81.深草楓-1 『アメとムチ』
「飴と鞭――選ばせてあげるわ。どちらがいい?」
出会ってすぐに突然そんなことを訊いてくる女がいたとしたら、十中八九そいつはヤバイやつだ。
世の中には、絶対に関わり合いになってはいけない種類の人間がいる。
そんなことは百も承知だったのに……ああ、くそ。
西大路桜子にそう問われた時、深草楓はあまり考えることもなく「飴」と答えていた。
結果、彼女から与えられたものが本当に飴だったのか――それはまだはっきりしていない。
* * *
あれは十カ月前のこと。
一通の謎めいた手紙が、楓のもとに届いた。
中等部にある楓のロッカーに放り込まれていた、差出人不明の手紙――それにはこんなことが書かれていた。
『天使ちゃんのことで話があるので、本日午後四時、お会いしたく。場所は――』
まず冒頭の『天使ちゃん』という部分に気味の悪さを覚えた。
楓は妹のことをとても可愛がっていて、彼女に対して愛を込めて「天使」と呼びかけることがあった。
妹はまだ九歳。両親は離婚していて、妹は母に引き取られたので、たまにしか会えない。
楓からするとまだ小さな子供で、兄妹離れ離れという境遇もあり、妹にはどうしても甘くなってしまう。
とはいえ公衆の面前で、彼女を「天使」呼ばわりしてしまうと、妹が照れるのは承知しているので、そう呼ぶのはふたりきりの時だけ。
しかしこの手紙の差出人は、その秘密を知っているようだ。
それだけでも問題なのに、肝心の待ち合わせ場所の記載が『住所』ではなく、『緯度と経度』で表されていたことに、なんともいえない薄気味悪さを覚えた。
書いたのは変質者か……あるいは子供の悪戯?
妹が通う小学校の誰かが書いたという可能性もある。スパイごっこのつもりなのかも。
たとえ書いたのが子供であっても、妹のことを持ち出されては、放置はできない。
楓は表情を変えずに、その手紙をポケットに入れたのだが、実のところ腸が煮え返っていた。
* * *
指定された地点に行くと、そこは妹が通う小学校の前だった。
前といっても正門前ではなく、校庭に面した敷地の外である。
目の前には小学校の校庭を取り囲むグリーンのフェンスがあり、フェンスの向こう側にはちょっとした遊具が、そのさらに先には百五十メートルのトラックが広がっていた。
楓の現在地(指定された緯度経度)は歩道になっており、大きな樹木の陰で、人目を引かないロケーションである。
時刻はもうすぐ午後四時になろうとしていた。手紙の送り主はまだやって来ない。
……失礼なやつだな。五分前行動しろよ。
することもないので校庭のほうを眺めていると、二百メートルほど離れた花壇のそばに、女の子がふたり、男の子がひとりの、計三名がやって来た。
――あれは結衣だ。
妹の姿を認め、楓は眉根を寄せる。
結衣の隣にいるのは、眼鏡をかけた大人しそうな女の子で、確か一度会ったことがある。その時に妹から『友達』だと紹介されたような……? ちょっと記憶が曖昧だけれど。
身を乗り出し、フェンスに手をかけて、彼らの様子を見守る。
……これから何かが起こるのか?
三人は向かい合って立ち、話し始めた。かなり距離が離れているので、声はもちろん聞こえてこない。
向かい合う男子は大柄で、がっちりした体格だ。 学年が上なのか、あるいは単に背が大きいのか。
あれ……様子がおかしい?
結衣が怯えている気がする。楓が異変に気づいたのと、大柄な男子が足を踏み出すのとが同時だった。その男子は手を伸ばして、妹の胸を思い切り突き飛ばした。
結衣は吹っ飛ぶように後ろ向きに倒され、背中と肘を強く打ち、地面に転がる。
上手く半身を捻ったので、頭は打たなかったようだが、あの転び方では肘の皮が剥けたのではないか。かなり痛い思いをしたに違いない。
カッと頭に血が上った。
慌てて駆け出そうと向きを変えた瞬間、目の前に誰かが立ちはだかった。
楓はその人物を睨み据える。
「呼び出したのは、君か」
行く手を遮っているのは、十五、六歳くらいの女子だった。
紺色のパーカーを羽織り、そのフードを深くかぶっている。パーカーのファスナーはきっちり上まで閉められていた。
その下はグレーのスカートだが、あれはたぶん学校の制服だと思う。
「退いてくれ」
無視して通り過ぎようとしたら、彼女がサッと両手を広げた。
「ちょっと待った! まさか駆けつける気?」
「そのとおりだけど、何」
相手が女性じゃなければ、荒っぽい方法で退かせている。
苛立つ楓に対し、彼女は怯むことなく言い返してくる。
「頭を使いなよ。ここであなたが介入したら、妹さん、もっとひどい状況になるからね」
「何を根拠にそんなこと――」
「まあ、見てなさい」
そう言われて視線を戻すと、現場に新たな登場人物が加わった。
横から争いに割って入ったのは、ヒョロリと背の高い女子生徒だった。彼女の立ち位置から見て、結衣に味方してくれているようだ。
その子が介入した途端、あのクソガキは気まずそうに背を丸め、コソコソとその場から去って行った。
結局、ふたりの女子(元々結衣に付き添っていた友達と、今やって来た背の高い女子生徒)に介助されながら、妹が立ち上がったのが見えた。
「君が足止めしたせいで、加害者に逃げられたじゃないか」
忌々しい。思い切り顔をしかめると、対面している女がふん、と鼻で笑う。
「いや、あんた、ここから駆けて、間に合ったと思うの? 無理無理、どうせ逃げられたって」
「あのね、もういい加減にしてくれないかな」
不躾にもほどがある。
楓が怒ると、なぜか相手がキレ返してきた。
「あなたこそ、いい加減にしてくれないかしら。この口論で浪費した時間を、私に返して」
おいおいおい……イカレてるのか、この女。




