84.深草楓-4 『学園の怪談』
桜子発案の階段落ち計画を、奏に伝えた。
彼は激怒した――絶対にそんなことはさせない、と。
まぁ、それはそうだろう。奏が反対することは分かっていた。
「奏、気持ちは分かるが聞いてくれ。桜子は自分でこうと決めたことは、絶対に曲げない」
「あいつが自分を曲げないなら、力ずくで止めるまでだ。落ちたらただじゃすまないんだぞ。あいつがかすり傷ひとつ負うのでさえ、俺は耐えられない」
いつも飄々としていて何事にも動じない奏が、我を失っている。そのことに楓は驚きを覚えた。
そうなのか……彼はこんなふうに彼女を想うのか。
ここ半年くらいで、奏は変わった。上手く言えないけれど、良い意味でちょっとお節介になったというか。
だからこちらも君に対して、少しだけお節介でいようと思う。
君にとってはキツイことを、あえて言うよ――友達だからね。
「桜子は死んでもいいと思ってるんだよ。分かる? そこまで腹を括っている人間のことは、誰も止められない」
「じゃあ黙って見てろと言うのか?」
「たとえ今回それを防いだとしても、彼女は絶対にまたやる。そして次にやるとなったら、彼女は僕に計画を知らせないだろう。どうせ危ないことをするなら、僕らが計画を把握している時にしてもらったほうがいい。僕らが――というより君が、彼女を助けるんだ」
奏が『正気を疑う』という顔でこちらを凝視する。顔色がひどく悪い。
この日、ふたりは長いこと言い争った。
楓は主張を曲げなかった。
ただ認めたくないだけで、奏も本当は分かっていたのだろう。
最終的に彼も納得し、そこからふたりの長い闘いが始まったのだった。
* * *
【ステップ1:スタート】
階段落ちの際、楓は階段上、奏は階段下という配置になる。
――楓は桜子から、階段上で修羅場に付き合うように指示されているのだ。
突き落とす役は誰がやるのかと思ったら、「問題のある女子生徒にやらせる」とのことだった。「楓の取り巻きの中で、周囲に迷惑行為を繰り返している、一番の意地悪女を選んだ」――そう言われ、名前を聞く前に見当がついた。
確かにその子はすぐに感情が爆発して相手を攻撃するタイプなので、カッとなれば、階段から桜子を突き飛ばすくらいのことはやりそうである。
エグイやり口だな、桜子……。
楓は階段上にいるので、できることは何もない。
助けるのは、下で控える奏が担当する。
幸い奏は足がとんでもなく速い。そりゃもう速い。百メートル十秒台の俊足だ。
とはいえこの勝負、不利な条件が揃っている。
まず、下で待機している姿を、階段上にいる桜子に見られてはならない。そうなると、階段横の死角からスタートせざるをえず、落下と同時に走り出して、墜落前に彼女を抱き留めるという、離れ業をやってのける必要がある。
そして百メートル走がいくら速いとしても、通常は初速が一番遅く、徐々にスピードが乗っていくものだ。
このケースでは超・超・短距離走になるから、スタートで絶対に失敗できない。
ふたりは現地をあらゆる角度から調査した。
最短距離、かつ、桜子から見つからない位置――当日、奏が待機する地点を決めるのだ。
……まいった。
奏と楓はげんなりして顔を見合わせた。
成藍の屋外大階段は、北から南に向かって下ってくる。
そして西は扇状にオープンになっているデザインなので、そちら側からスタートするのは不可能。階上にいる桜子から丸見えになってしまう。
反対に、東はレンガの高い壁がある。階段の東側に、校舎がくっついて建っているためだ。
そうなると、階段下――この東壁の陰に隠れるしかない。
ちなみにそのそばには、台座の上に乗った女神ニケの彫像(『サモトラケのニケ』のレプリカで、翼を広げた躍動感あふれる女神の体像――首と腕を欠いているのが特徴)が設置されており、この彫像と壁の隙間に潜む形となる。
桜子は派手な落ち方を望んでいるので、階段の中央部よりは、西寄り――扇状に展開している部分で落下するつもりのようだ。
頭が痛いことに、奏の待機場所からかなり距離があった。
――測量したところ、その距離四メートルであった。
* * *
【ステップ2:トレーニング】
トレーニング場面を誰かに見られてはならない。変な噂になるからね。
そこでふたりは夜十時すぎに現地に集合し、訓練を行うことにした。
警備員には事前に話を通しておいた。
さて――楓は階段上、奏は東壁下のニケ像のあいだでスタンバイ。
上から楓が『何か』投げて、奏が駆けつけてキャッチするという流れで進める。
何を投げるかだが、最初はふんわりしたものがいいか、となった。
