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婚約者に愛されない悪役令嬢が予言の書を手に入れたら  作者: 山田露子 ☆ヴェール小説4巻発売中!
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87.光と影


 桜子は考えを巡らせながら、問題を先延ばしにするように、謎解きを優先させる。


「紫野惠理香に盗みをやらせた理由は? あなたならもっと早くに止められたはず。彼女は今、社長室に忍び込んでいるでしょう」


「日を改められると面倒ですから」


 実の母を、面倒扱いか……。


「彼女が持って出るのは、ダミーの情報ってわけね。でも、その先のシナリオは?」


「僕は嵯峨野重利に脅威を感じていません。どうせ僕がやらなくても、深草楓がトドメを刺してくれるでしょう? 嵯峨野は方々に喧嘩を売りすぎた。どのみち、行き着く先は決まっている」


 夏樹はそこで言葉を切り、眉根を微かに寄せた。不快そうな感情がそのおもてに滲む。


「……僕は冷徹に見えるかもしれませんが、これでも感情はある。母を見限るには、それなりの段階を踏みたかった。だからこれは、僕が母に対して課す、最後のテストでした」


「彼女が最後の一線を越えなかったら、許した?」


「土壇場で踏みとどまったなら……彼女が生きているあいだは、金銭的な援助をするつもりでした。たとえ他人同士になったとしても」


 どのみち縁は切るけど、ということね。


 非情だとは思わない。むしろ意外に甘いと感じた。


 しかし紫野惠理香が良心を取り戻し、踏みとどまることはないだろう。今頃、偽のデータを引き出しているはずだ。


 ――綾乃に紫野惠理香は止められない。


 ポッと出の小娘に止められるくらいなら、もっと早くに彼女は自力で更生していたはずだから。


「綾乃にICカードを渡したのはなぜ?」


 それにより、綾乃はセキュリティをパスし、社長室に入れてしまう。


 つまり窃盗中の紫野惠理香と顔を合わせることになる。


 夏樹の計画なら、綾乃が介入しないほうが、スマートに進行したはずだ。


 綾乃と彼の母があそこでかち合って、夏樹に何かメリットがあるのだろうか?


「……自分でもよく分かりません。なぜだろう……綾乃が僕のために必死になってくれたから、かな。綾乃が母を思いとどまらせることができたなら、それはそれでいいかと思った」


