95.紫野夏樹-6 『嵐の夜に ・ 後編』
【乾孝允の証言】
午前中は穏やかだった天気が、午後から崩れ始めた。
そして現在、時刻は深夜0時。
暗闇の中、ボート小屋へと向かう。
自分にあてがわれた個室は西側の一階部分で、裏口のすぐそばという孤立した場所にあったから、誰にも見咎められずに、こっそり抜け出すことができた。
雨足が強まっている。レインコートを羽織っているものの、顔にかかった雨粒が、首筋を伝ってシャツの胸元のほうまでジワジワと染み込んできた。
左手には、昼間綾乃から渡された手紙を握りしめている。しかしそれはすでに濡れそぼり、今にも破けそうだった。
その手紙にはこんなことが書かれていた。
『乾孝允様
私たちの縁談が正式に纏まったこと、すでにお耳に入りましたでしょうか。
父が、私に役割を期待しています。
乾様と仲良くなるように、とのことです。
そのことについて、ふたりきりでご相談したく思います。
父がここへ来てしまっては、互いに心の中をさらけ出すことは難しいでしょう。
乾様と出会って以来、気さくに声をかけていただき、私は兄ができたような気持でおりました。
だからどうか今夜、お時間をいただきたいのです。
話し合いによって、互いに納得の上、進むべき道が見つかればいいと思っています。
深夜0時、ボート小屋にお越しくださいますか。
本来は別荘内でお話したいところですが、紫野社長の秘書の方が、どうやら私のことを見張っているようです。私がまだ子供なので、羽目を外さないよう、目を光らせているのでしょう。
ですから無理なお願いで申し訳ありませんが、内密でボート小屋までお越しいただけますと幸いです。
綾乃』
年齢のわりに大人びた文章だった。しかしそれが、しとやかな彼女にはぴったり合う。
綾乃が昼間こっそりと近づいて来て、目を潤ませてこの手紙を渡して来た。
――昂る心臓の音を強く意識しながら、小屋の扉を開く。
ボート小屋はよくある簡素なものとは異なり、二階建てのしっかりした造りだった。
湖の上にせり出すようにして建っているので、建物の下は湖面になっている。
一階部分は床の半分ほどが穴あきになっていて、そこにボートが繋いであった。
確か二階部分はベッドや簡易洗面所などがあり、宿泊できるような造りになっていたはずだ。
階段を上がって二階へ――扉をそっと開くと、中は真っ暗だった。
階段のほうに点いている明かりは弱く、二階の奥までは届かない。
突き当りの窓辺にベッドがふたつ並んでいて、そのひとつに綾乃が腰かけているのが見えた。
寒いのか、シーツを頭からかぶり、小さく丸まっている。
窓の外はひどい天気だ。外から叩きつけられた雨粒が、ガラスの表面を滝のように滑り落ちていく。
ざぁざぁ、バタバタという嵐の音が、室内にまで響いていた。
シーツにくるまった綾乃が、震え声で話しかけてきた。
「少し話せますか……このまま……」
綾乃……ああ、綾乃……!
ゴクリと唾を飲み、そっと背後の扉を閉める。
ここ最近、何度も話しかけた――彼女の可愛らしい声を聞きたかったから。それが今、ふたりきりで、こんなシチュエーションで聞けるなんて。彼女の声を耳にするだけで、息が乱れる。
「縁談が決まったと……父から連絡があったんです……私、どうしたらいいか……だって私……乾様のことは、お兄様のように思っていたんです」
消え入りそうな、泣き出しそうな女の子の声。外の天気のように不安定だ。
その震えが、こちらにも伝染する。
綾乃は急に不安になったのか、ベッドから腰を上げ窓辺に退こうとした。
その突然の動きが、こちらの自制心を吹き飛ばした。大股に歩み寄り、彼女の小さな体をシーツごと抱き寄せる。
綾乃は抵抗するように、こちらの胸を押し返してきた。
構うものか――絶対に離さない。
明日香――ああ、可愛い、俺だけの明日香――……
三年前、突然この世からいなくなってしまった義妹のことを思い出し、手の中に囲い込んだ彼女を、強く強く拘束する。
