91.紫野夏樹-2 『変わり者の秘書』
一点に集中しているから、ひどく歪なのだろう。
夏樹の愛情は過剰な独占欲を内包した、非常にやっかいな代物だった。
過去を振り返ってみれば、今の自分を決定づけた、ターニングポイントと呼ぶべき出来事は確かに存在した。
あの悪夢のような一週間――あの苦しい時を経て、夏樹は自分の進むべき道を決めたのだ。
* * *
本人はまるで自覚していないようだが、綾乃はとても可愛いらしい。
白い滑らかな頬、繊細な顎の線、艶やかな髪――すべてがとても綺麗で。
触れたくなる。
問題なのは、そんなふうに考えるのが、婚約者である夏樹だけではないということだ。
出会った当初、一点集中して彼女に向けていた意地悪を、夏樹は周囲に対して行使するようになった。
問題を起こすと面倒なので、目立たないよう、しかし確実に成果が出るよう、周囲を操り、罠に嵌め、彼女から崇拝者を遠ざける。
相手に下心がなく、単に綾乃と友達になりたい程度なら手加減した。
しかし彼女をあわよくばものにしようというような、よこしまな感情を抱く相手には、一切容赦しなかった。
夏樹はこの手のたくらみが得意であったので、大抵の障害は苦労せずに排除することができたのだ。
しかしある日、大きな障害にぶち当たることになる。
あれは夏樹が十一歳の時――……。
* * *
一週間の滞在予定で、夏樹は西大路家の別荘にお邪魔していた。
小学校の夏休みを利用したこの交流は、やはり大人の事情が絡んでいるようだ。
お目付け役として付いて来た、二十代後半の青年が、思わせぶりにこちらを見つめて言う。
「……台風到来」
彼は最近父の秘書見習いになったばかりの青年だ。名前は柏野武。
ダイニングテーブルに対面する形で着席していた柏野を見つめ返し、夏樹は瞳を細めた。
「何か問題でもあるんですか」
先ほどの言い方からして、天候上の話題ではないのは明らかだ。
「僕が掴んだ極秘情報によると」
彼はテーブルの上に身を乗り出し、右手を忙しなく動かしながら言った。
「君はこれから大変不愉快な思いをすることになる。間違いないよ」
ウザイ物言いだな……冷たい瞳で一瞥してやると、柏野は口をへの字に曲げた。
「他者に対して、そんなに狭量で大丈夫なのかなぁ、この子。僕、君の行く末がすごく心配」
「心配してくれなくていいから、とっとと話してくれませんか」
げんなりする。
ところが、柏野から答えをもらう前に、綾乃がランニングから戻って来た。
白と紺のトレーニングウェアを着て、髪は高い位置でひとつに括っている。
血色が良くなったせいか、頬が薔薇色に上気していた。
綾乃はダイニングテーブルまで律儀に近づいて来て、いつもどおりの優しい声で言った。
「戻りました」
「どのくらい走ったの?」
気になって尋ねると、彼女がはにかんだように答えてくれる。
「ええと、十キロくらい……です。気分転換に」
気分転換で十キロも走るのか。すごいな。
「珍しく息が上がっているね」
「途中から本気を出してしまいました。ちょっと汗をかいてしまったので、シャワーを浴びて、着替えてきますね」
汗をかいたことが恥ずかしいのか、後ずさりながらモジモジとそう言って、小走りに去ってしまう。
その仕草は妙に可愛らしかった。