「だけどそれ、失敗したら綾乃が傷つくわ」


「あなたがそれを言うとはね。傷つけるつもりだったくせに」


 冷たく、突き放すような口調。


 確かにそうね。桜子は深く息を吐く。


 私が誰よりあの子を傷つけている。


 夏樹が真っ直ぐにこちらを見据え、尋ねた。


「あなたの目的が知りたい。僕と綾乃をどうしたかったんです」


「分かっているでしょう――別れさせたかった」


「なぜ? 僕ほど彼女を大切に想っている人間はいない」


「だからよ。あなたは――いざとなったら、脅威を排除することを、躊躇わない人だと思った。あなたは私によく似ている」


 桜子と夏樹の視線がぶつかった。火花が散ったようだった。


 ついにこの時が来た――鳥肌が立つような心地がした。


 まるで鏡を覗き込んでいるかのよう。対面にいるのは、夏樹であり、自分であり、深淵だった。


 あなたは、きっと――……


「あなたは僕が、誘拐犯を殺すと思っているのですか?」


「ええ、そうよ。あなたは罪悪感が薄いタイプでしょう。――きっと殺すわ、あの男を」


 初めは、軽い気持ちで夏樹を試した。『薄青の封筒』を用いて脅迫し、綾乃への愛の深さを量った。


 彼が綾乃に冷たくした時、正直、がっかりした。


 けれどだいぶたってから……背筋が凍るような、嫌な感覚に囚われたのだ。


 最近になるまで、桜子自身がその意味正しく理解できていなかった。


 ――桜子はおそらくずっと、夏樹に対して、本能的な恐怖を覚えていた。


 けれどその感情に蓋をして、考えないようにしていた。


 だって彼があまりにも自分に似ていたから。


 彼の中の闇を見つめるのは、自分の問題点と向き合うようで苦痛だった。


 だから単純に『気に入らない』『綾乃を任せるには物足りない』とけなして、終わりにしようとした。


 それが一番楽だった。


 しかしある時――考えないようにしていたのに、桜子は答えに辿り着いてしまう。


 彼は『薄青の封筒』の指示――『婚約者である綾乃に冷たくする』という指示に従いながらも、結果的に綾乃を失っていなかった。


 夏樹は綾乃を愛し、抱え込んで、決して離さない。


 拒絶しているようで、あの子を縛っている。あの子が解放されないのが、その証拠だ。


 どうやっているのか、方法は分からない。けれどおそらく高度な心理操作で、綾乃をがんじがらめに縛り、逃げられないようにしている。


 綾乃は自覚すらしていまい――なぜ冷たくされても、夏樹を諦められないのか。


 答えは簡単だ――夏樹が別れを認めていないから。


 不意に、夏樹が笑った。肩の力が抜けた、綺麗な笑みだった。


「では、お尋ねします――僕が綾乃の誘拐犯を殺すとして、それがあなたになんの関係があるというんです? あなたにとっては、望ましい結果のはずだ。あの男がこの世から消えることを、誰より望んでいるくせに」


「綾乃の結婚相手が、人殺しであってはならないわ! それはバレなければいいという話ではない。罪人のくせに、清らかなあの子のそばにいようだなんて、図々しいにもほどがある」


「じゃあ僕と別れさせたとして、あなたはどうするつもりなんですか。出所した誘拐犯が綾乃に付き纏ったら、どうやって護るんです」


 なぜ、そんな分かり切ったことを訊くの! 答えはもう出ている。


 あなたと私は似ている。自分がどうなろうとも関係ない。


 大切なものはただひとつ――ただひとりだ。


 そこにすべてを賭けられる。ためらいはない。


 桜子は意識して声を抑えた。そうでないと叫び出してしまいそうだった。


「未来が分かったら……便利だと思ったことはない? 私はあるわ。あらかじめ正しい道筋が分かっていれば、人は迷わない。私はあの子にそれを示したかった」


「そんなふうに綾乃を操り人形にして、何が得られる? 彼女の良さなど、そこにはすでにない」


 何も知らないくせに! 私の苦労など何も知らないくせに!


 自制心は容易く吹き飛んだ。


「だけど私はあの子に生きていてほしいの! あなたには分からないわ――あの誘拐犯の異常な執着が、あなたには分からない。それは当然よ、あの場にいなかったのだから。あいつは普通じゃなかった。あいつは決してあきらめない。だから私は決めたの。あいつは私が殺す。出所したら、すぐに殺してやる」


 涙が頬を伝った。


 怒り狂う段階はとうに過ぎた――積もり積もった激情は、次第に強固に研ぎ澄まされ、諦念を伴った覚悟へと形を変えている。


 自分で殺せなかった時のことも想定し、それについても対策は立てた。


 予言の書計画のスタート時――階段落ちのイベントで、桜子は命を失う危険があった。


 もしも桜子が死んでいたなら、その死後、父宛に手紙が届くようにしておいた。『私が死んだ責任は、すべてあの誘拐犯にある。後生なので、仇を取ってほしい』そう書いておいた。


 父は桜子を溺愛しているので、娘を失えば、誘拐犯を始末してくれるはずだ。


 たとえ綾乃のためには、指一本動かしてくれなかったとしても、桜子の願いならば聞いてくれるはず。桜子は目的が達成されるなら、経緯はどうだってよかった。


 自分が死んだとしても、父が必ず――そう思えばいくらか楽になれた。


 結果的に、桜子は無傷のまま、階段落ちを切り抜けてしまった。


 それは天啓のように思えた。


 ――やはり私があの男を殺すべきなのだ。


 夢の中で何回もあいつを殺した。


 刺して、突き落として、銃で撃って、火を点けて。


 何回も何回も何回も殺した。


 でも朝が来て、あいつが生きていることを思い知る。


 ああ……いっそ早く出所するといい。


 私は早く楽になりたかった。殺して終わりにしたかった。


 けれど私が罪を犯す時、綾乃には近くいてほしくない。


 できればどこか遠くへ――うんと遠い場所にいてほしい。


 危険からもっとも遠い場所にいてほしい。


 そして愚かな姉の姿を見ないでほしい。


 あの子にとって、自慢のお姉ちゃんでいたいから。


 しかし普通の生活が続けば、あの子は大切な者を置いて、遠くに去ったりはしないはずだ。


 だから――もしも上手く、予言の書が本物であるとあの子に信じ込ませることができたなら。


 あの子の大切な者――それは桜子、もしくはほかの誰かであるかもしれない――その大切な誰かを助けるために、遠くに行かなくてはならないと、綾乃を洗脳することができたなら。