そうだ、昔の俺はこんなふうに何度も、何度も。
「明日香」
吐く息が熱い。今は亡き義妹の名前が、唇からこぼれ落ちた。
* * *
【秘書・柏野武の証言3】
夜十一時半を回った頃、綾乃の父である西大路和雅氏が別荘にやって来た。
なぜ西大路氏が来たかと言うと、昼間、
「本日、どんなに遅くなってもいいので、こちらに来てください」
とお願いしておいたからだ。
そう言われて、彼はかなり戸惑っている様子であったが、結局、
「……夜の十一時半頃になるが、そちらに行けるだろう」
と約束してくれた。
西大路氏は時間に正確で、律儀な性格をしているというのは、業界では有名な話だ。
そして約束したとおり、西大路氏はやって来た。
「西大路社長、お呼び立てして、申し訳ありません。実はお嬢さんの件で、心配なことがありまして」
挨拶もそこそこに、そう切り出す。
西大路氏は微かに眉を顰め、問うような眼差しを向けてきた。
彼をソファのほうに誘導し、腰を下ろしてから、順を追って説明する。
――朝から綾乃の元気がなかったこと。
――どこか思い詰めた様子だったこと。
十分ほど話しただろうか。
不安そうに視線を彷徨わせてから、西大路氏に告げる。
「あの、西大路社長――お嬢さんの部屋に一緒に行っていただけませんか」
「なぜ」
一介の秘書の、数々の遠慮ない要求に、西大路氏はすっかり戸惑っていた。
「実は西大路社長がこちらに来られることは、あらかじめ綾乃ちゃんに伝えてあったんです。なのにここに顔を出さないのはおかしい」
切羽詰まって訴えれば、西大路氏はソファから立ち上がった。急かされるようにして、連れ立って綾乃の部屋に向かう。
扉をノックしても返答がない段階で、西大路氏もおかしいと感じたようだ。
「――綾乃、開けるぞ」
ドアは施錠されておらず、なんの抵抗もなく開いた。
中は無人。
ベッドに寝た形跡がないのを見て取り、顔を強張らせて呟きを漏らす。
「これはまずいことになった」
* * *
【乾孝允の証言2】
腕の中に囲い込んだ彼女が激しくもがいた。
綾乃は身をよじらせ、ナイトテーブルの上に乗っていたスタンドライトを掴むと、拘束された身でもそれを思い切り振り回した。手からすっぽ抜けたスタンドライトが窓ガラスを打ち破り、窓の外に消える。
途端にごうごうと音を立て、すさまじい暴風雨が入り込んで来た。
逃げようと身を翻す彼女の腰に抱きつき、夢中で床に押し倒す。
暗闇の中で獣のように動く――彼女が巻きつけているシーツを剥ぎ取り、そのままシャツを引き裂いた。
ああ、でも、脱がすよりも、先に味わいたい。
滅茶苦茶に暴れる彼女の肩を、上から強く床に押さえ、その唇を貪る。
――やわく、甘い。
唾液があとからあとから溢れ出てくる。
頭のどこかが焼き切れたように熱かった。
凶暴な何かが腹の中で狂ったように暴れている。自分ではどうしようもない。
どのくらい彼女を味わっていただろう――不意に周囲が白くなった。
明かりが灯されたせいだとは、すぐには気づかなかった。そのくらい彼女の味に夢中になっていた。
怒号が響く。
ふと気づけば、襟首を掴まれ、床に引き倒され、柏野に押さえつけられていた。
虚ろな瞳で視線を巡らせれば――……白い肩や腕に痛々しい引っ掻き傷、打撲痕をこしらえた、半裸の美しい少年が抱き起されているのが見えた。
……え? 少年? 呆気に取られる。
なぜだ?
あれは、紫野夏樹?
なん……なんだ、これはどういうことだ。
脳が激しく混乱する。
自分が組み敷いていたのは、綾乃のはずだ。絶対に綾乃のはず!
声は間違いなく彼女のものだった。何度も聞いた声だ、間違うはずがない。
ふと――床に落ちている、ボイスレコーダーの存在に気づく。揉み合ったせいで蹴り飛ばされたらしいそれは、ほとんどベッドの下に入り込んでしまっていた。
まさか、先ほど聞いた綾乃の声は、録音されたものだったのか……?
しかしなぜこんなことを?
