瞳をすがめる。
「もちろん復讐のためだよ。私が黙っていることで、あの女――玲子にプレッシャーをかけている」
「玲子さんはもういませんよ。西大路家をとっくに出て行った」
離婚はしていない。あの夫妻も不思議な家族の形をしている……。
「けれど娘との縁は切れない。綾乃は私の娘であり、玲子の娘でもある。ふたりの愛の結晶だ」
「あなたと綾乃に血のつながりがあることは、僕から綾乃に話します。――あの姉妹はそろそろ暗闇から抜け出すべきだ」
三年前、初めてこの男と面会した時、真実に気づいた。彼らの遺伝的特徴の一致――本来ならば、それに気づいた時点で、綾乃にきちんと伝えるべきだった。
けれど夏樹はそうすることをためらった。
もう今は立ち直っているのに、あの話をわざわざ蒸し返してどうなる。
「君が父親から愛されないのは、不義の子だからだ」と突きつけて、それで彼女の気が晴れるというのか? ……いいや、傷が深くなるだけ。
夏樹は彼女に真実を伝えることができなかった。
しかしその勝手な判断が、結果的に綾乃を傷つけたかもしれない。
そして彼女の姉、桜子をも。
桜子が、あの誘拐事件であれほどのトラウマを負っているなんて、夢にも思っていなかった。
自分は何も見えていなかったのだ。
――目の前の男が嘯く。
「真実を話す? ……馬鹿な。君がいらぬ世話を焼くことで、姉妹が別の暗闇に入り込むとしても、それをするのか?」
この男は長いあいだ檻の中にいて、停滞した日々を送ってきた。
そのあいだ、外では目まぐるしいスピードで時間が流れている。
まるで濁流のように。激しく、息をつく暇もなく。
その中で足掻き、もがき、苦しみながら精いっぱい生きてきたこちら側の人間に、お前ごときが勝てると思うなよ。大間違いだ。
――お前と比べれば、西大路桜子のほうがよほど手ごわかった。
夏樹は底冷えするような瞳を男に据える。
「あなたは勝手に綾乃の母を憎み続けるといい。彼女の身柄はあなたに譲ります。存分にどうぞ。でも、その代わり――今後、綾乃の前に顔を出すことは許さない」
「どうする気だ?」
まだ状況が分かっていないらしい八瀬には余裕が見られた。
「この世界から、西大路玲子の痕跡をあとかたもなく消します。――生死すらあなたには悟らせない。ある日を境に、彼女は消滅する」
夏樹は薄く笑んでみせた。
「僕とあなたは、とてもよく似ている。たったひとりに執着して、ほかの何を犠牲にしても構わない。だから分かるんですよ――あなたが一番嫌がることが。あなたは西大路玲子を愛し、裏切られた。その瞬間、全身全霊をもって憎み続けることを誓った。あなたはただ彼女のためだけに生きてきた。あなたは自分を捨てた彼女が、苦しむべきだと考えている。しかしその苦しみは、すべてあなた自身が与えるものでなくてはならない。彼女が息絶える時、彼女の瞳に映っているのは、自分でなくてはならない。――どうです? その権利を、僕が奪ってやると言ったら」
「私は玲子を憎んでいる。だから君が代理で殺してくれるというのなら、それは望むところだと言っておこう。それは私にとってはなんの脅しにもならない」
驚くほど演技が下手だな、あなたは。
「そうでしょうか? だけどだいぶ早口になっていますよ、八瀬さん。あなたはこの取引に応じるしか、道はないんです。断った場合、あなたはこの檻から出られたとしても、西大路玲子の髪の毛一本すら手に入らない。生きているか、死んでいるか、それすら永遠に分からない。どこにも彼女はいない。彼女が存在した痕跡すら、僕は綺麗に消してやる。希望は消える。その時――あなたの前に広がるのは、完全なる闇だ」
八瀬義光の顔から余裕の仮面が引きはがされた。
夏樹は駆け引きをしているつもりはない。
