86.お披露目パーティー【side-B】
「これ以上はだめだ――桜子さんは、絶対に越えてはいけないラインを越えようとしている。」
夏樹を嵌めようとしている桜子の暴走を、本気で止めようとしたヒカル。
彼は友達として、桜子が人の道から外れるのを許さなかった。
「じゃあ、私を殺して。そうしたら私は止まる」
安っぽい台詞……自分でも呆れる。けれど、実はこれが本音なのかも。
どうしてもやるしかない。だけどつらい。しんどい。
綾乃を護れていないのに、無責任にすべてを放り出したくなった。いっそ誰かが私を殺してくれれば、すぐに楽になれるのに。
ヒカルは傷ついた瞳でこちらを見てきた。自分には止められない……それを悟ったのだろう。
桜子は胸を痛めた。
……ごめんなさい、ヒカル。
でも今さらやめられないの。だから振り返らずに、このまま進むわ。
もうあなたもいらない。
さようなら、ヒカル。
友達になってくれて、ありがとう。
* * *
――最終シナリオの標的は、紫野夏樹。
勝つのは桜子か。夏樹か。
あるいは共倒れになるのか。
今回キーマンとなるのは、柏野武――紫野社長の秘書だ。
年齢は三十代前半。彼は表向き、非の打ちどころのない優秀な社員ということになっている。しかし彼には裏の顔があり、桜子はその弱みを運良く掴むことができた。ありふれた弱みといったらなんだけれど、女と金の問題で、十分に脅迫のネタになる。
この数日間、桜子は精力的に動き回った。
秘書の柏野武に接触し、彼を脅して、仲間に引き入れた。柏野武が仲間になったことで、彼から面白い話を聞くことができた。
実はこの秘書、紫野氏の妻・惠理香から、以前より何度も誘いをかけられていたのだそう。
紫野惠理香は、夫の会社から企業秘密を盗み出そうとしていた。――顧客の情報や、従業員の個人情報、社外秘の財務情報など。
それを恋人の嵯峨野重利に渡そうとしているらしい。
嵯峨野重利は、紫野惠理香に盗みの実行犯をやらせることで、紫野社長を追い込む目的もあるのだろうか。――妻が犯人となると、紫野社長も厳しい立場に追いやられる。
企業秘密の盗難か……。
初め、桜子は尻込みした。問題が大きすぎて、自分の手には負えないかもしれない。
盗難が実行されてしまうと、紫野社長の会社が大打撃を受ける。西大路家は紫野家の傘下に当たるので、上の紫野家が傾けば、当家も同じ運命を辿ることに。大勢の社員の生活がかかっている。
どうしたものか……。
けれど桜子は『大丈夫』と自分に言い聞かせた。企業秘密は実際に盗ませるが、それを『使わせなければいい』――使う前に、嵯峨野重利を脅して、盗んだデータを回収する。
そのために嵯峨野重利の弱みは握ってある。
危険は確かにあるが、やるしかない。
綾乃と夏樹のあいだに決定的な溝を作るには、『綾乃のヘマで、企業秘密が盗まれた』という既成事実を作らなければならない。
一度盗まれたという事実があれば、あとでそのデータが戻って来たとしても、紫野社長はこれに関与した綾乃を絶対に許さないだろう。
ふたりの婚約が破棄されれば、夏樹と縁が切れるから、桜子が予言の書の作者であることを、綾乃に知られずに済むかもしれない。
そんなはずはないのに……桜子は都合の良い夢に縋ることにした。
最終決戦は、金曜日。
紫野社長主催の、新社屋お披露目パーティーですべて片づける。
計画はこうだ。
まず準備段階として、前日までに、紫野社長の秘書である柏野から、紫野惠理香に計画を持ちかける。
「金曜日のパーティー当日なら、企業秘密を盗み出せるかもしれない」
紫野惠理香は乗ってくるだろう。元々機会を窺っていたのだから。
細かい計画は柏野が立て、紫野惠理香、嵯峨野重利に指示をする。
秘書が計画に加わるのだ、大抵の問題はクリアできる。
桜子は柏野に、「綾乃が紫野惠理香を止めようとするが、失敗するシナリオにしたい」と指示してある。とりあえず綾乃には、社長室に入ってもらわないと。
綾乃が自力で社長室への入り方を見つけられない場合は、柏野が上手く誘導する手はずになっていた。
……私は冷静な判断力を失っている?
