85.深草楓-5 『鼻にまつわるエトセトラ』
そろそろこの馬鹿げた争いに、決着をつけるべき時が来た。
彼には選ばせてあげよう――その身の振り方を。
今、彼は複数の脅威に晒されているわけだが、当人はまぁ呑気なもので、まるでそのことに気づいていない。
だからこれからじっくりと教えてあげようと思う。
* * *
「元町悠生を追い詰めるのは、僕にやらせてくれ」
先日、桜子にそんなお願いをした。
そもそも元町悠生と因縁があるのは、桜子ではなく、楓のほうだ。
――元町悠生のボスである嵯峨野重利が、父の会社を狙っている。攻撃を仕かけられたら、身を護らなければならない。
嵯峨野重利を打ち取るため、父と楓は親子で協力し、地道な調査を続けてきた。
なぜかその戦いに桜子が途中から加わり、派手に事態をかき回してくれたわけだが――その彼女が目をつけたのが、嵯峨野の手下である中等部の素行不良児、元町悠生だった。
敵陣営の一番弱い部分を狙う、それは確かに戦法としては悪くない。
しかし父と楓はあくまで本丸に狙いを絞り、嵯峨野重利を追い続けた。
父は温和な性格であるが、腹を括ると、一気に非情に転じる一面を持つ。
彼が本気になった姿を目の当たりにして、楓は寒気を覚えたほどだった。
……怖い。絶対にこの人を敵に回してはならない……。
まぁそんなわけで、敵を確実に潰せるネタを手に入れた。
楓たち親子はこれから嵯峨野本人に追い込みをかける予定であり、桜子の助力がなくとも、それは成功するはずである。
再起不能になるほどに、徹底的に叩き潰す。
それは後顧の憂いを断つためであり、これまでわずらわされたことに対する、意趣返しでもある。
しかし……楓はふと思ったのだ。
桜子の主目的は『予言の書』計画の完遂であり、本来、嵯峨野を止めることはどうでもよかったはず。
だとするなら、本件に関する幕引きは、枝葉の処理含め、こちらが行うべきなのではないか?
そこで元町悠生のほうも譲ってもらうことにした。
幸い桜子はすぐにこれを了承してくれた。
「私は今、紫野夏樹とバチバチにやり合っていて、手いっぱいなの。正直に言うと、元町悠生の後始末をしてくれるなら、助かる」
本人の許可も取ったことだし、さあ、では、始めるとしようか。
* * *
そんなわけで、楓の目の前には、元町悠生が座っている。
彼は中等部三年なので、楓の一学年下だ。
ふたりを隔てるのは、簡素な白いテーブル。
面倒なので、高等部の学食に呼び出してやった。
開放的なこの場所で、秘密の話をする――なんだか皮肉じゃないか?
ここにいるのは、楓と元町悠生のふたりきりだ。
では、ひとつ目のネタからいこうか。
「僕に協力してくれるなら、これは表に出さない」
写真を一枚、彼の前に滑らせる。
これは桜子が撮影した、渾身の一枚だ。撮影日はプレ・パーティーの開催日。
望遠レンズで、別の建物から、ホテルのスイートを狙って撮ったらしい。
……まったく、殺し屋みたいなことをするよなぁと、あとで話を聞いた楓は呆れたものだ。
「ボスである嵯峨野の奥さんに手を出すとはね。義務教育中の身で、ずいぶんヤンチャなことをする」
写真に視線を落とした元町悠生は、数回瞬きを繰り返したあと、形の良い眉をキュッと顰めた。
彼は今の今まで、今回呼び出されたのは、ゼミ関連の用事だと思っていたのだ。
元町悠生の表情を観察していると、少し時間はかかったが、彼が余裕を取り戻したのが分かった。
頭の中で素早く計算したのだろう――余裕で切り抜けられると。
案の定、彼が嘯く。
「深草先輩はこの写真を見て、あることないこと、妄想を膨らませているようですね。この写真――確かに、嵯峨野さんの奥さんと、ホテルの部屋にふたりでいる場面です。だけど俺は、嵯峨野さん本人から、奥さんの面倒を見るように申しつかってますんで。俺は彼の個人秘書みたいなものなんです」
「個人秘書ねぇ……それって彼の奥さんをベッドで楽しませる仕事も含まれているの?」
「違います。この時は、奥さんのために部屋を予約したので、挨拶に伺って、すぐに部屋を去りましたよ。ただそれだけの場面なのに、それを隠し撮りして、鬼の首を取ったように言われてもね」
確かにこれは、男女が絡み合っているきわどい写真ではない。ふたりが同室にいる、ただそれだけの場面だが……。
楓は軽くため息を吐く。
「便利に使っていた中等部のガキが、まさか妻に手を出していたとは、嵯峨野は夢にも思っていないだろうね」
「なんとでも言えばいい。決定的な証拠はない」
「じゃあ、これは?」
メール画面をプリントアウトしたものを、彼のほうに滑らせる。
君さ――仮面舞踏会で、緑のドレスを着た女に、スマートフォンを盗られたんだって? ご愁傷さま。
楓が提示した資料には、元町悠生と嵯峨野の妻の、生々しいやり取りが出ていた。
胸やけしそうに甘ったるく、肉欲に溺れ、自制心のかけらもない、馬鹿げた文字の羅列。
酔っているとしか思えない。彼らは何に酔っていたのだろう?
