94.紫野夏樹-5 『嵐の夜に ・ 前編』
縦糸と横糸が緊密に交わって織り上がる平織のように、それぞれの思惑が交差し、思いがけないドラマを作り上げていった。
すべてが終わったあと、あの場に居合わせた者たちは、あの日の出来事を誰かに語った。
それらの話は夏樹が直接聞いたものもあるし、伝聞で仕入れたものもある。
そうした断片を繋ぎ合わせると、あの日実際に何が起きたのか、より深く知る助けとなるのではないだろうか。
* * *
【秘書・柏野武の証言】
別荘にいるからといって、仕事は待ってくれない。
会社から毎日一回、速達で書類が届く。
仕事はほとんど電子メールで事足りるのだが、それでも案外しぶとく紙ベースでのやり取りも残っている。
どうやら紫野社長は、いついかなる状況でも、しっかり秘書をこき使うつもりらしい。
複数の封書や書類が、丈夫なメール袋にひと纏めにされ、本社から送られてくるのを見ると、なんとなくため息が出た。
外装のメール袋を開封したあと、中をあらためる前に、コーヒーを淹れるためキッチンへ向かった。
マグカップにコーヒーを淹れて戻り、一口啜ってから、メール袋を手に取る。ほとんど逆さにするようにして、書類や手紙を取り出した。
……おや、なんだこれは。
ビジネス書類の中に、毛色の変わった一通の手紙。
宛名は『綾乃へ』となっていて、差出人の名前は『西大路和雅』。綾乃のお父さんからか。
その飾り気のないグレーの封筒には、付箋が貼られていた。――紫野社長の名前で、指示がメモ書きされている。
『西大路社長から、娘さんに宛てた手紙を預かったので、転送する。綾乃さんに渡してくれ。紫野博史より』
* * *
【西大路綾乃の証言】
柏野さんから手紙を渡された。
父からの手紙が回り回って、彼のもとに届いたのだという。
個人的な手紙すら、お父様から直接届くことはないのですね……その親子らしからぬ距離感に、心が地味に傷つく。
顔を曇らせながら、手紙を開封した。
プリントアウトされた、味気ないワード文書に目を通すうち、顔から血の気が失せていった。
『綾乃へ
手紙で申し訳ないが、取り急ぎ、決まったことを伝えておく。
君と紫野夏樹君の婚約は、本日をもって、両家合意のもと解消となった。
君の新しい婚約者は、今別荘に滞在している乾孝允くんだ。
この縁談は、当家、乾家、紫野家の三家で円満合意したものであり、ビジネス上の展開として、とても重要な意味を持つ。
この縁談において、当家は乾家の下の立場になるので、そのことはしっかりと自覚してほしい。
明日の朝、私がそちらに顔を出すまでに、乾君とふたりきりで話をしておきなさい。
すぐに親密な関係を築くことは難しいだろうが、西大路家の娘として、この縁談に多数の従業員の生活がかかっていることは、しっかり肝に銘じてほしい。
西大路和雅』
* * *
【秘書・柏野武の証言2】
夏樹くんから頼まれ、乾孝允を付かず離れずの距離で監視していた。
だからあの場面を目撃したのは、たまたま通りかかってというわけではない。
――吹き抜けになっている二階部分から、一階のリビングを見おろし、成り行きを見守る。
一階にいる乾と綾乃は、上を気にすることもなかったので、こちらが隠れる必要もなかった。
手すりに肘を置き、目を細めて階下を眺めおろす。
綾乃が思い切った様子で、一通の手紙を差し出した。
その手にあるのは、いかにも女の子が用意したというような、花柄の可愛らしい封筒。
相対する乾は、戸惑った様子でそれを受け取る。
人目を避けるように、受け渡しされたあの手紙。
それは秘めごとめいていて、背徳的な香りがした。
* * *
【紫野夏樹の独白】
湖を一望できるテラスで、綾乃が休んでいるのを見つけた。
籐椅子に身を沈めるようにして、うたた寝をしている。
誰が通るか分からないこんな場所で眠るなんて、彼女にしては珍しい。
綾乃は自然体で心を開いているように見えて、いつも気を張っているからだ。
きっと様々な心労が重なり、疲れてしまったのだろう。
乾がこの別荘内にいるというのに、彼女のこの態度は少々不用心であったが、あの男の動向はこちらでしっかり監視しているので、今は問題ない。
ここにいるのは、僕と彼女のふたりきり。
今だけはただ穏やかに過ごしたい……そう思った。
この静寂がたとえ、嵐の前の静けさにすぎないとしても。




