96.紫野夏樹-7 『長い歩み』
あれは一年前。
夏樹は父の『秘密の部屋』に迷い込んでしまった。いつもは厳重に施錠されているのに、扉が開いていたのだ。
入ると、部屋の壁一面に、綾乃の顔が――それは、おびただしい量の写真だった。狂気じみていて、眩暈を覚える。
どこを見ても、顔、顔、顔、顔……。
ほとんどが隠し撮り。どこかを見て笑っている顔、ぼうっとしている顔、怒った顔――……。
綾乃……いや?
すぐに違和感に気づく。似ているけれど、綾乃じゃない。
表情が違う。髪形が違う。服装も彼女の好みと違う。
しかし驚くほどよく似ている。
壁際に歩み寄り、写真の表面をそっと撫でた。
……これはもしかして。
不意に背後から声がかかった。
「この方は、綾乃様の母上であられる西大路玲子様です」
冷ややかで、どこか侮蔑を含んだ声。
振り返ると、そこには執事の大原章一郎が立っていた。
夏樹は彼と向き合う。
大原は長年当家に仕えているが、先日投機に失敗して、まずい状況に置かれているらしい。これは父の秘書をしている柏野から聞いた話なので、確かだろう。
柏野曰く、大原は借金埋め合わせのため、雇用主である父に泣きついたが、撥ねつけられ、そのことで父を逆恨みしているのだとか。
確かにふたりのあいだに隙間風が吹いているのは、夏樹もなんとなく感じていた。
ということは……夏樹は考えを巡らせる。
先ほどこの開かずの間が開いていたのは、僕をここに入れるためか? 大原は、こちらの親子関係をギクシャクさせようとしたのだろう。
彼がご丁寧に解説してくれる。
「あなたのお父様は、初恋相手の玲子様をずっと忘れられないのです。ですから奥様のことも、あなたのことも愛せない。理不尽ではありませんか? 悔しくはありませんか?」
この時の気持ちをなんと説明したらよいだろう。意外なほどショックは受けなかった。
『ああ、そうか』と思っただけ。
これくらいのことで傷つき、立ち直れないほどのトラウマを受けるほど、幸せな環境で育ったわけじゃない。
ただ、大原のおかげで、ひとつだけ分かったことがある。
――綾乃の顔が好きなのは、遺伝なのか。
それに関しては少しだけ笑えた。とはいえ夏樹の場合は、先に綾乃の性格を好きになったので、少し違うのかもしれないけれど。
夏樹は冷めた瞳で大原を一瞥してから、その秘密の部屋をあとにした。
大原はその後すぐに当家を辞めていったが、まさかこの時の出来事が一年後、緋色の革で装丁された奇妙な本の中で、掘り返されることになるなんて。
当時の夏樹は夢にも思わなかったのである。
* * *
『薄青の封筒』が届き、脅迫が始まったのは、『秘密の部屋』に迷い込んだのとほぼ同時期だった。
――母が久我ヒカルの父親と不倫していたのは知っていたが、まさか彼の自殺に関与していたとは。これが表に出れば、当家は大打撃だ。母に対して愛情はないが、このスキャンダルを表に出すわけにはいかない。
……脅迫者『X』は誰だろう? 夏樹はそのことに強い興味を引かれた。
敵ながら、容赦ないやり口には感心させられた。そして要求のハチャメチャ具合。イカレきっている。
脅迫者『X』は同年代の人物であると思われた。指示の内容が偏っているのだ。
たとえばセレブの調査依頼がきたとする。その対象者は大体いつも、夏樹の年齢からプラスマイナス三歳の範囲に限られていた。
そして『〇〇へ行って、××をしてこい』といった罰ゲームみたいな内容も、大人が考えたものというよりは、学生が考えたもののように感じられた。
疑わしい人間は何人もいた。
たとえば、異常なほどこちらに突っかかってくる綾乃の親友、藤森七美。
あるいは、好意を示してグイグイ来すぎる、久我ヒカル。
逆に、印象がとても薄い、西大路桜子。
疑いだせば、全員が怪しく見える。しかし決め手がない。
ところがある日、幸運といってもいい転機が訪れる。
綾乃が車の中で寝てしまい、彼女が大事に抱えていた『予言の書』なるものを読むことができたのだ。これで夏樹は一気に脅迫者『X』に近づいた。
『薄青の封筒』と『予言の書』に、共通点がいくつか見られた――『元町悠生』『花園秀行』の名前が両方に出てくる。こんな偶然はありえない。つまりこのふたつは同一人物が書いている。
すぐに元執事、大原章一郎の行方を捜し始めた。『予言の書』には、あの『秘密の部屋』事件の詳細が記してあった。夏樹があの部屋に入ったのを知っているのは、大原しかいない。
しかし彼の行方を捜すのは案外骨が折れた。徹底的に身を隠しているらしい。それは投機の失敗で抱えた借金のせいかもしれなかった。
大原を見つけるまでのあいだに、脅迫者『X』が誰なのかを、もう一度よく考えてみた。
――西大路桜子については真っ先に候補から外した。
それは『予言の書』の中に『西大路桜子が階段から落ちて、大怪我を負う』とはっきり書いてあったからだ。
このイカレた本の著者が西大路桜子ならば、『大怪我を負う』と書いたなら、犠牲を払ってでもそのとおりにするはず。しかし桜子は階段から落ちたものの、怪我はしなかった。
階段から落ちた時の状況を整理してみると、転落を意図的に仕組めたのは、被害者である桜子か、加害者である女子生徒のどちらかしかいない。
あるいは、可能性は低いが、同じ場所に居合わせた深草楓か?
やはりこの中で一番怪しいのは桜子なのだが、怪我をしなかったという点が、どうしても引っかかった。
……僕は何か見落としているのだろうか?
行き詰まった時に、大原章一郎の居場所を特定できた。
彼の弱みはすでに握っている。――それも当然。紫野家に喧嘩を売って辞めた相手だ、父や柏野がとっくに調べ上げている。
大原に会い、答えを得た。
そうか――黒幕は、西大路桜子。そうだったのか……。
夏樹は途方に暮れた。
綾乃の姉がなぜこんなことを。
夏樹は敵に対していつも容赦しない。けれど今回に限っては、徹底的に追い詰める気にはなれなかった。
それは桜子が綾乃の姉だから。綾乃が愛する家族は、夏樹にとっても庇護の対象となる。
これほどまでに夏樹を戸惑わせた敵は、桜子が初めてだった。
* * *
ああ、そうだ、どうでもよい余談をひとつ。
『薄青の封筒』による指令の中に、『元町悠生の調査をしろ』というものがあった。
夏樹はすぐに元町悠生の弱みを掴んだ。
彼は山ノ内小百合と付き合っていたが、子供ができて、彼女は中絶手術を受けた。
これは誰かにバラしていいような内容ではなかったので、夏樹は脅迫者『X』には情報を上げなかった。
ところが元町悠生が綾乃をランチに誘ったことで、これに腹を立てた夏樹は、ふたりのテーブルに歩み寄り、彼の耳元でこのネタを囁いてやった。
元町悠生はすっかり顔色を失っていたっけ。これで綾乃には二度と付きまとわないだろう。
少し胸がスッキリした。
脅迫者『X』の指令で、奇妙なミッションを数多くこなしてきた。不快なだけの雑用ばかりと思っていたら、たまには役に立つこともあるものだと、感慨深い気持ちになったものだ。