元町悠生の顔色が変わった。
たぶんね――彼は脇が甘くてこうなったわけじゃない。
これは一種の、破滅願望だと推測する。
彼は頭のどこかで、自分がこういう立場に置かれるのを望んでいたんじゃないか。
はっきりとこのビジョンを思い描いていたわけではないと思う。だから性質が悪い。
彼は悲劇の主人公になりたいのだ。ピンチの自分に酔いたい。退屈だから、ヒリヒリしたい。
だったら存分に酔うといい。――誰かにいじめられたい願望があるのなら、僕が相手をしてあげる。
たぶん、そっち方面の才能はあると思うんだ。
僕には嗜虐趣味があるからね。
口の端に微かな笑みを乗せて、語りかける。笑うような気分でもなかったが、笑顔という仮面をつけていないと、退屈すぎて目が死にそうなもので。
「写真とメールのやり取り――さすがにふたつ合わされば、嵯峨野も真剣に考えると思うよ?」
「やめてくれ……これがバレたら、嵯峨野に殺される」
元町悠生の声が掠れた。
おや、おかしいな……君、破滅願望があるんじゃないのか?
いざとなると怖くなるって、初めての女の子じゃないんだからさ。
「ああ、そうだ。君に言っておきたいことが、もうひとつある」
楓はゆっくり卓上で両手の指を組合せ、今度こそはっきりした笑みを浮かべた。
まったく桜子のえげつなさには引くよなぁ……なんて思いながら。
ああ、よかった、彼女が敵サイドじゃなくて。
怯えた様子の元町悠生を見据えながら、もうひとつの爆弾を落とす。
「――山ノ内小百合の件も、僕は知っているんだ」
彼女が鼻をいじったという噂が、一時期、中等部全体に広まったのだとか?
「え? 何を――」
「彼女、中々面白いことを考えるよね。『木を隠すなら森の中』――てやつ? 知られたくない問題を、別の派手な話題で覆い隠すなんて、やり口がなかなかに独創的だ」
元町悠生はすっかり顔色を失っている。こちらがすべてを把握しているのを悟ったのだろう。
君を絶望の淵に追いやってやる。
そこから飛ぶか、ぎりぎり踏みとどまるか、自由に選ぶといい。
「春休みに山ノ内小百合が鼻を整形した――そんな噂が広まっているが、実はコレ、噂を流したのは『山ノ内小百合本人』なんだよね。となると、どうしてそんな噂を広めたのかが、問題になってくる。――彼女の目的は、誰にも知られたくない秘密から、皆の目を逸らすことだった」
「深草先輩、あの」
必死で制したって、やめてやらないよ。
楓は冷徹に元町悠生を見据える。
「山ノ内小百合は春休みに、中絶手術を受けているね。――子供の父親は、君だ」
彼女が鼻の整形手術をしたのは本当。
手術を受けたと噂を流しても、鼻の形がまるで変わっていなかったら、怪しまれるから。
彼女はそこまでして隠したかったのだ。もうひとつの手術のことを。
「俺は……俺は知らない」
「知らないわけがない。彼女は再三、君に助けを求めたはずだが、君に拒絶され、ひとりで決断して手術を受けた。可哀想に。……ああ、彼女が可哀想と言ってるんじゃないよ。こっそり葬られた子供が本当にお気の毒だと思うだけだ。ところで――山ノ内小百合の父親が、かなり荒っぽい性格をしていることを、君はご存知かな」
彼は額を押さえ、うなだれてしまった。
……まあ知っているよね。有名な話だ。
山ノ内氏は反社会的勢力に属する人間ではないけれど、最近じゃ、堅気のほうが怖いってこともある。
「彼、かなり年がいってから娘――山ノ内小百合を授かったんだってね。目に入れても痛くないくらい、溺愛していると聞いている。なかなか子供を授からなかった彼が、待望の初孫を知らぬ間に失っていたと知ったら……その絶望はいかばかりのものだろう。本人に確認してみようか?」
「やめてくれ、やめてくれ、本当に冗談抜きで殺される」
切羽詰まった口調で、冷や汗混じりに、早口で懇願してくる。
――正直、知ったこっちゃない。
他人様の会社を乗っ取って、切り売りして、従業員含め皆の生活を滅茶苦茶にしても平気な輩に尽くして、手下として働いて、なんの罪悪感も覚えなかったようなやつだ。
そんなガキが、子供を作って、彼女が中絶手術を受けたことに対しては、なんの罪悪感も覚えていない。
やったことは悪いと思っていないけど、バレるのが嫌なだけだろ?
勝手に堕ちればいいと思う。こんなやつ、山ノ内小百合の父親にぶっ殺されればいいんだ。
「もうそろそろ、この胸の悪くなる会談も終わりにしたいものだ。君は進退窮まっているよ。嵯峨野重利か、山ノ内小百合の父親か――君はおそらくどちらかに殺される。だけど僕の言うことを聞くなら、この秘密は、墓場まで持って行ってもいい」
「何をすれば」
「嵯峨野重利の弱みを握っているだろう? 君はこの半年ほど、彼の手となり足となり、雑用をこなしてきた。目ざとい君は、決定的な何かを掴んでいるはずだ」
「俺がそれを漏らしたとバレたら、殺されちまうよ!」
「どのみち殺されるんだから、さっさと話せよ――決着はこちらで着ける。僕が勝つから、嵯峨野重利はこの世界から追放できるはずだ。よかったね、あとは山ノ内小百合の父親にさえ気をつければ、君の生存確率はぐっと高まる」
――三十分ほど元町悠生と親密に話し合いを続け、結果、楓は期待どおりの成果を挙げた。
元々こちらが掴んでいた嵯峨野重利の弱点を、これで多角的に補うことができた。直接対決は楽しいものになりそうだ。
――決戦は、今週の金曜日。
嵯峨野重利を叩き潰して、父と祝杯をあげるとしよう。
ああ……桜子に再会してから今日まで、長い長い十カ月間だったなぁ。