桜子は自問自答してみた。
そうかもしれない。
けれど止まれなかった。友人のヒカルに苦言を呈されても、止まることができなかった。
桜子は怒りで我を忘れていたのだ。激情が、自身の腹を食い破り、暴走を始めていた。
怪物と化した私を止めることができるのは、誰だろう。
それは、おそらく――……
* * *
金曜日。パーティー当日。
新社屋の地階――駐車場と隣接する広大な機械室に、桜子はひとりで立っていた。
ここは空調や電気関係を制御するための部屋で、床面積はかなり広いものの、機械類が多く配置されており、意外にごちゃごちゃしている。
床には太いコードが剥き出しで這いまわり、その有様はまるで巨大な生きものの内臓を思わせた。
微かな物音がして振り返れば、夏樹が歩み寄って来るのが見えた。
「――ここはまだ工事が完了していないんです。だから見苦しくて申し訳ありません」
夏樹は『ふたりのあいだには確執などない』というように、静かな声でそう言った。
桜子は足元の黒いコードを見おろした。本来ならば、これは床下に這わせるなどして、晒されるはずのないものだ。
見せてはいけない裏の部分。まるで私みたい。
今日の桜子は白いドレスを身に纏っている。
死に装束のようだと思った。幕引きに相応しい。
桜子の心は静かだった。ずっと荒れ狂っていたのに、不思議なことだ。
認めたくなかっただけで、本当は、とっくに気づいていた。様々な断片から。
今、大きなうねりの中にある――それを作り出しているのは自分だと思っていたけれど、違ったのね。
だから終わりを受け入れよう。
深呼吸をして、顔を上げる。しっかりと背筋を伸ばした。
準備を整えた桜子に、夏樹が告げる。
「住吉忍は来ません。貴方と話をしたかったので、遠慮してもらいました」
桜子のほうも、夏樹と話をつけるつもりでいた。
しかし桜子の予定では、それはもう少しあとになるはずだった。
企業秘密が紫野惠理香によって盗み出されたあと、綾乃が窮地に陥る――そしてすべてが手遅れになったあとで、桜子と夏樹は互いに感情を爆発させ、罵り合うことになるだろうと思っていたのに……。
「……何を話すというの?」
興味があった。彼が何を語るのか。
桜子のほうは――昔は彼に言いたいことがあった。その大部分は恨み言だ。
桜子は彼に対してずっと『足りない』と思っていた。
綾乃を護るには、力が足りない。
年齢が足りない。妹の盾になれるような、もっと年上の男性が望ましい。
明るさが足りない。つらい経験をした妹を笑顔にできるような、陽気さがほしい。
彼が気に入らなかった。そのすべてが。
理屈じゃなく、ただ気に入らなかった。
だからこの一年ほどは、桜子の中で燻っていた昏い感情を、彼に対してぶつけ続けた。
薄青の封筒を使って。
すべてを知った彼は、今、どう思っているのだろう。
聞きたい。彼が何を語るのかを。
夏樹は視線を巡らせ――やがてこちらに向き直った。どうやら無難なところから始めることにしたようだ。
「まず、秘書である柏野の醜聞ですが、あれは僕が撒いておいたエサです」
「え、そうだったの?」
聞いた瞬間、腑に落ちた。
なるほどそうか……確かにそれならば筋が通る。
言われてみればそのとおりで、あれだけ用心深い紫野社長が、そんな危険人物を懐に置いておくわけがなかったのだ。
夏樹が説明する。
「薄青の封筒が届くようになり、正体不明の脅迫者『X』に狙われた僕は考えました。敵は徹底的にこちらの事情を調べ上げているようだ――だったら、あえてどこかに弱点を作っておこう。秘書の柏野は優秀な男です。彼に協力してもらい、偽の醜聞を作り上げ、それをエサとして撒き、誰かがコンタクトしてくるのを待つことにしました」
「その秘書って、呆れるほどあなたに忠実なのね。――嘘とはいえ、長いあいだ悪い噂が放置されれば、真実のように扱われるわよ。彼自身のキャリアに傷がつく」
「ちょっと変わった人なんですよ。名を捨てて実を取る――それを平気でできてしまう人なんです」
「考えられない」
自身の評判よりも、敵を嵌めるほうを選ぶ、か――あるじである夏樹のために。
そんな変人があちらサイドにいるなんて、予想しろというほうが無理な話だわ。
秘書のことを思い浮かべたのか、夏樹が微かに苦笑を浮かべたようだった。
……珍しい。
人形みたいに、感情がないのかと思っていた。
彼には彼の人生があって、近くに心を通わせている『誰か』がいる。
……私はもしかすると、何も見えていなかったのかしら。