 桜子が終止符を打つまで、あの子を安全な場所へ逃がしてやれるのではないかと思った。


 予言の書を信じきって、それに従って、どこか遠くへ行っていてほしい。


 できれば海外がいい。


 そして場合によっては、それはとても長い期間を要するだろう。


 ――どうかお願い、言うことを聞いて。


 ここに留まってはいけない。


 これが馬鹿げた計画だってことは分かってる。


 けれど桜子はほかに良い案を思いつかなかった――綾乃を危険から遠ざけられる、ほかの方法を、何も。


 そして実行するには、夏樹の存在が邪魔だった。マインドコントロールに必要なのは、孤立だ。


 愛する彼とつながりがあれば、きっとあの子は予言の書に傾倒しない。


 すべてが決着したあと、綾乃が夏樹を取り戻すのは、別に構わない。


 けれど私は、どうしても。


 私は綾乃の姉として、彼女が愛する紫野夏樹を、人殺しにするわけにはいかなかった。


 愛が深すぎて罪人となるなら、別れてもらったほうがうんとマシだ。


 勝手な言い分だが、彼がもっと健全な人間だったら、こんなことを恐れる必要はなかった。


 それはたとえば――『薄青の封筒』で脅した時に、綾乃への愛を誓い、破れかぶれで脅迫に逆らうくらいの、健全で向こう見ずな人間であったなら、どんなによかったか。


 しかし夏樹という人間はそれとは真逆だった。


 表面上は従順な態度を取りながら、それでいてその内実は、ずっと狡猾で激しい。


 彼が簡単にボーダーラインを越えそうな人間だから、桜子は追い詰められたのだと思う。


 ――桜子は七歳で誘拐されて以来、ずっと昏い場所に立っている。


 そこを抜け出せない。だから明るい光を誰より求めるのだ。


 こういうタイプの人間は、自分を助けてくれそうな相手にはとても敏感だ。


 桜子の見立てでは、夏樹はどうあっても太陽にはなりえなかった。


 それは彼の不幸な生い立ちに原因があるかもしれない。


 彼も桜子と同じく、昏い場所にいる。


 だから光を求めるのでしょう――綾乃という光を。


 彼はそれを失わないためなら、なんだってするはずだ。


 夏樹が仄暗い瞳でこちらを見つめた。そして思いもかけないことを口にした。


「確かに僕は、必要ならば、そうすることをためらわないでしょう。――けれどあなたは、根本的に思い違いをしている。僕はあの男を殺さない」


 誤解のしようもないほど、きっぱりと言われた。


 桜子は呆気に取られた。


 え……なんですって?


 頭が激しく混乱する。状況がまるで理解できない。この男は一体、何を言っているの?


「あなたは僕にたくさんの意地悪をしましたね。だからこれは仕返しです」


「どういうこと?」


「実は長いあいだ――そう、数年という長きにわたり、僕があなたにとんでもない嫌がらせをしていたことが、後日判明することになるでしょう。それはあなたを苦しめようと意図していたわけではないのですが、結果的にそうなってしまった。まぁここ数日は、正直、『ざまぁみろ』と思っていましたので、悪意がまるでなかったとは言いませんが」


 シレッと涼しい顔でそんなことを言う。


 桜子はいつも他人を混乱させる立場にいた。


 だからこんな事態は初めてだった。


 得体が知れない。苛立つ――知りたい――なんなの?


 けれど夏樹は肝心の答えをくれない。


「種明かしのタイミングは、こちらで決めます。そのくらいのことは許されると思っていますよ。この一年、僕は辛酸を舐めてきた。だからこの嫌がらせで、チャラにしてさしあげます。答えが分かるのは、数日後かもしれないし、もしくは数年後まで引き延ばすかもしれない。どのみち――先に綾乃に話さなければならないから、あなたが真実を知るのは、そのあとになる」



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