先の言葉はすべて、混じりけのない本気だった。
アクリル板で仕切られたあちらとこちら、ふたりの魂はとてもよく似通っている。
ただギリギリ踏みとどまれた者と、真っ逆さまに堕ちた者、その違いだけ。
夏樹は踏みとどまる過程で、自身の心の闇と深く向き合い、正しく己を知った。
――けれど彼は? 怖いものなどないと過信し、ただ楽なほうに堕ちていっただけ。だからこそ本物の恐怖には打ち勝てない。
大切なものを失わずに済むよう、努力もできない。壊すことしかできないから。
だから他者にそれが壊されるかもしれないと気づいてしまえば、もう身動きが取れなくなる。
八瀬は要求を呑むしかない。
出所してすぐに西大路玲子を殺すつもりなら、それでもう綾乃に付きまとう理由はなくなる。――綾乃へのコンタクトはすべて、玲子に対するアピールにすぎないからだ。
出所しても西大路玲子を殺さず苦しめたいというのなら、綾乃に付きまとって母親を釣り上げる戦法は、絶対に選んではならない。その方法を選択した瞬間、玲子は消える。
八瀬義光は正しく悟った――次、自分が綾乃に手出しをした瞬間、すべてを失うのだと。
自身の命など惜しくはない。けれどこの少年は、八瀬の一番大切なものを確実に、永遠に奪い去るだろう。
それは未来永劫、光を失うことと同じであった。
「これでもう、あなたと会うこともない――さようなら、綾乃のお父さん」
夏樹は静かに言い置き、席を立つ。
そして去り行く彼は、二度と後ろを振り返らなかった。
* * *
当たり前の日常。
それはかけがえのない日常。
朝。
ダイニングテーブルに着席した綾乃が、果物ナイフで器用にリンゴの皮を剥いている。見事な手並みだ。
桜子は頬杖を突き、感慨深げにその様子を眺める。
綾乃がチラリと姉を見遣り、悪戯に微笑む。
「――お姉様、どうぞ」
ウサギの形に切られた、可愛いリンゴ。
ひとつ手渡され、受け取った桜子は口元に笑みを乗せた。
「……ありがとう、綾乃」
少し眉尻が下がり、喋り方もたどたどしい。
綾乃もそれに気づいていて、瞳を潤ませた。
「お姉様、ウサギさんのリンゴはお好きですか?」
「ええ……大好き」
……大好きよ、綾乃。
ありがとう。
生きていてくれて、ありがとう。
それから姉妹は他愛ない話題を交わし、家を出た。学校に行くために。
――先日桜子は、綾乃から誘拐犯の真実を聞いた。
まさかこの長い長い戦いに幕を引いたのが、夏樹であるとはね……。
桜子は夏樹に完敗したわけだが、晴れ晴れとした気持ちだった。
繰り返しの日常だけれど、昨日までと違う。
桜子は三つ編みをやめたし、眼鏡もかけていない。
もう過去は振り返らない。
* * *
中等部と高等部は敷地が別れているので、桜子は少し手前で綾乃と別れた。
高等部の校門前まで歩いて行き、足を止める。
まだ少し時間が早いので、周囲には誰もいない。
――いや。
「よお、お姫様――元気か?」
桜子の隣に、歩み寄って来た奏が並ぶ。
桜子は横目で長身の彼を見上げた。
「元気よ……来てくれて、ありがとう」
初めて自分から彼に連絡し、時間を指定して呼び出した。
――今日、ここから始めたい。
あなたと。
ふたりは高等部の敷地境界前で、並んで佇む。
向こうのほうに、校舎に繋がる大階段が見えた。
「ねぇ、一緒にこのラインを越えない?」
桜子が足元を指差し、尋ねる。
敷地の境界には区切りがつけられている。
笑みを浮かべ、続けた。
「これを一緒に越えたら、あなたに伝えたいことがあるの」
「そうか」
奏も笑みを浮かべる。物柔らかな表情だった。
「俺も君に伝えたいことがある」
「そう?」
「ああ」
「じゃあ、行くわよ」
「せーの」
ふたりは同時に足を踏み出した。
(終)