夏樹が涙をこぼしながら、駆けつけて来た西大路社長に、震える声で訴える。
「僕……この人に呼び出されて……まさかこんなことをされるなんて……」
打ちひしがれたそのさまは、彼の美しい外見と相まって、ことさら同情を引いただろう。
演技だとは思えなかった――怯え、恐怖、戸惑いが、彼の清廉な面差しに浮かんでいる。
もしもこれが演技だとするなら、こいつはとんでもない悪魔ということになるだろう。
そんなひねくれた歪な子供がいるはずない。誰だってそう思う。
西大路氏が夏樹の肩をギュッと抱き、優しく声をかけた。
「可哀想に……もう大丈夫だ。もう大丈夫」
その態度には、知人の子息を案じている以上の気遣いが見えた。
そうだ――西大路氏はクールに見えるが、実のところ情にもろい人であると、どこかで聞いたことがあった。
可哀想な暴行を受けた目の前の少年が、幼い時分に誘拐された、自身の娘と重なったのかもしれない。
夏樹の声が心細そうに震える。
「お願いです……どうかこのことは、綾乃に言わないでください」
「分かっている。心配しなくていい」
西大路社長は夏樹を抱え上げ、部屋を出て行った。
彼らがいなくなったので、自分を押さえつけている柏野とふたりきりになった。
「君、感謝したほうがいい」
柏野からそう言われて、戸惑いを覚えた。
「……どういう意味ですか?」
「危険な状況にあったのは、ほかの誰でもなく、君自身だった。――もしも綾乃ちゃんにさっきの乱暴を働いていたら、君の十六年の人生は終わっていただろう。夏樹くんが本気で怒ったら、僕には彼を止めることができない」
今度こそ力が抜けた……やられた。
どこから操られていたのか、それすらも分からない。
計画はこちら主導で動いていたはずだ。綾乃をどうしても手に入れたくて、計画を練った。
別荘に着いてすぐ、関係者の動向を観察した。
――柏野宛に毎日ビジネス文書が届くこと。
――彼が外装のメール袋を開封したあと、中をあらためる前に、コーヒーを淹れに行くこと。
――綾乃が実父と折り合いが悪いこと。
それで偽の手紙を作成した。
綾乃の父である西大路氏が、娘に宛てて書いたように偽装して。『綾乃と夏樹の婚約は解消されたので、新しく婚約者になった乾くんと親しくなっておきなさい』という内容にした。それは全部嘘だが、綾乃と良い仲になってしまえば、あとで真実になる。
そして柏野がコーヒーを淹れるため席を外すのを待ち、その手紙をビジネス書類の中に紛れ込ませる。
全部上手くいったはずだった。綾乃から返事の手紙ももらった。――その手紙で指定されたから、このボート小屋にやって来たのだ。指定された時間に。
え……では綾乃もこいつらとグルなのか? あんないたいけな顔をして、このボート小屋におびき寄せる手紙を寄越して、俺を嵌めたというのか?
その疑惑に答えたのは柏野だった。
「混乱しているようだから言っとくけど、綾乃ちゃんが君に渡したピンクの手紙――用意したのは夏樹くんだよ。今夜のこと、綾乃ちゃんは何も知らない。ただ君に届けてと、夏樹くんから頼まれたから、彼女は実行しただけ。綾乃ちゃんはね――君が書いた偽の手紙を読んで、夏樹くんと婚約破棄させられちゃうって落ち込みまくっていたから、頭が回っていなかったと思う」
「綾乃は……今どこに」
訊いても詮ない問いが口からこぼれ出た。
「夏樹くんが、別の客室に移した。ほら――元の部屋にそのままいられると、西大路社長を外に誘導できないからさ。娘を愛していないといっても、夜中に我が子が行方不明となれば、さすがに彼だって行方を捜すだろう? 彼をここに誘導したのは、僕。あらかじめ夏樹くんと時間は決めてあったし、さらにいえば、あのガラスを割ったのは合図だ。嵐でちょっと聞き取りづらかったけど、まぁおおむね上手くいったのかな。良いタイミングで駆けつけた――と言いたいところだけど、未然に防げたわけじゃない。だって君、結構ガッツリ夏樹くんにキスしてたよね。――力の弱い子供相手に、あんなことを無理強いするなんて、はっきりいって、君はクズだよ」
いつも飄々としているはずの男が、侮蔑を滲ませた声で、吐き捨てるようにそう言った。
* * *
【紫野夏樹の独白2】
柏野から聞いた――ビジネス書類に紛れた一通の信書を見つけた時、すぐにそれが偽物だと気づいたそうだ。
会社関連の郵便物に、他会社の西大路社長が娘に宛てた個人的な手紙が混ざっているわけがない。
とすると混入は、この別荘内で行われたことになる。そうなると犯人は乾孝允以外にありえない。
柏野は僕の元に、その手紙を持ってやって来た。
僕は手紙に目を通したあとで、微笑みを浮かべていた。
いいだろう――途中までやつのシナリオに乗ってやる。
開封した手紙にふたたび封をし、綾乃に渡したのは、彼女がそれを読んで、素のリアクションを取らないことには、乾に怪しまれると思ったからだ。
綾乃には可哀想なことをしたが、脅威を排除するためには仕方ないと割り切ることにした。
そういえば、綾乃は父親からの指示(正確には、父の名を騙った乾の指示であるが)には従わなかったことになる。
乾くんとふたりきりで話し、親密な関係を築け――手紙にはそう書かれていたが、綾乃はそれを実行しなかった。
綾乃は僕の前で珍しく取り乱し、心細そうにポロポロと涙をこぼした。いつも凛々しく障害に立ち向かっていく彼女が、あんなふうに子供みたいに泣くなんて、ものすごく意外だった。
計画上、綾乃の声のサンプルが必要だったので、この時の会話をこっそり録音させてもらった。
「縁談が決まったと……父から連絡があったんです……私、どうしたらいいか……だって私……乾様のことは、お兄様のように思っていたんです」
泣き顔を見た途端――愛おしさが込み上げてきて、どうにかなりそうで、困った。
僕はどんどん狂っていく。
彼女がもっと成長して、その体から女性らしさが滲み出てきたら、果たして僕は我慢できるだろうか?