そこで保健室に侵入し、枕を拝借。ひとつだとちょっと小ぶりなので、ふたつ借りて、紐でひとつに束ねた。
楓が上からフワリと弧を描くように投げ、奏が駆けつけてキャッチする。
桜子の落下時はフワリと落ちやしないだろうが、訓練を始めたばかりなので、難易度はあえて低めにした。
駆けつけて枕をキャッチする奏は、フリスビーに飛びつく大型犬みたいに俊敏だった。
しばらくのあいだトレーニングを続けるつもりだったので、枕は都度返さず、空き教室に隠して、キープしておくことにした。
――余談であるが、このことがきっかけで、後日おかしな噂が校内で広まることになる。
それは次のようなものだった。
昔、仲違いしていた名家の子息と子女がいて、結ばれない運命を嘆いて、学園で心中した。
彼らは生前、保健室で逢引していたので、霊となった今でも、そこに留まっているらしい。
時折、夜になると枕がふたつ消えることがあり、それは死んだ彼らが使っているのではないかという、奇妙奇天烈な話であった。
……そんな阿呆な。楓は半目になる。
百歩譲って、霊がいることにしてもいい。
だけどその場合、使うとしたら枕じゃなくて、ベッドのほうだろ。
* * *
【ステップ3:リハーサル】
枕キャッチで勘がつかめたので、次のステップに移行した。
特別教室から拝借した人体模型――これを『スロー&キャッチ』する。
いわば、本番さながらのリハーサルである。
これが成功したなら、本番も上手く乗り切れそうな気がする。
実験を開始してから、数分後……奏と楓は、階段下でバラバラの破片と化した人体模型の残骸を、言葉もなく見おろしていた。
……がっくりとうなだれる奏。
楓は彼の肩をそっと叩いて励ました。
――余談であるが、これまた後日、おかしな噂が校内で広まることになる。
それは次のようなものだった。
退屈した人体模型が、特別教室を飛び出し、大階段をひとりでダイブしたという、冒険心溢れる物語。
ちなみに人体模型だが、後日奏が新品を買って返したので、ご安心を。
* * *
【ステップ4:代案】
すっかり夜も更け、月光を浴びた横顔に神々しささえ漂わせながら、大階段を睨み上げていた奏。
彼が不意に緊張を解いた。
そして楓のほうを横目で眺め、口を開く。
「どうやっても間に合わない――そういう結論が出たと思うが、お前はどう思う?」
楓は渋々頷いてみせた。
「そうだね。どうやっても無理だ。桜子を説得してみようか……東の壁、ギリギリのところを落ちるように」
「いや、それはやめたほうがいい。あいつは勘が鋭い。そんなことを言い出したら警戒する」
「それじゃあ、どうすれば……」
楓はこの時かなり焦っていたし、苛立ってもいた。
しかし奏は悟りを開いたような顔で、こう述べたのだ。
「考えてみりゃ、俺は俺の得意なやり方を選択すべきだったよ。桜子の落下地点は決まっている――あの扇状になっているところだ」
「そうだね」
訳が分からず、楓はただ眉を顰めるのみ。
「間に合わないのなら、スタート地点を変えよう――つまり、東のレンガ壁を、あと一メートル、西側にシフトさせる」
「はぁ? お前、何言ってんの?」
とうとうストレスで頭が……? とその時は思った。
けれど奏はリラックスした調子で続けたのだ。
「ほら、上げ底と原理は一緒さ。構造上、本来の壁面の位置は変えられないが、それを覆うように、ダミーの壁を張り出させる。――下のニケ像も一緒に移動しちまえば、目の錯覚で、階段の幅が狭まっていることには気づかれまい。これからすぐ工事業者を手配して、明日の夜間、突貫工事を完了させる。そうすりゃ階段落ちの期日までに間に合うだろう」
……開いた口が塞がらなかったね。
だけど奏はやると言ったことは絶対にやる男で、宣言どおり、学園の外階段はこの日以降、一メートル狭くなった。
――そして後日、また新たな会談が校内で広まった。それは『失われた頭部を求めて動き回るニケ像』の話だった。
というか。
楓からすれば、一晩で壁の位置を変えてしまった奏のほうが、よほど怪談めいた存在だと思ったんだよね。
この男はまったく、とんでもない馬鹿か、とんでもない天才か、そのどちらかに違いない。
* * *
階段落ちのイベントを邪魔したせいで、楓は桜子からかなり恨まれた。
……墜落前に助けてあげたのに、人生ってほんと理不尽だ。
ああ、それから、最後にもうひとつ。
階段落ちの際、桜子の妹が駆けつけたわけだけれど、ニケ像の裏に控えていた奏にまるで気づかなかったので、彼が突然弾丸のように出現したことに、相当驚いたみたいだね。




