89.姉と妹
桜子が戻るのを待っていたのだろう。帰宅するとすぐに綾乃が部屋に入って来た。
「お姉様……どうしてですか。どうしてあんなことをしたのですか」
予言の書の作者が桜子であることを、紫野夏樹から聞いたのだろう。
窓を背にして立ち、綾乃と向き合う。
悲しみを湛えた瞳がこちらに向けられているのを、桜子は心が麻痺した状態で受け止めた。
言葉を探すが……綾乃にかけるべき言葉が見つからない。
「……なんて言えばいいのか分からない」
「ちゃんと話してください、お姉様」
無力感が込み上げてきた。
「あなたは強い。子供の頃につらい目に遭っても、体を鍛えて、前に進んでいる」
視界が滲む。
桜子は悪戯を見咎められた小さな子供みたいに、自分のしでかしたことに、耐えられなくなっているのかもしれない。
後悔しているわけじゃない。結果があらかじめ分かっていたとしても、過去に戻ることになったなら、きっと同じことをする。
だけど。
綾乃に軽蔑されるのはつらい。
そのことが桜子をみっともなく泣かせた。声が震える。
「あなたは強い。でも私は違うの。毎日、眠るのが怖い。目が覚めるのが怖い。外を歩いていると、通りの角にあいつが立っていそうで怖い。あいつはまだ出所していないのに、それでも怖いの。毎日、毎日、いつだって怖い」
「お姉様のことは私が護ります、だから」
何を言っているの?
「あいつは、あなたを狙っているのよ!」
「それは違います」
綾乃も泣いていた。目元を赤く染め、小さく首を横に振る。
「あの男はこう言ったんだもの――『私を忘れるな。さもなくば君の姉を殺す』と」
初めて聞く話だった。……でも、だから何?
「それはあなたの心を縛るのが目的なのよ。あいつはあなたに執着しているの。ターゲットは私じゃない」
「――ですが結果、お姉様を縛っている」
綾乃の絞り出すようなその言葉に、ハッと胸を衝かれた。
「お姉様――あの男のことばかり考えて、心を支配されている時点で、相手の思うつぼです。あの男の影に怯えて生きるのは、屈服したのと同じ――だから忘れてください、犯人のことは」
「そんなことできないわ! 忘れられないし、忘れちゃだめなの。警戒していないと、またあいつは綾乃を攫う、そうしたら――」
「その時には、私が戦います。――お姉様、見てください」
綾乃が両手を広げてみせる。
背筋を伸ばしたその姿は、凛として美しく――ああ、あの小さくて頼りなかった可愛い綾乃が――いつの間にかずいぶん立派になっていたのだと、桜子に気づかせた。
目の前にいるのは、成長したひとりの女性だ。
いつの間に? あなたはいつの間にそんな……。
「私はもう大人です。あの時の非力な子供じゃない。強くなりました。――どうして私が体を鍛えたか分かりますか?」
「どうして?」
「それはあの男から、お姉様を護るためです」
ずっと眩しかった。
あんな恐ろしい目に遭ったのに、敢然と前に進めるあなたが。どうしてそんなふうに気を強く持てるのか、不思議でもあった。
桜子はあの事件を経験して、心が折れてしまった。
その折れた心を必死に繋ぎ合わせて、あなたのためだけに立ち上がった。
自分のために頑張るなんて、無理だった。
だからあなたはすごい人だと、ずっと感心していたの。
……だけど、あなたも私と同じだったの? 私のために頑張ってくれたの?
綾乃が真摯に桜子を見つめて続ける。
「あの男は、私が絶対に許容できないことを言ったのです――お姉様を殺すと。私が世界一愛するお姉様を、殺すと脅したのです。許せなかった。私はお姉様を護るために武術を学びました。必死だった。いつかあの男が出所して、ふたたび姿を現した時、今度は私がお姉様を護れるように」
「私、ずっとずっと怖かった。綾乃を失うのがずっと怖かった。あの時護ってあげられなくてごめんなさい。ごめんなさい。あの時、私が代わってあげたかった」
泣きじゃくりながら詫びた。
綾乃が駆けて来て、桜子を抱きしめる。
いつの間にか綾乃は桜子より背が高くなっていて、妹の肩に額を埋めるようにして泣いた。
綾乃も泣いていた。
「お姉様は護ってくれた! 護ってくれたじゃないですか。殴られても負けずに、あの男に手を伸ばして、私を渡すまいと必死で戦ってくれた。顔を骨折するほどのひどい怪我だったのに。あなたが身を挺して護ってくれた時、私は本当の愛を知ったのです。――私は愛されている! このことがどんなに私を勇気づけたか。お姉様に愛されている、そう実感できたことが、私にどんな影響を与えたか。――あなたが敢然と誘拐犯に立ち向かった姿は、今も私の心に残っています。私はあなたのようになろうと、心に誓った。あなたが惜しみなく愛を与えてくれたように、私も大切な人に、惜しみなく愛を与えられる人間になりたいと思ったの」
綾乃の両手に包まれていると、長くつらい旅を終えて、やっと家に帰って来たような気持ちになった。
……もっと頼ってみてもいいのだろうか。
だって自分はこんなにもちっぽけで、脆く、愚かだ。
綾乃に頼って相談したら、この暗闇を抜ける方法を、一緒に見つけてくれるだろうか。
あなたは言った――あの男の影に怯えて生きるのは、屈服したのと同じことだと。
ならば私は怯えない。
だって誰よりも強く、凛としたあなたが、私の背を押してくれるのだから。
前を向こう。
だってあんなに小さかった綾乃が、立派に成長し、共に戦ってくれると言うのだから。