今でも彼女と向き合う時、衝動を押し殺しているのに。
大切に護りたいのに、慈しみたいのに、そんなふうに無防備に近寄られると、心のどこかで絶望を感じてしまう。
僕は大丈夫なのだろうか。このまま普通にやり過ごせるだろうか。
彼女のことを絶対に手離せない――しかし手元に置くことで、ほかならぬ僕自身が、彼女を傷つけてしまうとしたら?
狂っていく僕は、何をするか分からない。
彼女を護るために、いつか僕は、綾乃を突き放す日が来るかもしれない。
泣いている彼女を見て、漠然とそんな予感を抱いた。
だけど今は――今だけは、君は腕の中にいる。
だから誠心誠意、彼女に気持ちを伝えた。
「綾乃、聞いてほしい。君と僕が婚約しているのは、家同士の取り決め――ただそれだけと思っているの? 違うだろう? これは君と僕、ふたりの意志だ。誰であろうと、僕らの意思を覆すことなどできない。周囲の言葉など聞かなければいい。――僕を見て、綾乃――君が僕に『婚約を解消する』と言わない限り、誰もふたりを引き離すことはできない。ふたりの『婚約』という形には、僕らの強い意志が込められているのだから」
君は以前、「隣にはあなたがいる」と言ってくれたね。
僕も同じ気持ちだ。
僕の隣には、いつだって君がいる。
この先たとえ離れて過ごす時期が訪れたとしても、僕の隣はいつだって君のものなんだ。
綾乃は息を呑み、僕の顔をじっと見返した。
その頬に徐々に温かみが戻るのを、僕は胸の痛みをこらえながら見守っていた。
やがて綾乃が安心したように微笑む。
いい子だ――君は何も心配しなくていい。僕が片をつけるから。
ボート小屋にやって来た乾に、録音した綾乃の声を聞かせた。
――生贄として差し出すのは、この僕の体だ。
計画を考えついた時、事件の目撃者を誰にするかが、一番頭を痛めた部分だった。
柏野が言う。
「君を襲わせる計画ねぇ――賛成はしかねるが、君が腹を括って最後までやる覚悟なら、地獄の底まで付き合うよ。だけど、そうだな、目撃者……誰にするかが、難しい。慎重に選ばないと、乾に忖度して、そのまま握り潰されてしまうかも」
「どんな人が最適でしょうか?」
柏野に尋ねているというよりも、それは自問自答だった。誰だ――誰がいい?
「社会的地位があり、圧力に屈しない人物。そして厳しい状況でも、公平な判断を下せる人物」
ほぼ同時に、ふたりの頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
「――西大路和雅」
柏野が頷く。
「それしかないだろう。彼なら性的暴行の場面を目撃したら、なぁなぁには済ませないはずだ。地盤もしっかりしているから、乾家に圧力もかけられる」
柏野が予想したとおりの結果となった。
乾孝允はその後、神経衰弱という名目で病院に入れられたそうだ。
彼は入院に際し「自分は嵌められた」と訴えたらしいが、それに取り合う者など誰もいなかった。
管理が厳重なことで知られるその病院は、名家の子息子女専門の入院施設で、一度入ったら二度と出られないと噂されている。
乾家は醜聞を嫌ったのだろう。もしかすると以前から、子息の特殊な性癖には気づいていたのかもしれない。
あの嵐の夜に何があったのか、そして乾がその後どうなったか、綾乃には知らせていない。
ただ一点だけ……西大路氏の名誉のために、あの手紙が乾の悪戯だったことだけは、種明かししておいた。
綾乃は気が抜けたらしく、その後高熱を出して、一週間くらい寝込んでしまったのだけれど――そんなふうに素朴で可愛らしい彼女が、僕はまたさらに好きになったのだ。




